十、失えないもの(3)

 蒼い、景色のなかに立っていた。


 蒼い空の下、その色を写し取ったかのような蒼い花が、地面いっぱいに咲いている。その向こうに、蒼い稜線。左右も蒼い山に囲まれ、見上げればその(いただき)は、やはり蒼い雲を纏っている。吹き渡る風さえ、蒼い。


 透明な破片がきらきらと舞っていた。手を伸ばす。その小さな手を、大きな手がそっと包んだ。


 よかったね。
 ――うん。


 もう、だいじょうぶだね。
 ――……うん。


 幼い瞳と、それよりはいろいろなものを見てきた瞳で、見つめ合う。ああ、そうだ。そうだった。「瑠璃姫」は、幼いころに置いてきてしまった半身だ。理想とは違う自分。そうであってはならないと、切り離してしまった自分。


 けれどずっと、たしかにそこにあった、自分。


 もう、大丈夫。置いていったりしないから。全部、そのまま、受けとめてくれるひとたちがいるから。だから。


 一緒に行こう。
 ――うん!


 透明な破片がきらきらと舞っていた。その景色も、小さな手も、大きな手もすべて、しっかりと抱きしめた。


 どこからか光が射し込んだ。それを目指して、駆け出した。

 

 

 

 

 


 眩しい。朝陽が容赦なく降り注いでいた。


 火はかろうじて(くすぶ)っているが、この空間を暖めるほどの力を残してはいないようだ。それでもあまり寒さを感じないのは、うしろから張りつくようにして眠っているむさ苦しい男のせいだろうか。


「おい、こら」
 髪を引っ張ってみる。起きない。


「動けないんだが」
 腕を引っ張ってみる。外れない。


「いい加減……離れろ!」


 渾身の力を込めて、肩に乗っている顎を突き上げた。髭がチクチク刺さって地味につらい。無様に転がった男が、目を丸くして首を振った。それを見ながら立ち上がり、


「おはよう、イージアス。よかったな、美人に添い寝してもらえて」


 いい夢が見られただろう、と、エヴェルイート(・・・・・・・)は笑った。


 穴だらけの天井から光がこぼれ、イージアスの間抜けな顔を照らしている。なんだか、妙になつかしく思えた。


「おまえよく見たらひどい恰好だな。これでは完全に美女と人攫いだぞ。まあやけに似合っているような気がしなくもないが……おかしな真似はしてくれるなよ?」


 こんなふうに軽口を叩くのもひさしぶりだ。反論がないのをいいことに好き勝手言いすぎたのか、イージアスはふと真剣な目をして立ち上がると、こちらを見据えながらゆっくりと近づいてきた。


 知らぬ間に身長差が大きくなっているような気がする。見上げる顔に影が落ちた。頬を両手で挟まれ、身動きが取れなくなる。


「な、なに……」
 目と目が合う。その距離が近づく。そして、


「っ痛い!」
 ゴン、という鈍い音が、頭を揺さぶった。


「おまえ、頭突きはやめろ、頭突きは! 一応病み上がりなんだぞ!」


 昨日やられた名残もあって余計に痛い。イージアスは軽く口の端を吊り上げてから、何事もなかったかのように座りなおし、消えかけた火をつつきはじめた。


「この……覚えてろよ……」


 まだじんじんと痛む額をさすりながら、エヴェルイートもその隣に腰を下ろす。灰になった薪が、音もなく崩れて風に散った。


 話したいことは山ほどあった。だが、話すべきことは多くはなかった。


「おまえ、これからどうするつもりだ」


 単刀直入に訊くと、イージアスはまず天井を指差し、それをすっとまっすぐに下ろして、ある方角を示した。


「……竜を追うのか」


 その軌道は、昨日見た竜の動きそのものだった。竜の群れが向かった先には、人の往来を阻むように横たわるアロン山脈、そしてさらにその先に、ヴェクセン帝国がある。


『カルタレスを襲った竜は、我が国のものだ』


 ベルナールの言葉を思い出す。いやな予感がした。もしそれが真実だとしたら、これも無関係ではないのではないか。もし、ヴェクセンが竜を操るすべを見出していたとしたら。


「イージアス、おまえ、昨日のあれがなんだかわかるか?」


 と訊いたものの、エヴェルイートにはほとんど確信があった。竜の明らかに異常な行動を見ようともせず、ただ苦い表情を浮かべていたイージアス。なにか心当たりがなければ、ああいう反応にはならないだろう。それにもうひとつ。憶測にすぎないが、この事態に「彼ら」――イージアスと同じ古いパルカイの技を継承する「神話の民」が、関わっているように思えてならないのだ。


 イージアスは、すぐには答えなかった。答えようとはしたのだろう。だが、床に指を伸ばしては、なにか思案して引っ込めるということを繰り返した。


 エヴェルイートは黙って待った。よほど答えにくいことなら、結局はうやむやにされるかもしれない。それでもなにかしら伝えようとしてくれているのだから、ただ待つべきだと思った。


 やがてイージアスは意を決したように人差し指を床に押しつけ、


『禁術』


 とだけ、書き記した。


「禁術……」


 声に出すと、いやに恐ろしい響きだった。術、というからには、やはり昨日の竜の行動は自然のものではないのだろう。そしてそれをイージアスが知っているということは、つまり。


「……イージアス。ごめん。たぶん、すごく、いやなことを訊く。ごめんな。……気になっていたことが、あるんだ」


 今度は、こちらが逡巡する番だった。


 イージアスの目を見る。じっと見つめる。一度逸らして、また、戻した。大きく息を吸い込んで、口を開く。


「おまえはもしかして、あのとき……カルタレスが竜に襲われることを知っていたか、予測していたんじゃないのか」


 すぐそこにある瞳が、揺れた。イージアスは苦しげに眉を寄せ、そしてゆっくりと、うつむくように、頷いた。


「……そうか」


 なぜ、訊いてしまったのだろうと思った。気まずい静寂が流れる。エヴェルイートは軽く頭を抱え、それから、肩にかかる髪を乱暴に掻き上げた。


「ああー……もう!」


 イージアスが驚いたように顔を上げる。


「そんな顔をするな、馬鹿! これだからおまえは放っておけないんだ!」
 立ち上がり、手を伸ばす。腕を掴んで、引っ張り上げた。


「ほら、行くぞ」


 そのまま歩き出す。


 この手を離さずに行けば、きっと、もうあの手は取れない。けれど、たったひとつをいま、選ぶなら。


 ひとつしか、選べないのなら。


「なあ、イージアス。おまえ、わたしが欲しいだろう?」
 振り返る。


「わたしは、おまえが欲しい」


 最後の火が、明るく爆ぜて金色の朝陽に溶けた。