六、思惑(1)

 この、竜によるカルタレス城襲撃事件について、仔細を語る資料はない。なにが原因だったのか、どうやってその惨劇を終えたのか、我々は知るすべがない。ただ、少なくとも五十を超える死者と、それ以上の負傷者が出たということはたしかなようである。そしてこれもたしかなことで、この事件を機に、イージアスはカルタレスからいなくなった。


 ご安心いただきたい。エヴェルイートは(から)くも生き延びた。右腕を噛み折られ、脇腹を抉られ、三日間生死の境を彷徨(さまよ)ったが、生きていた。意識を取り戻したとき、最初に感じたのは猛烈な寒気だった。


「寒い」


 無意識に出た言葉に、何人かの声が応えたような気がする。そのうちのひとりがエヴェルイートの無事だったほうの手を取って、強く握った。その感触は、よく知っている。


「……父上?」
「ああ、私だ。エヴェルイート」


 父の声はときおり震えていたが、いつものようにしっかりしている。エヴェルイートは安心した。


「よかった……」


 言いながら、なにがよかったんだっけ、と思った。頭がはっきりせず、とにかく寒くて、眠い。ちゃんと言葉を発することができたかどうかもわからない。

 

 父ヴェンデルはそれでも答えようとしてくれたのか、息を吸って、しかし、それを不規則に吐き出しただけだった。(はな)(すす)る音が聞こえて、風邪でもひいたのかな、大丈夫かな、などとぼんやり考えているうちに、父の手がエヴェルイートの頬に伸び、やさしく包んだ。ぎこちなく顔じゅうを撫でられて、目を閉じた。なにかあたたかい雫が、額や目蓋に次々と降ってきた。


 それで、夢を見た。幼い日、父に抱かれて、大声で泣いていた。父の反対側の腕にはやはり幼い日のイージアスがいて、必死に泣き止もうとしていた。そうだ。あのあとたしか熱を出して寝込んで、目を覚ましたら、イージアスがそこにいたのだった。それで「へんな顔」と笑ったら、「おまえもな」とはじめて笑顔を見せて、それから……。


 それから五日間、エヴェルイートは高熱にうなされ、六日目の朝にようやくはっきり覚醒した。何度目を覚ましても、何度その姿を探しても、イージアスは、いなかった。


 この事件で、カルタレス領主ヴェンデルは左脚を負傷し、杖に頼る生活を余儀なくされた。その甥で、当時ヴェンデルの身辺を護っていたスハイルは小さな傷をいくつか負っただけで済んだが、罪悪感に苦しんだ。そして、侍女ウリシェは、顔の半分に及ぶ火傷を負った。


「ウリシェ……」
「お互い、諦めが悪くていやになりますね」


 いつも綺麗にまとめていた髪を短く刈り、半面と首もとに赤く滲んだ包帯を巻きつけて、だが美しい立ち姿でウリシェは言った。エヴェルイートは寝台に横たわったままである。


「……おまえ、その状態でずっとわたしの治療をしていたのか?」
「ええ、もちろん。まったく呆れるほど運のいいお方ですね。腕は砕かれたわけではなさそうですし、腹も表面の肉を切られただけ。それでも、危険な状態には変わりなかったのですけど」
「違う、そんなことを聞いているのではない。なぜだ。それでは、おまえが死んでしまうじゃないか……!」
「わたくし以外に、そんな状態のあなたを助けられる者がおりますか?」


 ウリシェはどこか誇らしげに、ふてぶてしい顔を上げた。


「あなたはもっと、わたくしが生きていたことを喜ぶべきです」


 きっぱりと言いきって、忙しいのでまたあとで参ります、と出て行ったウリシェの足取りがすこし頼りないことにエヴェルイートは気づいたが、


「ご安静に」


 と釘を刺されてしまってはなにもできなかった。いや、言われなくとも動けなかった。


「……情けないな」


 ため息とともに漏れた言葉は、冷たい石の壁に跳ね返った。


 エヴェルイートが寝ているのは、自室ではない。居住棟は破壊されてしまった。エヴェルイートが生まれてからはあまり活躍の機会のなかった、要塞の一角を充てがわれている。寝台と、小さなテーブル、その上に置かれた医療品や水くらいしか見当たらない狭い部屋は、我が家の一部であるはずなのにどこかよそよそしかった。


 同じ石の壁に囲まれた、けれどぬくもりのあった自室を思う。父が選んでくれた調度品、イージアスの置いていった書類の数々、それから、亡き母との、思い出。


 ドクン、と心臓が跳ねる。思わず飛び起きようとして、呻いた。強烈な痛みが襲う。


 だが、居ても立ってもいられなかった。あれは。あれだけは、なんとしても手もとに取り戻さなければ。


 大きな負傷は右半身にあるから、左側に体重をかけ、力を込めた。体の向きを変えるだけで激痛が走るが、構わない。左腕に神経を集中させ、歯を食い縛る。やっとの思いで上体を起こしたときには、息は乱れ、汗が滴っていた。大きく息を吐き出して、ゆっくりと足を動かす。寝台に腰掛けるような体勢になると、壁に左手を置いた。


 足には、擦り傷しかない。大丈夫だ。エヴェルイートは自分に言い聞かせ、一気に立ち上がろうとした。が、果たせず、硬い床に倒れ込む。その衝撃に声もなく悶えた。もはや、熱い。しばらくそのまま喘いで、もう一度、左腕に力を込めた。汗と唾液が水溜りを作る。しかし、今度はなかなか起き上がることができなかった。


 ならば、這ってでも。


 ずる、ずると体を引き摺って、一心に扉を目指す。あと少し、あと、すこし、と思いながら前方を睨んでいると、前触れもなくその扉が開いた。


「なにをしている!?」


 続いて飛び込んできたのは、怒声とその主の男だ。視界の端に、派手な金髪が映る。


「……なんだ、まだ、いたのか」


 エヴェルイートは苦しい呼吸の合間に、憎まれ口を叩いた。駆け寄ってきたベルナールは一瞬動きを止めたが、冷静にエヴェルイートを抱き起こす。


「こちらにも被害があった。死者がひとり、未だ意識の戻らぬ者がひとり、深い傷を負って寝ている者がふたり。これでは、動こうにも動けぬ」
「では、彼らのそばにいてやるといい。なぜここにいる?」
「ウリシェに頼まれた。すこしの間、見ていてほしいと。……あまり女性(にょしょう)を泣かせるものではないぞ」
「泣く? だれが」
「ウリシェに決まっている。彼女も健気だな。あなたのまえでは気丈に振る舞っていたのだろう」


 言われて、やっと思い至る。


「そうか。……そうだよな」


 平気なわけが、ないのだ。


「そうだ。だから早く寝台に」
「戻らない。どいてくれ」
「立ち上がることもできぬのになにを言う。自分の状態を理解しているのか?」
「生きているのだから問題ない」
「……その認識は改めたほうがよいな」


 ベルナールを押しのけて、なおも進もうとする。が、やはり上手くはいかない。しばらく黙ってその様子を見ていたベルナールが頭を抱えて、深く、長く、ため息をついた。


「……どこへ行きたい?」