二、新時代の母(1)

 新時代の母と呼ばれるひとがいる。

 

 そのひとは伝説の美女としても名高く、絵画の題材となることも多い。描かれた彼女はたいてい大勢の子どもたちに囲まれていて、片手に竜の羽根を、片手に剣を持っている。子どもたちの肌や髪や目の色は多様で、なかには亜人もいるが、彼女は典型的なパルカイ民族である。子どもたちは彼女の実子ではないのだ。彼女は、生涯ひとりも子を産まなかった。手に持った竜の羽根はウルズ王国、剣はヴェクセン帝国をあらわしている。

 

 つまりはこれが、彼女の生んだ新時代の姿なのだ。

 

 直接改革を施したわけでも、世のなかを変える運動をしたわけでもない。ただ彼女は、多くの新時代の担い手を導き、育てた。

 

 その代表ともいえるのが、かの「賢人」アスライル・バルバートルである。

 

 彼にその有名な名を与えた彼女の本名を、しかし我々は知らない。よって出自も定かではなく、「瑠璃姫(るりひめ)」という通称から、いろいろと勝手に憶測するしかない。

 

 そこで本書では、彼女の存在とエヴェルイートを結びつけた。もちろんこれは荒唐無稽な創作だが、彼女の本名が知られていない理由としては一応成り立つ。要するに、明かせなかったのだ。

 

 だが、こう考えることもできないだろうか。

 

 あえて、自らその名を捨てたのだと。強い決意を持って、新たな人生を踏み出したのだと。

 

 であるならば、そのひとをエヴェルイートと呼ぶのはもう適切ではないだろう。瑠璃姫、と、これからは記述してゆくことにする。

 

 さてその瑠璃姫であるが、リュシエラが目撃したとおり、「夫」ベルナールとともに城下まで視察に来ていた。

 

 ここでひとつ注釈を入れておくと、たったいま「夫」と表現したがこのふたりは夫婦ではない。正式に婚姻を結んでおらず、ついでに言ってしまえば肉体的にもまだ結ばれてはいなかった。ただ、国民に「王さまとお妃さま」と呼ばれるような関係ではあるので、まあ、便宜上そう表現しても許されるだろう。ちなみに筆者はいまたいへんもどかしい思いをしている。

 

 そういう関係に落ち着いてしまったのは瑠璃姫の気持ちの整理が未だついていないということもあるのだが、やはり対外的な理由が大きかった。先述のとおり、瑠璃姫の出自が明らかになっていないため、王妃という立場につくにはいささか問題があるのだ。

 

 ふつうに考えれば、まだ若い(さき)の王后ウイルエーリアや亡きアレクシス王子の妻ティナを(めと)ってしまえばいろいろと都合がよいのだが(それはそれで問題も発生するということは置いておいて)、あえて瑠璃姫をこういう立場に据えたベルナールの心中は推して知るべしといったところである。

 

 一方の瑠璃姫も、決してこの状況を悲観してはいなかった。そもそも、この国の玉座につくことを避けていたベルナールにそれを促したのは、瑠璃姫なのだ。

 

「頼みがある」

 

 と切り出したとき、ベルナールは諸々の処理に追われて隈を作っていた。それでも

 

「なんだ、珍しいな」

 

 と甘い笑みを瑠璃姫に向けてみせたのはさすがというべきか。

 

「王になってほしい」

「断る」

 

 即答。だが瑠璃姫も負けてはいない。

 

「あなたが愛してやまないこのわたしの頼みだというのに?」

「それとこれとは話がべつだ。まったくこういうときだけ調子のよい……逞しくなったものだな」

 

 ベルナールの手が腰にまわされる。正面から顎を持ち上げられても、瑠璃姫は逃げることなくそれを見上げた。ただ、どうしても落ち着かないのはもうしかたがないと思っている。一応、その理由をちゃんと考えてはいるのだ。ただ素直に認められないだけで。

 

「頼みごとをするのは勝手だが、対価を支払う覚悟はあるのだろうな?」

 

 ドレス越しに背中を這う感触がある。じわじわと上がってきて、首すじへ。そこはもう生身の肌だった。

 

「それでわたしを手に入れたとして満足できるのか? あなたはわたしのなにに惹かれたのだ」

「顔だな」

「最低だ」

「なにを言う。人間だれしも最初に見るのは顔だぞ」

 

 とベルナールの顔が近づいてきたので、さすがにそれは()けた。手で押し返しながら睨みつける。

 

「はぐらかすな」

「はぐらかしているのはどちらだか」

 

 ひとつため息をついて、ベルナールは離れていった。再び書類の山に目を落とすと、眉間に皺を寄せる。

 

「言ったはずだ。私はあなたがたの玉座を奪うつもりはない」

「そのほうがいろいろと動きやすいからな」

「よくわかっているではないか」

 

 皮肉な笑みはこちらを向かない。その視線を遮るように手を置いて、瑠璃姫は身を乗り出した。

 

「だがだれを立てたところで荒れるのは目に見えている。だったらあなたが一番ふさわしいと、わたしは思う」

「知っているか? 私はあなたやアウロラどのを(もてあそ)んだ最低な男として認識されているのだぞ」

「ざまあみろ」

「おい」

 

 やっと顔を上げたベルナールの翠眼が目のまえにある。逸らさずに、まっすぐ見つめた。

 

「それがどうした。あなたの政治手腕はそんな醜聞で評判を落とす程度のものか」

 

 これは本心から出た言葉だった。この数か月、ずっと近くで見てきたのだ。いくら個人的には思うところがあったとしても、大事なことを見誤るほどこの視界はぶれてはいない。

 

「……ずいぶんと高く評価されたものだな」

 

 そう言って目を伏せようとするベルナールの頬を両手で捕らえる。そして強く、言った。

 

「もうだれにもあんな思いをさせたくない。この国は変わるべきだ」

 

 しばらくそのまま、黙って見つめあっていた。

 

 静寂を破ったのはベルナールの立てた衣擦れの音だった。手が重なる。ゆっくりと下ろされて、包み込むように握られた。

 

「……本当に逞しくなった」

 

 うつむいたベルナールの口から、かすかな声が聞こえる。それからもう一度、交わる視線。ベルナールの目がせつなげに細められたのはほんの一瞬で、すぐにそれは不敵な笑みに変わった。

 

「王には妃が必要だな?」

 

 ふたりが並んで玉座に腰をおろしたのは、それから二十日後のことである。