四、重なる糸(3)

 実はこのころ、エヴェルイートだけではなく、ウルズ王国上層部の人間がみな、ようやく奴隷に関心を持ちはじめていた。それは最近、隣国ヴェクセン帝国に誕生した若き新皇帝が、奴隷の解放を宣言したことに起因する。


 それまでヴェクセン帝国では、ウルズ王国と同じように亜人を奴隷として扱っていた。多大な影響力を持つ大国の思いきった改革がウルズ王国にも波紋を広げるであろうことは明らかであり、事実、すでに奴隷商人を筆頭に「預かりもの」たちが騒ぎはじめている。さすがに無関心ではいられなくなったのだ。


 エヴェルイートが帰城を急いだ理由も、これに関連していた。近々、そのヴェクセン帝国からの使者が、ここカルタレスにやってくるのである。


 ウルズ王国とヴェクセン帝国の間には雄大かつ峻厳な山脈が横たわっており、陸路での行き来は困難である。そのため多くは、ここカルタレス港を発着地とする海路を使う。今回の使者もカルタレスに着港し、そこからは陸路で王都を目指す予定になっている、と、先に届いていた書状には書いてあった。それを迎え、宿を提供し、次の中継地まで案内するのが、エヴェルイートらカルタレス城の人々に割り当てられた仕事であり、現在(いま)はその準備で大忙しなのであった。


「ただいま戻りました」
「おう、おかえり」


 父の執務室に入ると、からりとした笑顔で答えたのは別の男だった。


「スハイル、戻っていたのか」
「ああ、ついさっきな」


 この男、スハイルは父ヴェンデルの長姉の三男であり、つまりは父方の従兄弟である。二年前からカルタレスで衛兵として働いている三つ年上の彼とは、ともに翰林院(アカデミー)で学んだこともあって仲がよかった。


「どうだった?」
「それを叔父上に報告するところだ」


 スハイルは困ったように眉を下げ、執務机で筆を走らせる父に向きなおった。


「結論から言うと、取り逃がしました」
「だろうな。予想はしていた」
「さすがだ、叔父上」


 スハイルは今朝方、「春の一座」と名乗る旅芸人の一団を取り締まるために出かけていった。その名のとおり、春になるとどこからともなく現れる彼らに、為政者たちは毎年頭を悩ませている。三年前に突如現れた彼らは「真の自由」を掲げてあらゆる場所で身勝手に振る舞い、国の風紀を著しく乱していた。


「まったく……いっそ清々しいな、スハイル」
「そうだろう?」
「褒めてはおらぬのだがな」
「細かいことはお気になさるな、叔父上。しかし、やつら本当に忽然と消えるのですよ。目撃情報も途中で途絶えていました」


 いや参った、とスハイルは豪快に笑った。気持ちのよい男だと、エヴェルイートは会うたびに思う。つられて頬がゆるんだ。


「笑いごとではないぞ、スハイル。……わかっているな、エヴェルイート」
「は、はい。申し訳ありません、父上」


 なんだか今日は怒られてばかりだ。


「まあ、よい。動きがあったらすぐに伝えよ、ご苦労だったな、スハイル」
「承知。持ち場に戻ります」


 スハイルは一礼して、大股で歩き出す。扉のまえで振り返ると、


「エヴェルイート、ちゃんと休めよ。イージアス、頼んだぞ」


 頑丈そうな歯を惜しげもなく見せてから出ていった。


「……子ども扱いしないでほしいな」
「子どもに休めとは言わぬだろう。おまえの仕事ぶりを認めているからこその気遣いだ、ありがたく受け取っておきなさい」


 思わず漏れた呟きに、父が答える。


「そうでしょうか」
「ああ、本当に立派に育ってくれたものだ、ふたりとも」


 一歩うしろにいるイージアスが、気恥ずかしそうに視線を逸らした。出会った当初こそ敵意を剥き出しにしていた彼だが、いまではすっかり父に懐いている。父も息子のように思っているのだろう。かつてなにもわからずに「弟ができた」と喜んでいたのは自分だが、実際こうして兄弟同然に育ててくれた父には感謝している。無論、イージアスにも。


