三、ふたりの王女(1)

 アヴァロン王宮で大変なことが起きていたころ、こちらも大変な状況であるはずの港湾都市カルタレスの一角では、商家の令嬢リュシエラの奴隷である少年がいつもどおり女主人の髪を結っていた。

 

 リュシエラ嬢は少年の作り上げる芸術的な髪型には無関心で、開け放った窓の外を眺めている。その視線の先の母屋から、最近はいろいろな噂話がひっきりなしに聞こえてきていた。

 

 曰く、領主さまが王さまに背き、身柄を取り押さえられたらしい、とか、領主さまのご子息が行方不明らしい、とか。竜がどうしたとか、隣国の偉い人がこうしたとか……広い離れで、世の流れとは無関係に暮らすリュシエラとその奴隷の少年にとっては、どうでもよいことであった。ただ、少年は「あの綺麗なひと、いなくなったのか」とすこし残念に思った。

 

 カルタレス領主ヴェンデルの嫡男エヴェルイートと、少年は一度直接会っている。まさかあのときのやり取りがあんな形に帰結したとは夢にも思っていないが、少年のなかに、それは忘れ難い出来事として残っていた。不思議な美しさを持つひとだった。見目だけではない。内面も、男女問わず魅了してしまうような。ああいうのを「魔性」というのだろうか。

 

 だとしたら、彼がいなくなったことは、この国にとってはよかったのかもしれない。少年は、数々の国の歴史を書物から学んでいた。そのなかには「魔性」の人によって国が傾いたり滅びたりした例が、少なからず存在する。

 

 少年は知らない。いま、まさにこの国がそういう状態であることを。そして、いずれ自身がそうした歴史の一部となることを、まだ、知らない。

 

 だが、そのときは確実に近づいてきていた。

 

 六月の、終わりのことである。第一王子シリウスの投獄の件が、カルタレスに伝わった。その情報を持ってやってきたのは、第一王女アウロラであった。

 

 王女は、兄王子の差し向けた軍隊をただちに撤退させることを宣言し、カルタレス領主ヴェンデルに深く頭を下げ、謝罪した。また、自身の事実上の許嫁(いいなずけ)であった青年の失踪を憂い、その父であるヴェンデルを慰めると、国を挙げての捜索を約束した上でこれからも両家の絆は変わらぬものであるとはっきり示した。その旨が記された、父王直筆の書状を広げて。

 

 これで、あの夜以来、王家とブロウト家の間に垂れ込めていた暗雲は晴れたことになる。ただ、失ったものが大きすぎた。

 

 領主ヴェンデルは、竜の事件で負った左脚の怪我のせいもあって次第に衰弱し、判断力を欠くようになっていった。いずれ実子のことを諦めた彼は甥スハイルを養子に迎えることになるのだが、そのころにはカルタレスは事件の傷痕も癒せぬまま荒廃しており、ついにはウルズ王国滅亡の火種となってゆくことになる。

 

 が、それはそれとして、いまはリュシエラ嬢とその奴隷の少年の話である。

 

 アウロラ王女の来訪とそれによってもたらされた情報は、少年たちの住む屋敷にも少なからず衝撃を与えていた。非パルカイ民族のコミュニティに属するこの商人の屋敷では、なにより、アヴァロン王宮に留まることになったヴェクセン帝国大公ベルナールの存在が大きな話題になった。実際に王宮で交わされた国家間のやり取りを彼らは知らないし、それを気にするのは彼らの仕事ではない。だから、彼らは自分たちの生活に直結する部分だけを敏感に捉えた。

 

 最近、突然奴隷制度を廃したヴェクセン帝国。奴隷という存在で成り立っている、ウルズ王国内の非パルカイ民族の生活。そのふたつの関係。

 

 商売が、大きく変わるかもしれない。変えられてしまうかもしれない。

 

 ましてや、数日まえまでベルナールが滞在し、その間に竜の襲撃という大事件が起きたカルタレスである。とりあえず落ち着いたように見えるこの事件だが、真相はまったく解明されていない。いろいろと、なにが起こるかわからないのだ。

