四、重なる糸(1)

 奴隷の少年がなにかを察して息を呑んだとき、エヴェルイートは「わたしってけっこう有名人だったのだな」などと呑気なことを考えていた。


 まあそれもしかたのないことで、というのも、エヴェルイートほどの高貴な身となると普段接触する人間は上流階級のさらにごく一部に限られていて、末端部での自分の知名度など知るよしもなかったのである。

 

 それについては、当時のパルカイ民族が持っていた選民意識と、その際たるものである初代国王の血を(たっと)び守ろうとする彼らの思想を念頭に置いた上で、この国の身分制度を見てみると理解しやすい。


 この時代のウルズ王国の身分区分は、非常にシンプルだった。「良民」と「それ以外」、そのふたつだけである。ではなにがそれを決めるのかというと、「パルカイ民族」か「そうでない」か、ただそれだけのことであった。


 「良民」、すなわち「一般人民」あるいは「善良な国民」として認められていたのはパルカイ民族だけであり、それ以外の人々は正式には「国民」ですらなかった。パルカイ民族の言葉を借りるならば「預かりもの」、つまり彼らが「保護している人々」というのが、この王国における他民族の扱いであった。ただしここで注釈を入れさせていただくと、「預かりもの」といわれた人々は当然それを認めておらず、国民としての権利を主張していた。

 

 もし当時のウルズ王国に飛んで、道行く人々に身分制度についての解説を求めたとしたら、たぶん二通りの回答が得られるだろう。自民族だけをウルズ王国民と認識するパルカイ民族と、この国に住むすべての人(ただし奴隷を除く)が国民であると主張する他の数多くの民族の、それぞれ大きく異なる回答である。


 このことだけでも充分おわかりいただけると思うが、両者の間には深い溝があった。

 

 むろんそれぞれに貧富の差や階級はあるものの、国民としての権利、たとえば土地や家屋、農地などの固定資産の所有、また公共施設や教育機関、それから水道の使用等、パルカイ民族には当然のものとして認められていたことが、他の大多数には制限されていたり、高額な負担を強いられたりしていたのだから、フラストレーションがたまるのも致しかたないことである。ただ、一応その捌け口は用意されていて、それが奴隷という存在だった。


 奴隷を所有すること自体、パルカイ民族には許されていない。それゆえ、奴隷を使った商売の数々にも彼らが口を出すことはなかった。だから「預かりもの」と呼ばれた人々はそこで好き勝手に、まあ、ここに記述するのもちょっと(はばか)られるようなこともやっていたようである。


 奴隷に関したことに限り、なぜパルカイ民族がその権力を行使しなかったのかということについて、これはもうこの国の成り立ちから説明せねばなるまい。


 パルカイ民族には別称がある。「神話の民」という、大変神秘的なものである。


 もともとパルカイ民族は国を持たず、「蒼の谷」と呼ばれる山奥の小さな集落で、竜とともにひっそりと暮らしていた。

 

 そこに、時の権力者から追われたひとりの娘、聖典における呼称を用いるならば「聖女エスタス」が逃げ込んできたことにより、彼らの生活は一変する。娘は「銀灰の古王国」アッキア・ナシアの王女で、隣国に輿入れする直前、神の子を身籠ったが、それを不貞の証として父王に咎められ、追われる身となってしまったという。

 

 それを哀れに思ったパルカイの若者アイランは、娘を匿い、手厚く保護した。やがて娘が生んだ赤児は性別を持たず、生まれ落ちた瞬間から言葉を発することができたので、みなこれは(まこと)の神子であると認めざるを得なかった。神子曰く、


「あなたがたは竜を使役することができるが、それはこのときのために神が授け給うた力である。我を(たす)け、人々を導きなさい。その力で広く神のお言葉をお伝えするように」と。


 それに従い、竜を使ってアッキア・ナシアのカヴロ王を退けたアイラン率いるパルカイ民族は、聖母子のために聖堂を作り、これを永遠に守ることを誓った。彼らの働きに感心した聖母子は、旧アッキア・ナシア領の一部を与え、アイランに「義人(ウルズ)王」の称号を授けた。これが、聖都アルク・アン・ジェとウルズ王国のはじまりであり、両者の関係性である。


 つまりパルカイ民族は、ドラグニア小大陸で広く信仰されていた宗教において神聖な存在であり、その血を穢すことは内からも外からもおそれられていたのである。

 

 亜人(差別用語を何度も使用して申し訳ないが、差別を助長する意図はなく、ただ当時の情景の描写には不可欠であると判断したがゆえのことである、どうかご理解いただきたい。関連する表現についても同様である)と呼ばれ蔑まれていた先住民族イーナィ、すなわち当時の奴隷階級の人々との接触を避けた理由も、「預かりもの」と呼ばれた人々が差別待遇に憤りながらも逆らえなかった理由も、そこにある。ただ、このころにはもうすっかり竜を使役する技を忘れたパルカイ民族に、疑念を抱く者も少なくはなかった。


