貧民窟のおひめさま(2)

 たしかに、ネンデーナは旧市街の宝だ。といっても、リュシエラはじつのところそれをよく理解していない。とりあえずわかっているのは、ここでは聖母子信仰と異なる多神教が浸透していて、彼女はその柱となる存在であるらしいということだ。「巫女さま」と呼ばれるのはそのためで、儀式や祈祷(きとう)を行う姿を何度も見ている。だが、それはそれとして。

 

「ネンデーナはおひめさまなんかじゃないわよね」

 

 夕方。(むしろ)を敷いた床に座り、豆の皮を剥きながら、リュシエラは口を尖らせた。

 

「おひめさま? ……どうしたんです、急に?」

 

 隣で薬草を選別していたネンデーナが、(しと)やかに首を傾げる。扉のない入り口から西陽が射し込み、ふたりで暮らすには広い家を黄金色に染めていた。

 

「ソランが言ったのよ。ネンデーナはおひめさまだって」

「まあ……うふふ、おもしろい子ですね」

「おもしろくなんかないわよ」

 

 とリュシエラが手を止めて詰め寄ると、ネンデーナは驚いたようにこちらを見た。強い西陽のなかにあってもなお、その瞳は静かな銀色だ。

 

「だっておひめさまって、もっとすごくわがままだわ」

 

 思い出すのは、二年まえの夜の出来事である。リュシエラのなかの「おひめさま」とは、つまりアウロラ王女なのだ。あんな人とこのひとを一緒にしてほしくない。それが、ソランの頬をつねった理由だった。

 

「リュシエラは、おひめさまにお会いしたことがあるんですか?」

「……まあね」

「そうですか。なら、きっとその方にはほんとうにそういう部分もあったんでしょう」

 

 ネンデーナはほほ笑む。

 

「けれど、それだけではなかったはずですよ。それにね、リュシエラ。わたしだって、わがままはたくさん言います」

「あなたが? わがまま?」

「ええ。ひとはだれだっていろんな顔を持っているものですよ。ですから、一部分だけを見てそれと決めつけるのは、あまりよくありませんね」

 

 そう言われると、もう反論できなかった。悔しくはない。ただ、面映(おもはゆ)くて、くすぐったい。

 

 リュシエラは視線を落とし、豆の皮剥きを再開した。ネンデーナはなにも言わないが、かすかに笑った気配がする。ややあって、乾燥した葉の擦れ合う音がした。

 

 この家の壁には、干した草花がところ狭しと並べられている。観賞用ではない。すべて薬になるものだ。巫女というのは、神に仕えて祈るばかりではないらしい。

 

 たとえば一昨年の冬、リュシエラがひどい熱を出したときにネンデーナが煎じてくれた薬はよく効いた。歌うような祈りの言葉と、絶えずどこかに触れていた手のぬくもりを覚えている。そういうことを、ほとんど毎日、彼女は旧市街のどこかでやっている。みんなはそれを巫術(ふじゅつ)だと言うが、リュシエラはそう思い込めるほど夢見がちな性格でもないし彼らの信仰に馴染んでもいない。だがネンデーナの行いは敬われるべきであるものに違いなく、そんな彼女とともに用意する食事の時間が、リュシエラは好きだった。

 

「終わったわ」

 

 顔を上げて、つるりと光る豆の山を差し出す。

 

「ありがとうございます。ずいぶん早くできるようになりましたね」

「当然よ。わたしにできないことなんてないわ」

 

 リュシエラが青臭くなった指を拭いながら答えると、豆の入った籠を受け取ったネンデーナは苦笑した。

 

「そうですね。あなたはなんでもすぐに覚えてしまう……喧嘩のしかたは、できれば覚えてほしくなかったんですが」

「必要だったから覚えただけよ」

 

 嘘ではない。ここで生きてゆくうえで、強さは非常に重要だ。それは初日にいやというほど学んだ。しかしどうやらリュシエラは、そもそも体を動かすこと自体が好きだったようなのだ。