「だが、まあ、私から見ればまだまだ子どもだな」
「やっぱり。そうおっしゃると思っていました」
「いくつになっても我が子は我が子ということだ。さて、スハイルもああ言っていたことだし、すこし休むとするか。おまえたちの用も済んだのだろう?」
「はい、問題なく」


 エヴェルイートが頷くと、父も満足げに頷いて、筆を置いた。


「よし、では休憩だ。軽食でも用意させよう。イージアス、すまぬが手配を頼めるか」
「かしこまりました。おふたり分、ご用意するよう申し伝えます」
「なにを言っている、三人分だろう?」
「は?」


 ぽかんとした顔で固まってしまったイージアスに、父は指を折りながら言う。


「私と、エヴェルイートと、イージアス。どう数えても三人ではないか」
「え、いや、おれは」
「たまにはよかろう。一緒に」
「頂けません!」
「そうか……それは、残念だ」


 表情はほとんど変えず、だが見るからに肩を落とした父をまえにして、イージアスは口を忙しなく開閉させている。彼にこんな表情をさせられるのは父だけだろう。(かな)わないな、と思う。


「イージアス」


 観念しろ、という意味を込めて、エヴェルイートは兄弟の名を呼んだ。イージアスはしばらく唸っていたが、やがて大きくため息をつくと不貞腐れたように言った。


「わかりました! 用意させます、三人分!」
「ああ、頼んだよ」
「あとで呼びに参ります!」


 律儀に一礼してから、乱暴に出て行った彼の耳が真っ赤になっていたのは、気のせいだということにしておいてやろう。父のほうを見ると、してやったりという顔でほんのすこしだけほほ笑んでいた。


「嬉しそうですね、父上」
「いやなに、息子の成長を噛みしめていただけだ」


 息子。父がなにげなく口にしたであろうその言葉が、エヴェルイートには引っかかった。


 十二歳のあの日、胸がわずかに膨らんだ以外は、エヴェルイートの身体は「どちらにも」成長していない。女性としてのあかしも男性としてのあかしも未だ訪れておらず、この先も望めないであろうと思われた。そういう意味では、たしかにまだ子どもなのだろう。子を生す機能がないのだから。


「……エヴェルイート、こちらへ来なさい」


 いつの間にか俯いて、黙り込んでしまっていたエヴェルイートは、父に呼ばれて顔を上げた。執務机の椅子に腰掛けたままの父が、背もたれのうしろを指差している。言われたとおりにその場所に立つと、


「肩を揉んでくれ」
 という唐突な依頼。


「……ウリシェを呼びましょうか?」


 疲れているのであれば、医術に明るいウリシェのほうがよかろうと思ったのだが、父は


「おまえがいい」


 と譲らない。しかたなく拙い手つきで無駄のない筋肉を揉みほぐしはじめると、普段は見えない父のつむじが目に入った。ところどころ、白いものが混ざっている。そういえば、最近は目もとの皺も目立つようになった。父の重ねてきた年月をたしかめるように、そっとその肩を撫でた。


「なんだ?」
「いえ……父上もお年を召されたな、と思いまして」
「当たり前だろう。おまえがもう十七になったのだから」


 そう、エヴェルイートはもう十七なのだ。ふつうであれば、妻を娶り、跡継ぎを残すことが強く求められる年齢である。


「……父上は、わたしが生まれた日のことを覚えていらっしゃいますか?」
「忘れられるはずもない。あんなにおそろしい思いをしたことはあとにも先にもないからな」


 父は、教会に預けるべきであるエヴェルイートをその手で育てた、いわば神の教えに背いた大罪人である。それは恐ろしい思いをしただろうと想像したエヴェルイートに対して、父は思っていたものとまったく違うことを語った。


「なにせ生まれたばかりのおまえときたら、ふにゃふにゃと頼りなくて抱き方もわからぬ。父親など情けないものだ。あのときは、アリアンロッドにもずいぶん笑われたな」


 父の表情は見えないが、どこか楽しげである。それが意外で、いたたまれなくて、唇を噛んだ。


 なぜ、と、父に問いたいことは山ほどある。だが喉の奥になにか重いものが引っかかっていて、声は出せなかった。それを察して答えようとしたのかは定かではないが、短い沈黙のあと、父は独り言のように呟いた。