 

 そういうわけで、人の出入りも激しくなりずいぶんと騒がしい母屋のほうを、離れの女主人と少年はただ眺めているだけだった。そうして、いままでと変わらない、ふたりきりの生活を続けるはずであった。

 

 別れは、突然だった。

 

 七月を迎えようとしていた、夜半。いつものようにリュシエラの寝台でともに眠っていた少年は、近づいてくる足音で目を覚ました。聞き覚えがある。これは、リュシエラの父親の足音だ。だがそれだけではない。もうひとつ、知らない足音がやってくる。

 

 体を起こして耳をそばだて、鼻をひくつかせる。妙な匂いではないが、やはり、知らない匂いだ。自然、鼻に皺が寄った。寝台についた両手を踏ん張り、前傾姿勢になる。普段は隠れている牙が剥き出しになり、喉の奥からは低い唸りが漏れた。来る。

 

 寝室の扉を開けて入ってきたのは、ふたりの男だった。ひとりは、リュシエラの父親である商人ドーバン。そしてもうひとりは、だいぶ白髪が目立つが青みを帯びた黒髪に紫色の瞳を持つ、やたらと身なりのよい見知らぬ男であった。

 

 ふたりは唸る少年を無視して近づいてくる。それが目のまえまでやってきて、しかも無遠慮に手を伸ばしてきたのでいよいよ噛みつこうとしたとき、

 

「うるさい」

 

 と、背後に寝そべる女主人に叱られた。途端、少年は小さく鼻を鳴らして項垂(うなだ)れる。

 

「……なぜ亜人がおるのだ」

 おとなしくなった少年を見下ろして、見知らぬ男が吐き捨てるように言った。

 

「これはその、番犬でございまして。なかなかよい働きをいたしますでしょう?」

 ドーバンが(へりくだ)って答える。

 

「下がらせよ」

 

 男の鋭い目に睨まれたドーバンは深く頭を下げると、少年の腕を掴んで力任せに引っ張った。幼く細い体はあっけなく床に叩きつけられる。それでもすぐに起き上がり威嚇を再開したのは、特別なものを守ろうとする本能か。だがそれも、

 

「いいわ」

 

 という他ならぬ主人の声で制止された。

 

 気だるげな様子で、女主人が上体を起こす。さらりと肩を流れた長い髪が、白くなめらかな頬を隠した。そこで少年は気づいた。だれにも見せてはならないはずの大事な主人の花顔(かんばせ)が、冴えた月光に晒されている。さすがに就寝時には外している面紗(ヴェール)はすぐに手が届くところにあるものの、もう遅い。リュシエラは堂々と顔を上げて、まっすぐに男を見据えていた。

 

「……なるほど、たしかに」

 

 男がその顔を見て、頷く。リュシエラに「常に顔を隠すように」と命じた張本人である父ドーバンも、なぜか満足げな様子であった。

 

「では、サイードさま」

 と笑みを浮かべる。ドーバンが呼んだその名を聞いて、少年は、はっとした。

 

『ブロウト家前当主サイード卿が懇意にしているのがその証拠』

 

そんなことを言っていたのは、数ヶ月まえの夜に現れた無粋な闖入者(ちんにゅうしゃ)だが、では、それがなんの証拠だと言っていたか。少年は覚えている。主人を動揺させた、その言葉を。

 

『あなたは本当はさる(とうと)いお方の姫君で、とある深い事情からこの屋敷に預けられているのだ』

 

 ……もし、いま少年のまえにいるサイードという男が「ブロウト家前当主サイード卿」であるとしたら。ゆっくりと膝を折り、(うやうや)しく(こうべ)を垂れた彼の先にいるのは、だれだというのだろう。リュシエラという少女は、いったい何者だというのだろう。

 

 少年の疑問に答えるように、サイードは言った。

 

「突然のご無礼をお許しください。お迎えに参りました……内親王殿下」

 

 およそ商家の娘には似つかわしくない、敬称を用いて。