十三、また会うために(1)

「嘘だろ……」


 とエヴェルイートが呟いたのは、竜の行方(ゆくえ)を追ってアロン山脈を進むこと十一日目の昼、高山の冷たい空気に晒されながら激しい頭痛と吐き気に必死に耐えていたときだった。ちなみにあの小屋を出てからは十五日が経過しており、あまりの疲労と体調不良ゆえにやはりこの選択は正しくなかったのではないかと疑いはじめたところである。そこにこの仕打ちとは、神に慈悲はないのだろうか。


「これは驚いた。我々の他に冬のアロンを越えようとする酔狂(すいきょう)な人間がいたとは」


 そう言って近づいてきたのは、焦げ茶色の髪に赤銅色(しゃくどういろ)の瞳、左頬に横一文字の傷を持つ立派な髭の男である。そのうしろに、ずらりと伸びる人馬の列。馬の背に載せられた荷をよく見ると、武器が鈍く光っている。現れた方角から考えても、ヴェクセン帝国の軍隊であることは間違いなかった。


 竜のことがなにひとつ掴めぬうちに、とんでもないものに出くわしてしまった。まさかこの経路で侵攻してくるとは。


「なにか事情がおありかな、ご婦人」


 座り込んでいたエヴェルイートに視線を合わせるように、男が膝を折る。堅苦しい表情で固定された顔は、思ったより若々しい。その決して優しいとはいえない目つきから守るように、イージアスがそっと間に入ってくれた。


 ご婦人、と言われたからにはそれで通すほうが面倒はなさそうだ。実際、ちょっと罪悪感が残る方法で手に入れた装備はすべて男物だが、長い髪を結い上げたこの姿はまあ、男装の女に見えるだろう。


 さて、どうするか。


 とりあえずなにか返事をしなくてはと口を開く。が、それがよくなかった。まずい、と思ったときにはもうすでに吐いていた。思いきり被害を受けたらしいイージアスの、声なき抗議が刺さる。それでも背中をさすり水を差し出してくれる彼には、満足に喋れる状態なら「おまえ、いい男だな」と言ってやりたかった。


「これはいかん。ミミどの!」
 と男が立ち上がると、すぐに


「あいよっ!」
 と答える声があった。掠れ気味の、低くて力強い声だ。でも、男のものではない。


 やがて現れたのは、燃えるような赤毛の女性だった。なんというか、女性に対して不適切だとは思うが、「恰幅がよい」という言葉が似合うひとである。だからその包容力のありそうな腕が伸びてきて顔を上げたとき、思わず


「……子猫ちゃん(ミミ)?」


 と首を傾げてしまった。


「アンタの言いたいことはよーっくわかるけど、とりあえず歯ァ食い縛んな」
「いかん、いかん。ミミどの。それは医術師の仕事ではない」
「あーあー、セヴランはほんっと美人に弱いねぇ。ベルナールさまにしてもアンタにしても、男ってのはなんでこう……」


 ミミという女性が口にした名前に、


「……ベルナール?」


 と反応してしまったのはもうしかたのないことだろう。


「我らが(あるじ)をご存じで、ご婦人?」


 相変わらず真面目な顔をして、睨むようにこちらを見たセヴランという男を、エヴェルイートはじっと見上げた。我らが主。これ以上ないほどにわかりやすい、彼らの立場を示す言葉である。なるほど、そうか。であるならば。


 好都合だ。


「ご存じもなにも、それは我が夫となるひとの名だからな」


 未だ引かない吐き気をこらえ、手で口もとを拭いながら、ゆっくりと立ち上がりエヴェルイートは笑った。一瞬の、間。それから


「あなたが」
「アンタが!」


 というふたりの反応を見て、やはり知られていたかとやや苦い思いをすると同時に内心、安堵した。しかしそれもつかの間、


「失礼いたしました。まことに勝手ながら、もっと神々しいまでに麗しい方かと思っておりましたので」
「……おい」
「まさかこんなゲロ臭い小娘だったなんてねぇ。アタシもビックリだわ」
「おい」


 なぜだろう、とても惨めだ。


「失礼だぞ、おまえら!」
「アンタそれそっくりそのまま返すわよ。えーっと、瑠璃姫サマ、だっけ? 言っとくけどね、ベルナールさまの奥方だからってアタシら特別扱いなんてしないよ」


 とミミが言えば、


「いや、存分に甘えていただいて結構。私は殿下の評価が欲しい」


 とセヴランが対抗する。なかなかおかしな連中である。だがこれなら、ひとまず身の安全は保証されたようなものだろう。


 勝手に婚約者ということにされて、散々振り回されてここまで来たのだ。利用されるばかりではつまらない。だったらこちらも利用してやるまでである。


「特別扱いはしてもらわなくていいが話を聞いてほしい。とりあえず言っておくぞ。まだ奥方ではないからな、断じて」
「じゃ、どこまで進んでんのさ」
「え、……」


 どこまで、とは。ミミに問われて考えた途端、いままでに見たあらゆるベルナールの顔が頭を支配した。はじめて会ったときの陽気な笑顔、大怪我をしたときに見た憤怒の表情、死者に祈りを捧げる静かな横顔。それから、


『頼む。……そばにいさせてくれ』


 強く抱きしめられたときの苦しさや、懇願する声まで。


 思い出す。思い出してしまう。忘れていた――あえて忘れたふりをしていたことも。


『私を見ろ』
 その唇の感触も、ぜんぶ。


「……っ、そ、んなことはどうだっていいだろう!」


 思わず叫べば、ミミが負けじと声を張り上げた。


「よくない! アンタなめてんの? それで子どもでもデキてたらどーすんのさ」
「はぁ!? そんなわけが」
「ないとは言いきれないでしょうよぉ。あの方と結婚するってことは、お世継ぎを望まれるってことだろ? ちょっとでもその可能性があるんなら、こんな危険なとこ来てんじゃないよ。アンタちゃんと自覚あんのかい?」
「自覚なんて!」


 自分でも驚くほどの悲痛な声が、ミミを黙らせた。あとに続いたのは、ほとんど独り言だった。


「……あるわけないだろ。なにも言わないくせに、なにも聞かないくせに。こんな、勝手なことされて……」


 どう答えたらいいかもわからないのに。どう思えばいいかもわからないのに。


「大嫌いだ、あんな男……!」


 なのに、どうしてかいま、とても、会いたいのだ。


 風が、火照った頬を冷やしていった。しばらくして、そっと肩にまわされたのはミミの腕である。思ったとおり、とても包容力のある腕だった。


「よーし、わかった。お姉さんになんでも言ってみな?」
「それはベルナール殿下が悪いですな。ええ、殿下が悪い」


 とセヴランも表情はまったく変えずに頷く。なにか、ちょっと。おかしな方向に行っているような気がする。


 どうしたものかと首を捻ると、イージアスと目が合った。その顔を見たらつい、


「まだ一緒に寝ただけだからな!?」


 といらぬことまで白状してしまった。