十二、「バイバイ。」(3)

 見る間に遠くなる。届かなくなる。けれど、その波ははっきりと見えた。駄目だ。やはり数が違いすぎるのだ。波。波が、飲み込んでしまう。彼らの姿を飲み込んでしまう。


「なんで!? みんなで逃げるって決めたじゃん!」
「だからだよ」


 狭く入り組んだ城下町を抜け、炎に包まれる城が近くに見えるころになってようやく、ユライは少年の疑問に答えた。


「逃げることを選んだ。つまり、未来に託すことを選んだ。だったら、その未来に繋げられるひとを、なんとしても無事に逃がそうって考えるのはおかしなことじゃないでしょ」


 その声は低く、冷静だ。


「最悪の場合でも、スハイルさえ生き残れば彼らにとっては勝ちなんだよ。だからああして、必死に敵を引きつけてる」


 では、少年たちのやっていたことは彼らが逃げるための手助けではなかったのだ。戦いの準備をするための時間稼ぎ。軍隊の移動を気取(けど)られないようにするための目くらまし。


 彼らを生かすためではなく。むしろ死地に送るために、あんな。


「いやだ」
 首を振る。


「やだよ、そんなの」

 意味のないことだとはわかっていた。それでも、そうすることしかできなかった。


「そうだね。でも、どうしても止められないものは……あるんだよ」

 ユライはそう言って、馬を走らせ続けた。


 喧噪すら遠ざかってゆく。彼らの声は、まだ、あのなかにあるのだろうか。


 そう思って移した視線の先に、二頭の馬が見えた。片方に山瑠璃とアイザックが、もう片方に七星とニコが乗っている。それが、せめてもの救いだった。


「ユライさま」


 アイザックが馬を寄せる。ユライがまえを向いたままで片腕を伸ばした。その手に渡された、抜き身の剣。その剣身が濃い色の液体で濡れているのを、少年は見逃さなかった。よく見れば、アイザックの顔や腕にも同じものがついている。怪我をしたのかと、問おうとしたときだった。


