二、王女の秘密(4)

 ウルズ王国が、一度滅びて隣国ヴェクセン帝国のものとなり、その後アウロラ女王の活躍によって再び栄華をきわめたことは、読者諸氏もよくご存知であろうし本書でも冒頭で簡単に触れた。

 

 その原因は「この人物である」と断言できるほど単純ではないのだが、本節で取り上げているシリウス王子、アレクシス王子、アウロラ王女、そしてエヴェルイートの四人が深く関わっていることは周知の事実である。

 要するに、玉座を巡る争いによる滅亡であった。

 

 それがどうも、各々が権力を欲したがゆえの結果ではないらしいというのだから、なかなか複雑な事情を抱えた兄弟喧嘩である。そのあたりは追い追いご理解いただくこととして、いましばらく幼少時の彼らについて語りたいと思う。


 シリウス王子はともかくとして、残りの三人は幼少時、とても仲がよく、多くの時間をともに過ごしたといわれている。それを物語るものが、現在もアヴァロン宮殿遺跡に残されている。


 広大な王宮の一角、回廊の一部であったろうと推測される柱の下部に、小さな落書きがある。お世辞にも上手いとはいえない人物の絵が三つ、横並びでこっそりと描かれている。

 

 真ん中の人物のみ女性で、両脇のふたりは男性であろうと見られているが、どうもそれぞれ筆致が異なるらしい。真ん中の女性はおおらかにかわいらしく、向かって右の男性は堂々と、もうひとりはかなり控えめに線も細く描かれており、遠慮が感じられる。このことから、三人のうちふたりはわりと遠慮なく王宮内に落書きができた王家の者、ひとりはおそらく臣下であろうといわれている。これが、幼少時のアウロラ、アレクシス、エヴェルイートの三人ではないかという説がある。サインが入っているわけでもないので真相は不明だが、これが描かれた当時の光景を想像するとほほ笑ましい。


 さて、アレクシス王子とも友好関係を築いたエヴェルイートに、じわじわと変化が訪れていた。


 最初はなにも気づかなかった。王女や王子と過ごす時間がただ楽しくて、嬉しかった。だれとでも分け隔てなく接する彼らを純粋に尊敬し、そばにいたいと思った。それがいつしかなんとなくアレクシス王子だけを目で追うようになり、遠くにいても見つけられるようになり、会えばなぜだか落ち着かなくてそそくさと逃げ出すようになった。それでも、毎日が満たされて、しあわせだった。

 

 そして十二歳になったとき、エヴェルイートは己の体に違和感を覚えた。恐るおそる確認してみると、平らだったはずの胸が、いつの間にかわずかに膨らんでいた。


 深い穴の底に叩きつけられたような心地だった。


 混乱する頭と体で、必死に解決策を探した。使い慣れた自室で何度も躓き、震える手で椅子を倒し、棚を荒らし、落としたものを拾っては投げ、ふと触れた金属の冷たさに、エヴェルイートは望みを見出た。それは、護身用の短剣だった。


 鞘の中から現れた真新しい剣身が、冴えた光を放ちながら青ざめた顔を亡霊のように映し出していた。エヴェルイートは考えた。そうだ、いらない部分は、削ぎ落としてしまえばいい。


 奇妙な胸の膨らみに、切っ先を当てた。


「なにをしているのですか!」


 いつの間にか、ウリシェが部屋の入り口に立っていた。見たことのない表情をしている。こんな悲鳴のような声もはじめて聞いた。ああ、彼女にまで、いやなものを見せてしまった。はやくこの気味の悪いものをなんとかしなければ。


「エヴェルイートさま!」
 ウリシェに腕を掴まれる。触れた箇所が異様に熱い。


「エヴェルイートさま、」
「いやだ」
「剣をお放しなさい!」
「いやだ」
「エヴェルイートさま!」
「いやだ!」


 妙な感触がした。同時に、拘束は解かれた。気づくと、ウリシェが胸元を押さえていた。その指の間から、つう、と赤い液体が流れる。よく見ると、自分の握っている剣の刃にも、同じ液体がついていた。


