一、幻影譚(1)

 現在のトレヴォリ共和国、古都カッサの美しい旧市街は、第二期ウルズ王国時代、王都アヴァロンと呼ばれていたころからの町並みを受け継いできた歴史的、文化的景観として世界遺産に登録されている。だがそれも六二四年当時、つまり第一期ウルズ王国崩壊直後にその地で生きていた人々にとっては、まだ見ぬ景色であった。彼らにとっての「旧市街」はもっと寂れていて治安の悪い、王都の(こぶ)のような貧民窟(スラム)だったのである。

 

 王都の一部であるこの場所がこれまで登場しなかった理由はひとつ。筆者が読者諸氏とともに追いかけてきた王侯貴族の目には、一切触れないものだったからだ。ではなぜ突然語りはじめたのかというと、そこにこれから追う人物がいるからに他ならない。

 

 その人物は十二歳の少女で、青みを帯びた黒髪と深い紫色の瞳を持っていた。およそ貧民窟には似つかわしくない容姿を持つその少女の名を、リュシエラ=アルスマーテルという。

 

 そう、アウロラ王女の、双子の片割れである。

 

 彼女はここで、新たな時代を迎えていた。聖都アルク・アン・ジェではない。アウロラが彼女の幸福を願ったときも、そのアウロラの生存が発表されたときも、この、王都アヴァロンの旧市街に、ずっといたのである。

 

 ここまで言えばもうお気づきであろう。聖都で生存が確認された「アウロラ」とは、リュシエラのことではない。

 

 前章の最後で、だれもが「リュシエラは聖都アルク・アン・ジェにいたのだ」と思ったことであろう。実のところ筆者もそう思っていたし、アウロラもそう信じていたに違いない。なぜならば、彼女の計らいで、リュシエラは安全な聖都に送られたはずだったからだ。

 

 およそ二年まえ、夏の夜。

 

「突然のご無礼をお許しください。お迎えに上がりました……内親王殿下」

 

 そう言って(ひざまず)く見知らぬ男を、リュシエラは寝台の上から静かに見下ろしていた。自身の出生の秘密が明かされた瞬間を、しかし()いだ心で受け入れていた。男の横には、父が同じように跪き低頭している。もう父と呼ぶべきではないのだろうと理解していながら、リュシエラは

 

「おとうさま」

 と呼びかけた。

 

 父は答えず、さらに深く頭を下げた。代わりに見知らぬ男が答える。

 

「殿下、この者は殿下のご尊父ではございませぬ」

「知っていたわよ、そんなこと」

 

 無粋な男である。まさか「内親王殿下」と呼ばれる日が来るとは思わなかったが、自分がこの家の娘ではないことなど、とっくに知っていた。

 

 リュシエラは寝台から降り、男に近づいた。気に入りの奴隷がなにかを言いかけたが、手で制して男を正面から見下ろす。

 

「あなたは、だれ」

「サイードと申します、リュシエラ殿下」

 

 その名を、リュシエラは知っていた。だからもう、訊くことはなにもなかった。ここを離れるときが来たのだと、それだけを思った。

 

 サイードのほうに片手を差し出した。サイードはそれを(うやうや)しく取り、立ち上がった。

 

「参りましょう」

 

 そのときである。影が動いた。それは凄まじい勢いで、サイードの腕に噛みつく。唸り声をあげる小さな体が振り払われ、銀色の髪が月光にきらめいた。また果敢に飛びかかろうとするのを、うしろから父が燭台で殴ったところも、リュシエラはしっかり見ていた。

 

「お嬢さま……」

 

 傷つき、倒れ、それでもなお手を伸ばそうとする奴隷の少年に、リュシエラはなにも言わなかった。ただ、その姿を覚えておこうと思った。二色の瞳が焦点を失い、(まぶた)が閉ざされる寸前、リュシエラがすべての思いを込めて贈ったほほ笑みを、彼は見ただろうか。

 

 動かなくなった少年にとどめを刺そうとする「父」であった男に

 

「やめなさい」

 

 と命じてから、リュシエラは歩き出した。男がついてきてなにか言ったが、聞いていなかった。

 

 はじめて見る母屋のなかにはだれもいなかった。きっともう二度と、ここに子守唄が響くことはないのだろう。足早に抜けて、リュシエラはついに屋敷の外へ出たのだった。

 

 迷路のような町並み、石畳の凹凸(おうとつ)、吹き抜ける風も、人々の生活の匂いも、すべてが新しかった。ただ、外の世界もそう広いものではないのだと思った。あまり感動もないまま通り過ぎ、枯れ井戸から地下道に入って、そこで、リュシエラは「父」と呼んでいた男が殺されるのを見た。

 

 突然のことだった。褒美をやるとでも言われていたのだろうか、男はずっと上機嫌でうしろをついてきていたのだが、地下道をすこし進んだところで様子がおかしくなった。「騙された」とか「返せ」とか、それ以外にもよくわからない言葉を口にしてリュシエラの腕を掴んだとき、サイードに胸を突かれたのだ。声もなく倒れた男は、間もなく呼吸を止めた。

 

「簡単に殺すのね」

「殿下をお守りするためでございますれば」

「そう……なら、いいわ」

 

 どうせそのうち殺されていたのだろう。両手いっぱいに土産ものを抱えて「帰ったよ、リュシエラ」と笑っていた男の姿を思い出しながら、リュシエラは見開かれたその目をそっと手で伏せた。

 

 それから一言もしゃべらずに歩いて、再び地上に出たリュシエラが最初に見たものが、自分と同じ顔をした少女だった。