十四、本心(2)

 季節はすっかり冬だった。もう一月になろうとしているらしい。アウロラはカルタレスの陥落以来なにも聞かされていなくて、外にも出ていなかったから知らなかった。まさかこんなに時間が経っていたなんて。


「それじゃあ、お誕生日のお祝いをしなくてはね」
「わたしのですか?」
「そうよ。盛大にお祝いするの」


 アウロラの知らぬ間に、十二月二十五日生まれのエヴェルイートは十九歳になっていた。悔しい。一番に祝いたかった。


「ありがとうございます。四月になったら、殿下のお誕生日もお祝いしましょうね」
「もちろんよ。楽しみだわ」


 そんなことを話しながら、ふたりは戦場を駆けている。そう、アヴァロン王宮はもはや戦場だった。そこかしこで鳴る剣戟(けんげき)の音、飛び交う矢。そういったものには近づかないように、隠れながら進んでゆく。アウロラはそれに適した経路を熟知していたから、さほど難しくはなかった。


「申し訳ありません。こうならないよう交渉したのですが……」
「いいえ、もとはといえば、わたしが蒔いた種よ。責任はちゃんと取るわ」


 しっかりと手を握って、先導する。


「でも、もうすこし賢いやり方はあったのではなくて? おにいさま」


 いま王宮を攻めているのはベルナールの軍であるという。エヴェルイートはそれと一緒にやってきて、まあ有体(ありてい)にいえば降伏を進言したのだ。行方不明だった次期王配候補が突然帰ってきて、国を裏切った。(はた)から見ればそう思われてもしかたがない。


「申し訳ありません……」
「いいの。あなたはそこがいいのよ」


 どのみち、アヴァロンはもう陥ちるしかないのだ。アウロラがそうなるように仕組んだのだから。


 海から侵攻してきたマティアス皇帝軍も順調にこちらへ迫っている。まったく有能な軍隊である。ただそれは、ウルズ王国内で彼らに味方する者がいるからでもある。ずいぶんと乱れたものだ。ここまでくると逆に、膿を出すにはちょうどよかったのではないかとさえ思えてしまう。


 そうだ、ちょうどいいのだ。いずれアウロラがこの国を再興させたときには、一掃してやる。


 アウロラはもう、徹底的な滅亡を望んではいなかった。生き延びて、ベルナールの支配のもとで機会を待ち、そして取り戻す。それを望んでいた。つまりは、エヴェルイートが進言したのもそういうことである。おにいさまにしてはよく頑張った、とアウロラは思う。ベルナールとの関係をうまく利用している。本人にそのつもりがあるのかは、わからないが。


「こうなったのは、アレクシスお兄さまのご判断ね?」
「……ええ。最期までパルカイの誇りをかけて戦う、と」


 みなそれに賛同して戦闘がはじまってしまったのだ。ということは、父王はもうまるきり使い物にならないということだろう。


「あの方らしいわね」


 思わずため息が漏れる。アレクシスには物事の綺麗な部分しか見えていない。いや、たぶん見ようとしていないのだ。敵に生かされることなど考えられないのだろう。だから、彼を帝国の属国の王として立てようとしていた長兄シリウスは、最初から判断を誤っていたといえる。


 そのシリウスを、アウロラたちはいま救出しようとしていた。自力で脱出でもしていなければ、まだ地下牢にいるはずだ。


 だれも死なせない。話したいことがたくさんある。きっとまだ、やり直せる。


 家族の全員とともに生き延びるために、アウロラは戦場を駆けていた。


 ほどなくして地下牢にたどり着くと、そこは静まり返っていた。罪人を気にする余裕もないほど混乱しているということだろう。アウロラが放置されていたことからもそれはうかがえる。それほどまでに、我が国は脆弱だったのだ。


「シリウスお兄さま!」


 呼びかけるが返事はない。もともと、アウロラの声に応えてくれるようなひとではない。だから大丈夫、無事だ。ただ、聞こえないふりをしているだけだ。そうは思っても、不安が募った。


 耐えきれずに駆け出した。湿った冷気が肌にまとわりつく。灯りはほとんどなくて、進んでいるのかすらよくわからなかった。だから、前方に人がいるということに気づかずに、思いきりぶつかってしまった。


 大きい。だれだ。


 緊張した。迂闊だった。足がうしろに引こうとするのを、必死に耐えた。そうするうちにエヴェルイートが追いついて、どこからか調達したらしい灯りをかざした。


「お祖父さま」
「サイード」
「アウロラ殿下」


 と、声を発したのは三人同時だった。


「ご無事でよかった」
 次の言葉はエヴェルイートが早かった。それに対してサイードが


「……戻ったか」
 と呟くように返す。


「はい、おかげさまで。……ありがとうございました」
「礼はいらぬ」


 素っ気なく言うサイードの、体の向きが不自然に固定されているのにアウロラは気づいた。なにか、隠そうとしている。


「サイード」
「アウロラ殿下、よくぞご無事で」
「そこをどいて」


 サイードは動かない。無言で、アウロラを見下ろしている。


「おどきなさい」


 強く睨むように見上げて、命じた。サイードはやや考えるそぶりを見せてから、ようやくアウロラの言葉に従った。


 その背後に、小さな牢があった。暗くてよく見えない。近づいた。


 なかに、人が、倒れていた。


「シリウスお兄さま……!」


 格子にすがりつく。こちらを向いて目を閉じているその顔は、間違いなく長兄シリウスのものだった。口の端が、血で汚れている。


「シリウスお兄さま!」


 鍵が開いていた。転がり込んで、抱き起こそうとした。瞬間、悟った。


 もう、死んでいる。


 人は死ぬと、こんなに冷たくなるものなのか。こんなにも、遠くなってしまうものなのか。まるで別物だ。これが本当に、動いていたのか、ああやって。もう、動かないというのか。姿形はそのままなのに。


