十五、約束(3)

 派手な音とともに、扉が開いた。

 

 獣じみた呼吸音と血のにおいが、急激に空気を凍てつかせる。

 

 開け放たれた扉の向こう、人影がふたつ、落日の(あか)に溶け込むように立っている。そのうちのひとつは、すぐにだれのものかわかった。ふわりとやわらかな印象は、こんなときでも変わらない。義姉のティナだ。

 

 では、彼女が寄り添って支えているのは。いまにも崩れ落ちそうな、真っ赤に染まった甲冑を鈍く光らせているのは。

 

「……アレクシスお兄さま?」

 

 記憶のなかの彼とはおよそかけ離れた姿だった。だが、ぎらつくその純粋な瞳は、ティナの夫でありアウロラの愛した兄である、アレクシスのものに違いなかった。

 

「……ローラ」

 

 兄がずるずると足を引きずるたびに、赤い線が描かれてゆく。だらりと垂れた手に、それでもしっかりと握られた剣が、床を擦って不気味な音を立てた。

 

「お兄さま、だめよ。歩いてはだめ」

 

 ならば駆け寄っていって止めればいいと思うのに、足は動いてくれなかった。ただただ綺麗に生きてきた兄のこんな姿を、だれが想像しただろうか。なにがこうさせたのかと、だれのせいでこうなったのかと、アウロラは考えてしまったのだ。

 

「お兄さま、おねがい……」

 

 声が震える。駄目だ。泣くことなど許されない。だって、その原因はここだ。ここにいる、自分自身なのだ。

 

「ローラ」

 

 赤黒く汚れた顔が、わずかに綻ぶ。

 

「大丈夫、大丈夫だ……いま、助けるから」

 

 耐えきれなかった。かろうじて声は両手できつく抑えたが、目からあふれるものは止めようもなかった。どうして。

 

 どうして。

 

「いま、たすける……」

 

 この、兄に対して、自分はなにを思った? どう見ていた? ただ綺麗なだけの、綺麗なものしか見ようとしない、無知で愚かしい兄だと見下してはいなかったか? 自分を理解してくれることは決してない、自分にないものを持った対極にいる存在として、憧れ、羨みながら、勝手に敵愾心(てきがいしん)を燃やしてはいなかったか?

 

 それなのに、アレクシスお兄さまは。

 

「大丈夫だよ」

 

 こんな姿になっても、アウロラを助けようとしてくれている。

 

「違う、違うの、お兄さま……! もうやめて、いいの。そんなことしなくていいの!」

 

 見ていなかったのは。見ようとしなかったのは。

 自分のほうではないのか。

 

「お義姉(ねえ)さま、ティナお義姉さま! おねがい、お兄さまをとめて!」

 

 ティナは黙ったまま、ほほ笑み、(かぶり)を振った。いまにもこぼれ落ちそうな涙をいっぱいに湛えて、なぜそこまでおだやかでいられるのか。いつもそうだった。だれに対しても親身になって寄り添おうとしていた。ずっと。アウロラにも。

 

 このひとたちに、わたしは、なにをした?

 

 冷たく重いものが、頭から爪先まで一気に落ちていった。眩暈(めまい)がしそうな衝撃に、立ち尽くすことしかできない。そんなアウロラの肩を、叩く者がいた。ベルナールだった。

 

 いつの間にか、再び剣を手にしている。その視線を追って、戦慄した。

 

「……ベルナールさま」

 

 呼んでも、その目は固定されて動かない。

 

「アレクシスお兄さまを、助けてくださいますわね? お約束くださいましたものね?」

 

 服を掴んで、揺すった。手が震えて、それもうまくできなかったけれど、そうせずにはいられなかった。怖かった。なにかを失うということが、こんなに怖い。その事実が、こわかった。

 

 アウロラの願いが届いたのだろうか。ベルナールがようやくこちらを向いた。そして一言、こう言った。

 

「……死なせてやったほうがいい」

 

 そのまま歩き出した彼を、止めることができなかった。行き場を失った手が、しばらく宙を彷徨(さまよ)い、やがて脱力して落ちる。

 

