四、亀裂(1)

 この日に起きた事件は、貧民窟の少年少女が不審者に襲われただけでは終わらなかった。

 

「旧市街が?」

「ああ、火事だ」

 

 瑠璃姫の問いに対し淡々と答えたベルナールは、すでにほとんど身支度を終えている。

 

 掻き上げた金髪が絡まっているのはしかたがない。ふたりの寝室にやや荒いノックの音が響いたのは真夜中のことで、ベルナールは珍しくまとまった睡眠をとっている最中だった。だが彼がこの緊急事態に自分を優先するような男ではないことくらい、瑠璃姫だって知っている。だから

 

「すぐに戻る。留守は任せた」

 と急ぎ足で出かけるのを、

 

「言われなくとも」

 といつもどおりに見送ったのだ。

 

 瑠璃姫自身も対応に追われていたから、その間ほかの心配事――たとえばまだベルナールに明かしていないティナの妊娠のことなどを考える余裕もなかった。薄情なものだと自嘲する。明け方になって「事態は収束しつつある」という報告を受けてからようやく、ティナの顔を思い出したのである。

 

 やはり言うべきだろう。

 

 疲労で霞む目もとを押さえながら、瑠璃姫はこの数日間繰り返してきた自問に答えを出した。彼に半ば無理やりすべてを背負わせておいて、このことを隠しておくというのは誠実ではない。それに、ティナにとってもきっとそのほうがよいのだ。

 

 ベルナールが帰ってきたら、ちゃんと話そう。そう決意した、まさにその瞬間であった。

 

「申し上げます!」

 

 慌ただしく告げられた急報に、瑠璃姫は愕然とした。

 まだ終わっていなかった。事態は収束に向かってなどいなかったのである。

 

 年代記を見ると、六二四年六月三日に発生したこの出来事は火災ではなく、毒物災害およびテロ事件として記録されている。

 

 当時の言葉を借りるならば、そのときの様子は

 

『地獄だった(筆者訳。当時の宗教観にはそぐわないが言葉のイメージによるわかりやすさを優先した)。みな狂って徘徊し、互いに殺しあった。なかには自分で自分の鼻や舌や性器を削ぎ落とし、(はらわた)を引きずり出し、あるいは高所から身を投げ、そのまま動かなくなった者もいた。だれもがなにも見ておらず、そしてなにかを見ていた。声をかければ応える者もあるが要領を得ない。まるで(しかばね)酩酊(めいてい)して歩いているようだった』

 

 これは旧市街で密かに栽培されていた毒草が燃えたことにより、空気中に放出された有害物資が原因となって生まれた光景である。それらを吸い込んでしまった人々に現れた中毒症状を、当時の記録係は「地獄」と書き残したのだ。旧市街の大部分が失われた火災よりむしろ、その外にまで及んだこちらの被害のほうが大きかった。

 

 瑠璃姫はこの報告とともに、人々を狂わせた毒の根源であるものも受け取っていた。

 

 白い花だ。漏斗状(ろうとじょう)の、一見優美で香しい花である。だがその恐ろしさを、かつて毒について学んだ瑠璃姫は知っていた。

 

「……ダチュラ」

 

 それが、ウルズ王国では栽培が禁止されて久しいこの花の名である。

 

 ダチュラ・メテル。読者諸氏にとっては「チョウセンアサガオ」という呼び方のほうが馴染みがあるかもしれない。全草に毒を有し、経口摂取や喫煙によって体内に吸収されると、口渇、嘔吐、麻痺、興奮、妄想、錯乱、意識混濁、記憶障害、そして幻覚などの症状を引き起こす。とくに幻覚作用は強烈で悪夢としか言いようがなく、ドラッグ常習者ですら安易に手を出さないという。ちなみに我が国ではふつうに園芸植物として出回っているので、誤食による食中毒のニュースを目にしたことがある人も多いだろう。

 

 そういう植物であるから、いろいろあってむかしのウルズ王が栽培を禁じたのも頷ける。ただこれに関しては、ほかにも理由があった。

 

 ダチュラが、かつてこの地の支配者であった「銀灰の古王国」アッキア・ナシアを象徴する花だったからである。

 

 アッキア・ナシアの王は巫者(シャーマン)でもあり、霊的な力で国を治めていた。その宗教儀式に欠かせなかったのが、このダチュラであったというのだ。

 

 瑠璃姫は腹の底が冷えてゆくのを感じた。

 

 自分がいままでまったく無関心であった旧市街、つまりアッキア・ナシアの遺跡に、まだかの国の血が流れていたということか。しかしだとしたらなぜ、歴代の王はその事実を看過してきたのだ。

 

 あの視察の日、ベルナールが「旧市街に入るにはいろいろと準備がいる」と言ったこと、そして瑠璃姫を連れて行きたがらなかった理由がようやく理解できた。

 

 腐敗している。この国は、思った以上に腐敗しきっている。王が禁じたはずのものが王のお膝元で作られていた。それは、他ならぬ王が、それによってなんらかの利益を得ていたということではないのか。

 

 そこまで考えて、はっとした。先代のイシュメル王の晩年の様子。あれはまさか、この毒の作用によるものなのではあるまいか。

 

 それ以上は、もう考えたくなかった。けれど、一度そう思ってしまったらもう駄目だった。

 

 いやだ。怖い。もしかしたら、彼があんなふうになってしまうかもしれないなんて、絶対に考えたくないのに。

 

「……ベルナール」

 耐えきれなくて、その名を呼んだ。

 

「ベルナール」

 ここにはいない。何度呼んでも、ここに彼はいない。

 

 無事なのか。知っていたのか。そのことを知っていて、あえて自ら現場に向かったのか。危険を承知で。それを言わずに。

 

「……あの野郎」

 

 震える声を拾う者はなかった。それからしばらく、ただ続報を待つだけの時間が続いた。