「シリウスお兄さま……」


 美しい顔も、手に残った彼の努力の痕も、生前となにひとつ変わらなかった。ただ、冷たい。信じられないほど、冷たかった。


「……私が来たときには、もう」
 サイードが絞り出すように言う。


「では、だれにも知られずに()ったのね」


 なんということだ。そこまで徹底して、本心を見せまいとしなくてもよいだろうに。ひとりでいようとしなくてもよいだろうに。もうすこし、もうすこし早ければ。


 もうすこし、一緒にいられただろうか。ふつうの兄妹のように、過ごすこともできただろうか。


「お兄さまのばか……」


 馬鹿。大馬鹿。自分の口から漏れるそんな泣き声は、そのまま自分に返ってくるようだった。


 サイードが静かに、アウロラの手からシリウスの体を引き離した。そして仰向けに横たえると、髪や衣服を整え、両腕を腹の上で交差させる。葬送のときの、死者の格好だった。


 外傷は見当たらない。綺麗なものだ。まるで眠っているみたいに。

 アウロラは袖でシリウスの口もとの血を拭い、立ち上がった。


「ねえ、サイード」
「はい」
「シリウスお兄さまは、お父さまの子だったと思う?」


 つい訊いてしまったのは、せめてもの救いを兄に手向けたかったのかもしれない。こんなことをしたら、兄にはまた嫌われてしまうかもしれないけれど。


「間違いございませぬ。シリウス殿下は、イシュメル陛下の御母堂によく似ておいででした」


 父親のことを一度も父と呼べなかった、兄のために、せめて。


「そう。……ありがとう」


 せめて、それくらいは。

 

 

 

 

 

 

 地下牢を出るとすぐに、ひとりのヴェクセン兵に出くわした。返り血だろう、甲冑が赤く濡れている。アウロラは身構え、サイードが剣に手をかけた。ところが、それを制する者がいた。エヴェルイートだった。


「セヴラン」
「これは、瑠璃姫さま。……と、そちらの方々は」
「いまそれを気にする必要があるか?」
「ございませんな」


 セヴランと呼ばれた髭のヴェクセン兵は堅苦しい顔をしているが、エヴェルイートは薄く笑みを浮かべている。けっこう親しげな様子である。


「おまえ、これからどこへ行く?」
「さすがにそろそろ、ベルナール殿下のところへ行くべきかと思っておりますが」
「そうか。ならばわたしたちを連れて行け」


 セヴランが、左頬の傷を掻く。それから表情をまったく変えずに頷いた。


「承知いたしました。それで私の評価が上がるのならば」


 いつの間にか、ベルナールの配下まで手懐けていたのか。ともにここまで来たというのだから当然といえば当然だったが、アウロラはエヴェルイートの手腕に感嘆せざるを得なかった。それもまた、無意識なのだろうが。


「では、こちらへ」
「ベルナールがどこにいるのかわかっているのか?」
「あのお方は派手好きですからな。まあそれらしい場所に行けばだいたい見つかります」


 なんだそれは。そう思いつつも、アウロラはどこかで納得していた。エヴェルイートはそのまま歩き出そうとしたが、それをサイードが呼び止めた。


「これを」
 と言って短剣を手渡す。


「お祖父さま?」
「おまえが持っていたものだ」


 そうして、背を向けた。


「殿下をしっかりお守りするのだぞ」

「お祖父さまは!」


 別れを感じさせるサイードの言い方に不安を覚えたのだろう、エヴェルイートの声には必死な響きがあった。サイードは振り返らずに答える。


「……〈王妃の庭〉へ」
 それで、サイードがなにをしようとしているのかアウロラにはわかった。


「サイード」
 だから、信じて送り出すことにした。


「お母さまを、頼みます」
「承知」


 その背中を見送った。


 必ず、また会える。そのためにアウロラは、いまここにいるのだ。


「行きましょう、おにいさま」
 エヴェルイートの手を取った。


 セヴランに守られながら進む。もう戦闘はほとんど終結しているように見えた。この状況で、「それらしい場所」といえばあそこだろう。


 玉座の間。


 アウロラはほとんど確信していた。セヴランを誘導しながら、一直線にそこを目指した。死体が転がっている。夕陽と血の(あか)が、王宮を染めていた。玉座の間に続く道は、いやに静かだった。


 いつかこの部屋の主になるのだと、アウロラは言い聞かされて育ってきた。その扉のまえに立ち、ゆっくりと押し開けた。


 広い空間に、男がひとり。まるで、そのために用意された舞台のようだった。


「遅かったではないか」


 金色の髪が、斜陽を反射している。
 紅く光る剣を携え、堂々と玉座に座るその男。


「待ちくたびれたぞ」


 ベルナール・アングラードを、アウロラはまっすぐに見上げた。