九、開戦(3)

「で、ユライ。おまえ本当はなにをしに来た?」


 いくつかの死体を片づけ、まだ息のあるサガン兵は縛り上げ、あらかた綺麗になった広間でスハイルが怪訝(けげん)そうな表情をする。


「はあ? 馬鹿じゃないの? 頭のなかまで全部筋肉なの? 一応言っておくけど、キミを助けに来たとかそんなことは絶対にないからね」
「そうか、助けに来てくれたのか。ありがとう」
「ねえ、ちゃんと聞いてた?」


 と顔を突き合わせながら拘束を解いてくれるふたりに、少年はつい訊いてしまった。


「あれ、通じ合ってたわけじゃないの?」


 すると揃ってこちらを向き、
「いや、ちっとも」
 息ぴったりに言う。


「おれはこいつの考えを正しく汲んだことがないからな」
「自慢げに言わないでくれる? どうせわかってないんだろうなとは思ったけどさ」


 それならどうして、と少年が自由になった腕を伸ばしつつ首を傾げると、スハイルが「これだ」と掴んだのはユライの左手首だ。そこに光る緑色の小石が、動きに合わせて小さく揺れた。


「おれたちは昔、同じ学舎で学んだ仲でな。そのころにやっていた他愛もない遊びなのさ。こうして左手首に特定の色のものをつけて、合図を送る」
「たとえば黒だったら〈ごめん〉、白だったら〈もう大丈夫〉……だっけ?」
「ああ」


 そのくらいふつうに言えばいいのに、というのは、胸のうちで思うだけにしておいた。それを口にするのは野暮というものだろう。


「いま思うと口で言えよって感じだけどね」
「まあな」


 どうやらそんなこともなかったらしい。


「ふうん……じゃあ、緑は?」


 そう尋ねると、ユライがやわらかく笑んだ。くすくすと肩を揺らしながら


「これは絶対に使う機会がないと思ってたんだけどねぇ……」
「ほらな、やっぱり必要だった。だから言っただろう」
「はいはい。あー、緑はね――」

 

 まるきり反対のことを言うスハイルと、声を揃えた。


「――おれを信じろ」


 それで、合点がいった。スハイルは最初にユライの左手を見ていた。つまり最初から、ユライを信じて任せていたということだ。


 なんという不思議でたしかな関係なのだろうと思った。これが友情というものならば、すこし羨ましいとも、思った。


「さて、そんなことはどうでもいいんだよ」


 そう言ってスハイルのそばを離れたユライが、カルタレス領主のところまで歩いてゆく。周囲の人々がやや緊張した面持ちを見せたが、領主に(なら)い黙ってそれを迎えた。


「ヴェンデル卿、お騒がせして申し訳ありません。いくつか説明と……それから、提案をさせてください」


 カルタレス領主ヴェンデルは両手を杖に預け、うつむき気味ではあるもののまっすぐに立っている。しかしその目はどこか悲しげで、生気がなかった。


「三日後の払暁(ふつぎょう)、ヴェクセン皇帝の軍が来ます。いますぐ城を捨て、国外へお逃げください」


 ユライの言葉に、広間は再び騒然となった。それをスハイルが黙らせ、領主が先を促す。ユライは一度深く息を吐いて、続けた。


「我がケルヴィナー家は、シリウス殿下を支持していました。というのも、もともとこっそりマティアス帝相手に商売をしていましてね。この剣もそのために作ったものなんですよ」


 と、自分の剣に軽く触れた。少年にはその意味が理解できなかったが、ここで筆者から読者諸氏のために説明しておこう。ウルズ王国では、竜に乗ったり、兵の数の少なさを機動力で補ったりするために、軽く柔軟な革鎧が好まれてきた。しかしこの鎧、とりあえず斬撃は防げるがさほど強度はなく、とくに刺突には滅法弱かった。ユライの持つ剣は刺突剣であり、つまりはこの鎧を貫くために作られたものである。それを他国に提供する、というのはまあ、要するにそういうことである。