「……大きくなったな」


 開け放した窓から吹き込む風が、父の髪をわずかに揺らす。


「私の指をたった一本つかむだけで精一杯だった手が、こうして肩を包むほどになった。私の腕におさまるくらいだった体が、肩を並べて歩けるほどになった。泣き声しかあげられなかった口が、生意気なことを言うようになった」


 ひとつひとつをたしかめるように、慈しむように、


「おまえの生きる毎日が、私には嬉しくてたまらぬのだ」


 父は、言った。


「…………」
「どうした、手が止まっているぞ?」
「……はい。はい、父上」


 手のひらに伝わる父の体温が、エヴェルイートをじわりとあたためてゆく。それからイージアスが呼びにくるまで、ふたりはなにも言わず、ただともに過ごす時間を感じていた。

 

 

 

 

 


 それから一週間ほど経った早朝、エヴェルイートはイージアスやスハイルら衛兵たちを伴って、港に立っていた。


 まだ薄暗く凪いだ海に、ときおり雲間から光が射す。灰色がかった水面(みなも)にひと筋、太陽がくっきりと橙色の道を作ったとき、そのなかに一隻の船が現れた。

 

 紅く塗られた船体に黒で描かれた魔除けの蔦模様、帆には六枚羽を背負った(つるぎ)の紋章。間違いない。ヴェクセン帝国のガレー船である。


「予定どおりのご到着だな」
「面倒がなくて助かる」


 眩しそうに目を細めたスハイルに答えながら、エヴェルイートは使者を待った。船が近づき、やがて停まる。朝陽を背負った人影が降りてくる。人数は、十にも満たないか。だが徐々にはっきりしてくるその姿は堂々たるもので、大国の威勢を感じさせた。


 やたらと陽気な笑みを浮かべた先頭の男が、エヴェルイートのまえに立つ。豪奢な金髪に、垂れ気味の目は鮮やかな新緑の色。それをまっすぐ見上げて、エヴェルイートは言った。


「ヴェクセン帝国よりお越しのみなさまでお間違いないか」
「如何にも。我々が皇帝マティアスの名代である」


 金髪の男が、皇帝の署名が入った親書を広げて答えた。ウルズ王国とヴェクセン帝国では共通の言語を使っているため、通訳の必要はない。


「お待ちしておりました。私はカルタレス領主ヴェンデルが子、エヴェルイート。まずはご無事の航海への喜びと、歓迎を申し上げる」
「歓迎、感謝する。我が名はベルナール。大層な肩書きなど持たぬが、強いて言うならば皇帝の血縁といったところだ」


 よろしく頼む、と笑った金髪の男――ベルナールの名を、エヴェルイートは以前から知っていた。

 

 即位したばかりの若きヴェクセン皇帝、マティアス・アングラードと同じ母を持ち、父は先帝(すなわちマティアスの父)の弟という非常にややこしい血筋の男。つまり新皇帝マティアスの同母兄弟であり(ちなみにベルナールのほうが二歳年上の兄である)、父方の血筋で見れば従兄弟でもある。まあ要するに、


「大公殿下であらせられましたか」


 大層な肩書きを持つ男である。


「そうたいしたものでもないぞ。それに殿下と呼ばれるのは性に合わぬ。適当に呼んでくれ」
「……では、ベルナール卿、と」
「それで構わない」


 ベルナールが頷くのに合わせて、彼の両耳を飾る紅玉(ルビー)の雫が揺れた。


 ベルナール・アングラード、このとき二十四歳。のちに「賢人」アスライル・バルバートルを従え、ヴェクセン帝国の玉座につく男。


「ところでエヴェルイートどの、実は取り急ぎ確認せねばならぬことがある。早速で申し訳ないのだが、これはまことに重要な問題でな……」
「は、なにか」
「……妓館(ぎかん)はどこだ?」


 その男に対してエヴェルイートが下した最初の評価は、最低だった。