「……ウリシェ?」


 たしかめるように、助けを求めるように、その名を呼んだ。だが、苦痛に歪む彼女の顔を見れば、自分がなにをしたのかは明白だった。


「ウリシェ……ウリシェ、ウリシェ!」


 取り返しのつかないことをしてしまった。先ほどまでとは違う恐怖に、エヴェルイートは震えた。いまのほうが、ずっとおそろしかった。


「ウリシェ!」
「うるさいですね。すこしは落ち着きなさいませ、みっともない」


 ウリシェはわずかに眉を顰めながら、いつものように答えた。


「たいした傷ではございません。わたくしは簡単な医術もあなたにお教えしたはずですが、そんなことの判断もできませんか。だいたい、あなたの腕で人に致命傷を負わせることができるとでもお思いですか」
「…………」
「おや、珍しい。反論なさらないのですか」
「……め、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい!」


 震えは止まるどころかますます大きくなって、指先が冷えて固まってゆくのを感じた。聞き慣れたため息が聞こえて、それから、額にコツン、とあたたかいものが触れた。


「しかたがないので、いいわけを聞いて差し上げます」


 ウリシェの瞳の光が視界を覆って、さっき触れたものは彼女の額だったのだと知った。そのままじっと待っていてくれたので、エヴェルイートはようやくまともな言葉を取り戻したのだった。


「……気持ち悪くて」
「なにがです」
「だって、こんな、女みたいな」
「はあ、乳房ならわたくしのほうが立派なものがついておりますが」
「ちっ……!? う、ウリシェは女性(にょしょう)だろう! その……そういう、のは当たり前だ!」
「小さくてお悩みのご婦人もたくさんおられますけどねえ」
「なんの話だ!」
「人はそれぞれまったく違う、という話でございましょう?」


 ウリシェはさらりと、なんでもないことのように答えた。


「当たり前のものなど、世のなかにはひとつもございません。あなたが好きな食べものが、わたくしの嫌いな食べものだったということもあるでしょう。それを、ご自分と違うからといってあなたは責めますか?」
「そんなことは……」
「なさらないでしょう、あなたなら。ではなぜ、あなたはご自分を責めてばかりおられるのですか」


 エヴェルイートは答えることができなかった。そう簡単に答えられる問題ではなかった。ウリシェもそれはわかっているのだろう。答えを求めているというよりは、彼女の願いが込められているように聞こえた。事実、黙り込んでしまったエヴェルイートを咎めることもなく、彼女は静かに続けた。


「エヴェルイートさま、これだけは覚えておいてくださいませ。わたくしは、それがどのようなかたちであれ、あなたのご成長をたいへん嬉しく思っております」


 その言葉は、いまこの瞬間のエヴェルイートを救うには充分だった。すべてを受け入れられるわけではない。どうしようもない絶望が消え去ったわけでもない。だが少なくとも、両親から貰った、成長を願い喜んでくれるひとがいるこの体を、自ら傷つけるようなことはもう二度としないと決めた。


「……うん。ありがとう」
「素直すぎて気持ち悪いですね」
「おまえなぁ!」
「はいはい、ちょっと止血しますから、そこをどいていただけますか」
「ウリシェ、その……おまえがいやでなければ、それはわたしにやらせてもらえないだろうか」
「……そんなにわたくしの立派な乳房をご覧になりたいですか」
「そんなことは言っていない!」


 いつもどおりの空気が、ふたりの間に戻った。それが表面上のものに過ぎないということをエヴェルイートは理解していたが、それでよいのだと思った。もう子どもではいられないのだと、漠然と悟った。


 母アリアンロッドが倒れたという知らせが届いたのは、その二日後のことだった。