「ベルナール・アングラード……」

 

 兄が呻く。奇妙な音がしていた。きっとどこか傷ついて、うまく呼吸ができないのだろう。

 

「よくぞここまで来られた、アレクシスどの」

 

 対してベルナールの声は浪々と、玉座の間に響き渡る。立場の差を見せつけながら、(あざけ)るような調子はない。誠実に、礼を尽くそうとしてくれているように見えた。

 

 だからこそ、アウロラには残酷だった。

 

 兄が、義姉になにかを囁いた。ほんの一瞬だけ唇を重ねてから、ふたりの手が離れてゆく。ひとりになった兄は、やっとのことでその場に立ちながら、震える切っ先をベルナールに突きつけた。

 

 無言。ベルナールが剣を構えることでそれに応える。もう見ていられないと、アウロラが瞼を閉じかけた、そのときだった。

 

 目のまえを、だれかが横切った。

 

 そのひとは迷うことなく、対峙するふたりのもとへ駆けてゆく。そしてその間に立ち、両手を広げた。

 

「……エヴェルイート」

 

 呟いた兄の声が歪んでいる。

 

 兄を庇うように立つ、そのひとを見る目が、血走っている。

 

 だめだ。

 アウロラは咄嗟に駆け出した。

 

 兄の声や瞳に宿るのは、憎悪だ。ここまでの経緯を聞いたときに、もっと考えるべきだった。

 

 兄にとってエヴェルイートは、もはや裏切り者に他ならないのだ。

 

 ――だめ。

 

「貴様……貴様があぁぁっ!」

 

 もうだれにも、死んでほしくない。

 

 剣を振り上げる兄の動作が、やけにゆっくりと、ゆらめいて見えた。そのまえに飛び込んで、エヴェルイートの背中を押す。ベルナールが抱きとめたのを見届けてから、振り返った。

 

 驚愕に見開かれた兄の目に、ごめんなさい、と小さく告げて。

 

  振り下ろされた剣身を、アウロラはその身で受けとめた。

 

「……――ッアウロラ殿下!」

 

 愛しいひとの声が聞こえた。呼んでくれている。わたしを、呼んでくれている。

 

 けれど、答えることはできなかった。大きく傾く視界に映ったのは、鮮烈な(あか)。それが己の身体(からだ)から()ったものだと、アウロラは理解していた。赤い陽に照らされて、きらめいている。

 

 意外と、綺麗なのね。

 

 安心した。倒れて背を打つ衝撃も、気にならなかった。

 

 景色がかすむ。頬をやわらかく、包んでくれるひとがいる。そのひとが覆いかぶさるように抱きしめてくれたのは、きっとアウロラの目に悲劇が映らないようにという配慮だろう。でも、アウロラは見てしまった。

 

 兄の首が飛ぶところを、もう見てしまっていた。

 

 遠くに聞こえる悲鳴は、義姉のものだろうか。いつか義姉がしてくれたように、いまこそそばにいてあげたかった。だが、もう。アウロラには、立ち上がる力すら残っていなかった。

 

「アウロラ殿下!」

 

 雨。雨が降っている。

 

「殿下、聞こえますか? 大丈夫です、すぐに止血を――」

 

 やさしい嘘と一緒に、雨が、降っている。

 

 伝えなければ。もうすぐ、なにも言えなくなってしまうから。

 

 アウロラは全力を振り絞って片手をあげた。その手を握ってくれるひとの顔は、もう見えない。喘ぐように口を開くと、そのひとがぐっと近づいてきたのがわかった。

 

「……燃やさ、ないで」

 やっと、それだけ言えた。

 

 燃やさないで。火葬しないで。この罪を浄化の炎でごまかしてしまわないで。ふさわしい罰を与えて。

 

 魂の救済なんていらない。汚れたままでいい。この罪を背負ったまま、ぜんぶ覚えたままで、もう一度、人間として生まれてきたいのだ。そしてできればそのときこそ、愛し愛されて生きてゆきたい。人生を全うしたい。たとえその世界に、会いたいひとはだれもいなくとも。