 事実、聖典に記された彼らの歴史には明らかな偽りがある。

 

 実際にアッキア・ナシアを滅ぼしたのは北ヴェクス王国(のちのヴェクセン帝国)で、パルカイ民族はそれに力を貸しただけであるということは現代における常識であり、その後、なんらかの理由で故郷に戻ることができなくなった彼らが、しばらく北ヴェクス王国に身を寄せていたこともわかっている。

 

 彼らの故郷は竜の力を恐れたアッキア・ナシアに破壊されたとも、竜の力を欲した北ヴェクス王国に焼かれたともいわれるが、いずれにせよ新たな拠り所を求めた彼らが離反して旧アッキア・ナシア領を奪い、自分たちの国を建てたというのが、真実(ほんとう)の歴史であるといわれている。


 すこし話が逸れたが、そんなわけで、エヴェルイートはよくも悪くも奴隷を理解していなかった。いや、奴隷どころか「預かりもの」のことも、同じパルカイ民族の中流以下のことですら、よくは知らなかった。初代国王アイランの血を色濃く受け継いでいるがゆえに、その身は(たとえ半陰陽すなわち神子であるという秘密がなかったとしても)神聖なものとして守られ、ある意味で閉ざされた世界に生きていたからである。


 それがなぜ、十七歳の今日になってはじめて異民族の商人であるドーバンを訪ねたかというと、七つ年下の従妹(いとこ)の、かわいいわがままを叶えてやるためのお忍びというやつなのであった。


 最近、婦女に評判の美容品があるというのは知っていた。

 

 非パルカイ民族の商人には武器になり得る物品の取り扱いが禁止されており、商品はすべて領主が検めることになっている。それはもちろん異民族に対する圧力に他ならないのだが、表向きは「国民」であるパルカイ民族が「被保護者」である異民族の「自立支援として販売を委託」するという形式を取っているためでもあり、実際、それぞれの商品の把握や在庫管理、検品なども領主の仕事のうちなのである。

 

 港湾都市カルタレスに(たな)を置くドーバンが発売した美容品も、当然カルタレス領主であるヴェンデルのもとで検品されており、その仕事の一端を担うようになって久しい領主嫡子エヴェルイートも現物を手に取って見たことがあった。アウロラ王女から、評判の美容品をねだる私的な書簡が届いたのは、そういう仕事に追われていた数日前のことである。


「実は大切な女性(にょしょう)に贈りものをしたいのだが、なにぶん私はその手のことがとんとわからぬ。困っていたところにそなたの作った美容品の評判を聞いてな、このように多くの女性を喜ばせるものならばよかろうと思い、ならばいっそ開発者に教えを乞おうと考えたのだ。突然のことで驚かせたかもしれぬが、許せよ」


 目のまえで立ち尽くす、その開発者だという少年に向かって、エヴェルイートはやや事実を歪曲して説明した。

 

 開発者がこんなに幼い子どもだとは予想していなかったが、この少年にはそれを納得させる雰囲気がある。しかし、しばらく待っても少年からの返答はなかった。どうやら警戒させてしまったらしいと思い至り、一旦話題を変えたほうがよさそうだと判断したエヴェルイートは、率直な疑問を口にした。


「ところで、そなたのような目は、亜人には珍しくないのか?」
「……は?」


 やっと聞くことができた少年の声に気をよくして、エヴェルイートは続けた。


「綺麗な目だ。左右で同じように見えているのか? そういえば、そなたには翼や尾はないのだな。亜人というものはそういう獣の部分を持っていると聞いていたが」


 するとしばらく考えてから、


「……珍しい部類ではあると思います。左右の見え方に違いはありません。翼や尾がないのは、純粋な亜人ではないということなのでしょう。奴隷を寝所に侍らせるご主人も多いそうですから。あと一応、私にも牙でしたらございます」


 ご覧になりますか、と言う少年に
「え、いいのか!」
 と答えて少年の口もとに手を伸ばしたところで、周囲に止められた。


「御身に傷がつきます!」
「私はべつに構わぬのだが……」


 目隠しをされ、大切に守られてきたがために、エヴェルイートはおそろしいほどに素直で、公平だった。それはもちろん生来の性質でもあり、美点といえたが、同時に欠点ともいえた。


「おそれながら、申し上げます」


 とそのとき、低く冷静な声が聞こえた。長身の男が一歩まえに出る。イージアスであった。


 いまやすっかり優秀な従者であるイージアスは、気配を消すことを求められた場合、それを実に上手くやってのける。正直なところ、自分で連れてきて自分でそのように命じておきながら、たったいままでその存在を忘れていたくらいだ。しまった、と思いながら、エヴェルイートは次の言葉を待った。


「御身は我らが宝であらせられます。万一、尊い御身が傷つくようなことがあれば、その奴隷もこの家の者も、そして私ももはや命はございますまい。ご聡明なエヴェルイートさまにおかれましては、どうぞ我らにご厚情を賜りますよう」