 

 屋敷にいたころとは違い自由に走り回れる環境は、確実にその興味と才能を淑女(レディ)らしからぬ方向に成長させていた。

 

「まあ、元気でいてくれるならそれが一番です。でも、人を傷つけてはいけませんよ」

「だからわたしはなにもしてないったら」

 

 はいはい、と立ち上がったネンデーナのあとを追って、(かまど)のまえに立つ。先に火にかけておいた野菜が、鍋のなかでぐつぐつと煮えていた。そこに豆を投入するのはリュシエラの仕事だ。その手には余るほどの量だが、ネンデーナが籠を支えてくれるから難しくはなかった。

 

「今日は具が多いのね」

「ええ、お向かいのトーマさんが分けてくださったんですよ」

「そうなの。あとでお礼を言っておくわ」

「はい、そうしてください。リュシエラはちゃんと自分からお礼が言える、いい子ですね」

「子ども扱いしないで」

「あら、ごめんなさい」

 

 楽しそうに鍋をかき混ぜるネンデーナは、はたしてほんとうにそう思っているのだろうか。

 

「……ねえ、ネンデーナ」

「はい?」

「わたしはまだ集会に出てはいけないの?」

 

 うつむき気味に言うと、ネンデーナの手がゆっくりと止まった。すこし間があって、それからかすかに、鈴の音。

 

「……大人の大事な話し合いですから」 

「さっき子ども扱いしないって言ったわ」

「リュシエラ」

 

 しゃがみこんで、こちらを見上げる目はやさしい。

 

「そんなに急いで大人にならなくてもいいんですよ。できないことがあったっていいんです」

 

 それが心地よくて、どこか、苦しい。

 

「だれもあなたを置いていったりしませんから」

 

 ぐっと奥歯を噛んで、リュシエラは顔を背けた。

「べつに、そんなこと心配してないわよ」

 

 それに対して、ネンデーナはなにも言わなかった。ふわりと空気が揺れたあと、また鈴の音が聞こえて、彼女が鍋に向きなおったのがわかった。そろりと視線を動かせば、こっそり味見をする横顔が見える。

 

「ずるいわ」

「ずるくなんてありません。味見は大事ですよ」

 

 そう言いながら、ネンデーナは匙をこちらに差し出した。何度か息を吹きかけてから口を開ける。ぱくりと舌で受け止めると、やわらかく煮えた野菜の旨みと豆の甘さ、それにすこし刺激のある薬草の味と香りが広がって鼻に抜けた。

 

「どうですか? イヤーヴァラ神にはご満足いただけそうですか?」

 

 イヤーヴァラは天候を司る神で、大変な美食家だといわれている。充分に冷ましたつもりの料理の熱さに身悶えしながら、リュシエラは頷いた。

 

「では、ご飯にしましょう」

 

 その言葉を待っていた。リュシエラは木製の椀を用意して、ネンデーナに手渡した。全部で三つ。リュシエラの分と、ネンデーナの分と、神々に捧げる分だ。それぞれに盛りつけが終わると、ひとつは祭壇に、残りのふたつは床に並べる。それからふたりで祭壇のまえに座り、額が床につくほど深く頭を下げた。

 

「今日の(かて)、明日の実りに心からの感謝を」

「心からの感謝を」

 

 一度頭を上げ、鉄でできた神々と目を合わせる。それから再び頭を下げたら、食前の祈りは終了だ。

 

「さあ、いただきましょう」

「いただきます」

 

 言うが早いか、リュシエラは匙を口に運んだ。

 

 食後にはまた祈りを捧げる必要がある。それは面倒で、よく知らない神々に対しての思いなどなにもなかったが、鉄の神像や祭壇の装飾を見るのはけっこう好きだった。

 

 それらのひとつひとつがなにを表しているのか、覚える気もあまりない。けれど抽象的な絵を連ねた独特の文様、とくにネンデーナの両手首に刻まれた腕輪のような入れ墨は、意味などわからずとも綺麗だと思った。