 七星とニコの馬が、高く(いなな)いて倒れた。乗っていたふたりも地面に投げ出される。もがく馬の脚には、矢が突き刺さっていた。


「七星、ニコ!」


 山瑠璃が悲鳴を上げ、アイザックが即座に引き返す。少年を乗せた馬も、ユライの手によって方向を変えようとした。が、背後から迫る馬蹄の轟きがその邪魔をする。


 ヴェクセンの騎兵だ。


 いつの間に。少年は戦慄した。もう追いつかれる。と思ったところにまた、


「こちらへ! お逃げくだされ!」


 カルタレスの兵が現れた。ここにも。ここにも、いた。戦うつもりで、待っていた。


 ニコが七星を抱き上げた。アイザックが馬から降り、代わりに七星を乗せる。それを馬上でしっかりと受けとめた山瑠璃に手綱を握らせ、


「絶対に放さないでくださいね」


 アイザックは馬の尻を叩いた。山瑠璃がなにかを言いかけたが、馬は構わず走り出している。馬を失ったふたりは、ただその様子を見送るだけだった。


「アイザック、ニコ」
 ユライが少年の腰をしっかり捕まえながら、振り向かずに言った。


「……なんでもない」


 それでなにか伝わったのだろうか。


「はい」


 アイザックが頷き、ニコは倒れた馬を持ち上げてそっと道の端へ横たえた。それから近くにあった太い木を引き抜くと、ヴェクセン兵に向きなおる。


 そちらに行っては駄目だ。こちらへ。早く。そう、言いたかったのに。


「おじさん!」
 口から出たのはたったそれだけで。


「ニコだ」
 ついに、それ以外の言葉を彼から聞くことはなかった。


 ユライが馬の腹を蹴り、再び景色が流れ出す。まただ。また、届かなくなってしまう。どうして。なんで。


「いっしょに……!」
 と言いかけて、思い至った。


 もし、あのとき。少年が、あんなことを言い出さなかったら。


 こうはならなかったのだろうか。さいごの瞬間まで、みんな、一緒にいられたのだろうか。そのほうがよかったのだろうか。


 生きていたかった。生きてほしかった。一緒に生きていきたかった。


『それはあなた個人の意見で、ただの我儘だ。人が望んでもいないことを、その人のためだと言って押し通すことが善意だとでも思っているんですか?』


 かつて、あの王女に言った自分の言葉が、刺さる。ああ、本当に。


他人(ひと)のことなんかわからないでしょう。だったら、余計な手出しはするものじゃない』


 本当に、あのとき自分は、ひどいことを言ったのだ。


 だれのせいだ。けしかけたのはだれだ。こうなったのは、だれの。だれの、せいだ。


『だれのせいでもないよ』


 そう言ってくれた、あのぬくもりをふと、思い出した。


 会いたい。
 いま、会いたい。


「ユライ、ユライ、ねえ、花梨(カリン)たちは? 花梨たちはちゃんと逃げたよね?」
「ああ、それなら」


 大丈夫。と、言ってくれるはずだったのだろう。言ってほしかった。どうしても言ってほしかった。でも、それは叶わなかった。


 言い終えるまえに、ユライの腕を、矢が貫くのを少年は見た。


「ユライ!」


 かろうじて落馬を免れたユライが、自分の腕を見て薄く笑う。

「……ッハ、最悪……」


 彼が触れたその特徴的な矢羽を、少年はもう覚えていた。あれは、ほんのすこしまえのことだ。ユライ本人が自慢げに説明していた、最高級品の矢。


サガン(うち)のじゃん……」
 そう、それは間違いなく、隣のサガン領で作られる矢だった。


「いやになっちゃうね、まったく」


 少年の耳もとにぽつりとこぼれたのは、きっと独り言だったのだろう。聞き返す間もなかった。ユライが馬を降り、少年に手綱を渡す。


「ごめんねぇ、僕ちょっと大事な用事思い出しちゃった。ここからはひとりで行けるかな?」


 笑うユライの腕を、鮮血が染めてゆく。少年は首を横に振った。いやだ。もうだれとも離れたくない。


「行けるよね? キミはいい子だもんね?」


 首を振る。ユライはもうこちらを見てはいなかった。その視線の先には、松明の灯りと、人影。いくつも、いくつもいくつも。ゆっくりとこちらに向かってくる。


「……やだ」
「行って」
「やだ」
「行くんだよ」
「やだ!」
「行け!」


 トン、と押されたのは、この背中だったのだろうか。それすらもわからないまま、駆け出していた。馬の乗り方なんて知らない。ただ手綱にしがみつくことしかできない。振り返ることも、できなかった。ごめんなさいすら、言えなかった。


 馬は少年よりよほど優秀で、(またた)く間に燃える城を通り過ぎ、山に入った。駆けて、駆けて、駆けた。当然のことだが、馬はなにも言わず、黙って駆け続けた。ひとりだった。どうしようもなくひとりだった。


「山瑠璃」
 どこにいるかもわからない。


「七星」
 生きているかもわからない。


「……花梨」
 それでも呼ばずにはいられなくて、すがるように、名前を呼んだ。そのときだった。


「先生!」


 応えた。呼ばれた。顔を上げた。


 そこに、いた。会いたかったそのひとが、いた。


「花梨!」


 嬉しかった。だから、周りが見えていなかった。花梨が必死になにかを伝えようとしていることも、わからなかった。それがわかったときにはもう遅かった。右目に激痛が走って、馬から転げ落ちた。


「先生ぇ!」


 彼女はこう言っていたのだ。


 来ちゃ駄目。と。


 痛い。痛い、全身が痛い、右目が。右目が、焼けるように痛い。なに。なんで。痛い。こわい。痛い。


 こわい。


「……だいじょうぶ」


 ふわり、と、全身をなにかが包んだ。それは、いつか感じたぬくもり。離れたくないと願った、ぬくもり。


「だいじょうぶだからね」


 そっと、目を開けた。ぼんやりとした視界のなかに、花梨のやさしいほほ笑みがあった。そのほほ笑みが、歪んで、そして、血を吐いた。おそるおそる見た彼女の胸に、剣が、刺さっていた。


「……――ッ花梨!」


 もう、なにも考えられなかった。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「やだ、だめだよ、花梨……!」
「だいじょうぶだから」


 なにが大丈夫なものか。だって、そんな、そんな、ことが。でも、あっていいはずがない。花梨が。どうして。どうしてこんな。


「……ごめんね」
「花梨?」
「ごめん」
「……なんで?」


 ああ、もう。


「褒めてあげればよかったね。偉かったね、先生。こわいのに、みんなのためにがんばろうって思ったんだもんね。ダメなんて言っちゃいけなかったね。偉かったね」


 もう。


「だれだっていやだよね、こんなこと」
 もう、これ以上は。


「でも……」
 お願いだから。


「生きて」
 言わないで。


「あんたは、生きて」


 別れの言葉なんて、言わないで。

 

 

 

 


「いやだぁぁぁぁああああッ!」


 なにも見えなくなったのは、涙のせいなんかじゃない。喉が引き攣るのは、泣いているからなんかじゃない。だって、これからも生きていくのだ。


 みんなで、一緒に。これからも。
 春になったら、また。みんなで。


 そう、思っていたのに。


 だれかに抱き上げられて、少年は、花梨から手を離してしまった。見えなくなる。届かなくなる。


 いやだ。


 花梨。
 花梨。
「花梨――!」


 どんなに呼んでも、どんなに手を伸ばしても、それはもう、届かなかった。


 六二三年、十一月十日、夜半。カルタレスは陥落した。


 そのなかで命を落とした亜人のことを語るのは、アスライル・バルバートルの自伝の他に、ない。