 これは、怒っているな。内心冷や汗をかきながら、


「わかっている」


 と笑みを返しておいた。


「差し出がましいことを申し上げました。お許しください」
「うん、許す」


 などと言いながら、あとで許しを乞うのはこちらのほうなのだ。つい興に入って軽率な行動を取ったのは悪いとは思うが、


「ありがたく存じます」
 と、どこまでも白々しいイージアスが憎たらしく見える。


「……あの」


 小さなため息に気づいて、エヴェルイートは振り返った。奴隷の少年が呆れたようにこちらを見ている。


「なにか商品についてお尋ねだったのでは?」
「ああ、そうだった! すまぬな、気を悪くしたか?」
「いいえ、お気遣いなく」
「そうか、よかった! では可能な限りで構わぬから、教えてほしい。まず、これはどうやって使えばよいのだろう」


 どうやら、警戒はある程度解けたらしい。あらかじめ入手していた話題の品を取り出して尋ねると、すぐに返答があった。


「意中の方の手や足に、やさしく塗り込めて差し上げてください。肌が綺麗に保てますし、触れ合うきっかけにもなるかと」
「ずいぶんとませたことを言うのだな、そなたは……。そういえば、これはいったい、なにからできているのだ?」


 今度は、少年がつかの間、視線を外した。おそらく、答えてもよいものか確認を取ったのだろう。


「……蜜蝋と、蜂蜜、それから橄欖(オリーブ)の果実から絞った油です。香りは花の精油でつけています」


 ややあって、淀みなく答えた少年にも、少年に視線を返したドーバンにも、嘘をついている様子や動揺は見られない。先ほどの間は、単純に製法の流出を警戒してのことだろう。危険なものは入っていないと判断してよさそうだが、念を入れてもう一歩踏み込んでみる。


「なるほど、言われてみればよい香りがするな。なんの花の香りなのだ?」
「鈴蘭ですが、毒の心配はありません。他の毒性のない植物から抽出した香りを調合して、それらしい香料を作りました。ですから、王女さまにも安心してご利用いただけると思います」


 おや、と思った。なかなかどうして、利発な少年である。


 ここに来てから、エヴェルイートは一度も王女の名を出していない。毒性についても遠回しに探ったつもりだったのだが、少年には見抜かれていたようだ。


「参ったな。気づいていたのか」
「なんの花の香りなのかとお尋ねになりながら、あなたの目には確信がありました。鈴蘭の香りも、その毒性も、よくご存知だったのでしょう」


 そのとおりだ。立場上必要であるため、幼少のころより毒については学んでいるし、ここ数年は慣らしてもいる。だからこの商品をはじめて見たときに、その香りが気になってはいた。もちろん、いまこうして流通しているのは、他ならぬエヴェルイートが有識者たちとともに「問題ない」と判断したからで、そういうことをたしかめるという点では、実をいうとこの問答にほとんど意味はない。知りたいところはその奥、つまり「販売者や開発者の安全性」であった。

 

 王女が献上品として望む品である、念には念を入れるのが当然であった。要するに危険分子との関わりはないかということを見極めるためにわざわざこんなところまで自ら足を運んだというのが、この「お忍び」の実情である。たぶん、少年はそこまで察しているのだろう。


「すごいな、そなたは」
「お役に立てましたでしょうか」
「ああ、期待以上だ、ありがとう。……最後にひとつ、いいだろうか」
「はい、どうぞ」
「そなたはこれを、だれのために作ったのだ?」


 これは、純粋な好奇心から出た質問だった。少年からは、商売への興味は微塵も感じられない。ただ、特定のどこかへ向けられた配慮と情熱を感じたのである。すると、少年ははじめて、すこしだけほほ笑んだ。


「お嬢さまです。私のご主人さまです」
「そうか。そなたの大切なひとなのだな」
「はい。とてもかわいらしい方です。どこかあなたに似ています。でもあなたのほうが綺麗だと思いますけど」
「……それはどうも」


 最後は真顔で言いきった少年の真意を掴めず、エヴェルイートは曖昧な返事しかできなかった。特徴的な二色の瞳が獲物を狙うかのごとくきらりと光ったように見えたのは、気のせいだろうか。


「のちほど正式に注文しよう。邪魔をしたな。行くぞ、イージアス」
「は」


 大仰な見送りをしようとする商人と使用人たちを制して、足早に歩き出す。いささか長居しすぎた。いくらのほほんと構えているように見えても、領主の若君はそれなりに多忙なのである。それに、決して表には出さないが、先ほど生じたある懸念のために内心おだやかではなかった。


 ふと、視界の端に、距離を置いてこちらを見つめている少年の姿が映った。


「では、またな」


 と声をかけると、一度頭を下げて走り去った。その様子がやっと年相応にいとけなく見えて、ほほ笑ましかった。そのうしろ姿を見送って、少年の職場をあとにした。