「シリウス殿下がうまくやってくれれば、我が一族は安泰だった。ところが、ご存じのとおり殿下は国王陛下によって投獄されました。宮廷はすっかりベルナール・アングラードに掌握され、焦った我が一族とマティアス帝は、強硬手段に出ることにしたのです」


 春の一座とベルナールの関係を掴んだケルヴィナー家は、それを宮廷に報告し、ベルナールの動きを封じるよう促した。それは祖国のための行動のように見えたが、その実、ヴェクセン皇帝マティアスの軍を円滑に迎え入れるための準備だったのだ。カルタレスの民の暴動も、どうやらケルヴィナー家が扇動したものらしい。マティアス軍を迎える玄関口となるここは、特に念入りに力を削いでおく必要があったという。


「で、個人的にはそれがいやだったので、従うふりをしてカルタレスのみなさんに迫る危機を知らせにきました」


 と、さすがに自身が春の一座の一員であることは伏せて、ユライはいささか雑にまとめた。


「ここは真っ先に、そして確実に戦場になる。マティアスとベルナール、どちらに転んでもあなたがたに明るい未来はありません。いまならまだ間に合います。どこでもいいから、とにかく国外へ逃げてください。それで……」


 いったん下を向き、わずかに肩を震わせる。それから意を決したように、顔を上げた。


「僕も一緒に連れていってください」
「おまえ、それが目的か!」


 スハイルがすかさず言う。


「だってもういやなんだよ、この国! この先絶対いいことないもの! ねー、一緒に逃げようよー。ここからなら海に出られる。ていうか他に逃げ道が残ってない。僕いろいろと大それたことしちゃったしさぁ、もう本気で居場所ないんだよね」
「だろうな」
「ほら、ね、わかるでしょ? というわけで逃げよう、いますぐ逃げよう、みんなで逃げればこわくない!」


 みな、呆気に取られてただその様子を見守っていた。しかしそのなかにひとつだけ、割って入った声がある。


「わかった」
 低く、落ち着いたその声は、領主ヴェンデルのものだった。


「確認しておきたいことがある」


 だれもが、彼に注目した。スハイルとユライも黙って次の言葉を待つ。


「スハイル、おぬしが疑いを持たれるような行いをしていたというのは、事実なのか」
 緊張が走った。スハイルは集まる視線のひとつひとつに答えるように


「事実です。おれは春の一座をわざと取り逃がしたことがある」
 堂々と言った。


 領主はそれにはとくに反応せず、ユライのほうを見た。


「ユライ、おぬしは我々の……スハイルの味方か」
 静かに問う。ユライはふっと笑って、答えた。


「まさか。僕はいつだって、僕だけの味方ですよ」
「……そうか」


 沈黙が落ちる。しばらく、だれも動かず、なにも言わなかった。やがて、領主がおもむろに口を開いた。


「おぬしの言うとおりにしよう」


 その決断が、その場にいるすべての者に届いた、まさにそのときである。


 竜が、()いた。
 地を震わすほどの声で、啼いた。

 

 

 

 

 


 六二三年、十一月十日、黄昏。


 そのときの光景を、のちにアスライル・バルバートルと名乗る少年は鮮明に記憶していて、その著書のなかに残している。


『明らかに異常だった。みな、揃って外に出て、うねるような竜たちの声を聞いた。


 絶え間なく、王国を包む咆哮。あるいは、唄。残照の空から降るような、地下から湧き上がってくるような、不思議な音色。


 だれも聞いたことのない、だれも知らない、なにを告げるものなのかだれもわからないその音がぴたりと止んだとき、一斉に、竜が、飛んだ。


 無数の巨大な影が空を覆った。残照さえも攫っていった。強い風と羽音が通り過ぎたと思ったら、あとには舞い散る純白の羽根だけが残された。


 ウルズ王国から、竜が、消えた。』


 そしてその後に起きた出来事を、次のように記した。


『太陽が去った静かな海に、波が立った。最後の、本当にわずかな光の残滓(ざんし)を背負って現れたのは、ヴェクセン帝国の船だった。その数、およそ百。


 ああ、とだれかが言った。


 ではあれは、開戦の合図だったのだ、と。』