 

 そのときを想像しながら、アウロラはすでに見えなくなっていた目を閉じようとした。その直前のことだった。

 

「必ず、来世で」

 

 耳もとで囁かれた永遠の約束(プロポーズ)に、アウロラの胸はさいごの高鳴りを覚えた。

 

 ああ。

 

 ああ、神さま。

 

 わたしはとてもしあわせでした。

 

 これ以上望むものはないけれど、でも、もうひとつだけ。

 

 もうひとつ。

どうしても伝えなければならないことがあった。これからいちばんつらい思いをするのは、きっと彼女だから。自分ひとりだけ、しあわせになるわけにはいかないから。

 

 どうか。

 

「……アルク……アン・ジェ、に……」

 

 どうかもうひとりのわたしにも、しあわせを。

 

 その、願いを口にするまえに。アウロラの意識は深いところに沈んで、もう、戻ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 その日、竜がウルズ王国に戻ってきた。

 

 いなくなったときと同じように一斉に咆哮をあげた竜たちは、しばらく王国の上空を旋回したあと、何事もなかったかのようにそれぞれの巣へと帰っていった。空がまだ赤く燃えていたときだったというから、アウロラが息を引き取った直後のことであろう。そしてそれと同時に、王都アヴァロンは陥落した。

 

 ところがアヴァロンを制したヴェクセン帝国大公ベルナールは、「ウルズ王国の滅亡」を高らかに(うた)い上げたりはしなかった。まだ国王が存命だったからではないかといわれている。

 

 正常な判断力を欠いた国王イシュメルから正式に王都の残存兵力すべてを預かった彼は六日後、王都の手前に広がるアタイシル平原で、異父弟である皇帝マティアスの軍と対峙し、これを撃退した。以降ウルズ王国の領土は、王都周辺をベルナールが、カルタレス周辺をマティアスが、それ以外をウルズ諸侯が変わらず治め、ときに争い奪い合うという、なんとも不安定な状態になる。

 

 ところでこのころ、まだウルズ王室の生き残りは四名いた。国王イシュメル、王后ウイルエーリア、第三妃ゾフィア、そして、亡き第三王子アレクシスの妻ティナである。

 

 存続が絶望的という状況ではなかったが、いかんせん正気を失っていたイシュメル王が手に負えなかった。臣下から奪ってまで手に入れたはずの第三妃を、彼が絞め殺したのが二月十三日。そして彼自身が狂死したのが、二月二十日のことである。これでもう、新たな世継ぎを作ることもできなくなった。王家の血は絶えたのだ。

 

 王家の血といえば、「長らく行方不明だったエヴェルイートが突然、王都陥落の日に現れ降伏を進言した」という記述は、ごく一部の書物にしか見られない。それが真実であったのか、はたまた興亡史を盛り上げるための創作であったのかは定かではないが、これを最後に、その名の人物は本当にすべての記録から姿を消した。

 

 一連の動乱で命を落とした者は多く、王后ウイルエーリアの手でその名が纏められたのは、三月二十一日。それによって、王家の断絶が(おおやけ)になった。そう、この時点ではたしかに、アウロラは死んだものとされていたのだ。筆者もそれは間違いではなかっただろうと考えている。ではなぜ、という疑問に答えるのは、まだ早い。

 

 そのころにはもう、王都の人々はベルナールの支配を半ば受け入れていた。それでも彼は「貴国の玉座を奪うつもりはない」と言い続けたのだが、ある日ついにその玉座に座った。そのとき王后の席には、恋人であるパルカイの美姫、瑠璃姫を座らせている。その新時代の到来を告げる場で、ウイルエーリアが自らを「亡国の后」と呼んだことから、この日がウルズ王国滅亡の日とされるようになった。

 

 それが、四月二十七日。

 

 アウロラの十二回目の誕生日であった。

 

 

 

 

 

 そして、その翌日。

 

 聖都アルク・アン・ジェからアウロラの生存が発表されたことにより、歴史は新たな展開を迎えることになるのである。