二、家族の肖像(3)

 結局、その日の会食は中止になった。幸いベルナールや使節団に被害はなく、国王に斬られた寝室付きの者たちも、長兄シリウスも命に別条はなかった。どうやら傷は深くはなかったようだ。それでも傷口を縫う痛みに耐えたシリウスは発熱し、しばらく寝込んだ。

 

 不気味なほど、静かだった。

 

 だれもなにも言わない。王国の現状に深く絡んでいるはずの隣国ヴェクセン帝国すら、なにも言ってこない。やはりもう、この国は終わりなのだとアウロラは思った。

 

 先に述べた、イシュメル王が玉座につくまでの血で血を洗う抗争により、国は疲弊し、乱れていた。イシュメルが王になったということは、勝ったのは奸臣(かんしん)たちということである。その奸臣たちも、イシュメル王と国のゆく末を真に案ずるサイードの地道な努力により数を減らしたが、それはそれでまた問題が発生するし、そもそもそれではどうにもならないところまで来ているのがこの国であった。

 

 だからシリウスもアウロラも、ヴェクセン帝国の力を頼った。

 

 小国の内輪揉(うちわも)めに大国が介入するのは、よくある話である。だがウルズ王国は、国土こそそう広くはないが強大な力を持つ国である。そこに他国の力を引き入れることは、すなわち自国の弱体化を認め、隷属を示すことに等しかった。

 

 結局のところ、シリウスもアウロラもやっていることは同じなのだ。

 

 ただ、シリウスは帝国の(もと)でのゆるやかな再生を望み、アウロラは徹底的な破壊を望んだ。そこに両者の違いがある。

 

 ここで、それぞれの思惑と立場を明らかにしておく。まず前提として、ウルズ王国と同じように、ヴェクセン帝国でも兄弟間(つまり皇帝マティアスと、その兄であり従兄(いとこ)でもあるベルナール)の対立があるということを述べておこう。

 

 シリウスは、相容れない思想を持つアウロラを排除し、帝国に頭を下げながらでもうまくやっていけそうな弟アレクシスを王位につけるために、マティアス帝と手を組んだ。マティアス帝が使者として送り込んだベルナールをシリウスが亡き者にすることができれば、その見返りとして、帝国はアレクシス王子を全面的に支持し、その即位を認め、庇護する――これが、シリウスとマティアス帝の間で交わされた密約である。そしてこれをあえて大っぴらにすることで、賛同者を集め勢力としたのが現状だ。

 

 一方アウロラは、跡形も残らぬようすべてを破壊するために、ベルナールと手を組んだ。だがシリウスとは対照的に、アウロラはそれをひた隠しにし、表向きはいままでどおりの体制を維持しようとする正当な王位継承者として振舞っていた。その裏で、ベルナールを招き入れ、いずれは彼に王国を明け渡すことを約束した上で、派手にマティアス帝と争わせる計画を進めている。そしてウルズ王国を――父を、母を、兄を、大切なひとたちを苦しめた、これからも苦しめるであろうこの国を、自分たちの存在ごと消し去る。それが、アウロラの真意であり、願いであった。

 

 祖国と家族のことを深く考え、愛し抜いたがゆえの、決して相容れない、それぞれが出した答えだった。

 

 その対立に決着がついたのは、六月四日。

 

 早朝のことである。ここ数日、昏々と眠り続けていた国王イシュメルが突如覚醒し、正気を取り戻した。そして同時刻、ヴェクセン帝国大公ベルナールが何者かに襲われた。このふたつの事件が、王国の運命を決めた。

 

 さて、読者諸氏は、この先の歴史をご存知のはずである。そう、ウルズ王国は、一度滅んだ。つまり、アウロラが勝ったのだ。

 

 滅亡のはじまりを、語っておかねばなるまい。

 

 なぜか突然現実の世界に戻ってきた国王は、現状を知ると激怒した。それからすぐに主だった者たちを集め、問い(ただ)した。むろんその場にアウロラもいて、擦り傷を負っただけのベルナールもいて、中心にはシリウスがいた。

 

「これは叛逆(はんぎゃく)である」

 

 夢から覚めた国王の声は、思いの(ほか)しっかりしていた。

 

「いま一度問う。余の目を盗み、かの国と交渉を行ったこと、まことか」

「間違いございませぬ、陛下」

 

 答えるシリウスの声も、淀みなかった。

 

「では売国を認めるのか」

「陛下がそのようにお考えであるのなら」

 

 そこで一度言葉を切った。

 

「……陛下がお望みになるのなら、私は国賊にもなりましょう。陛下がお命じになるのなら、いまここで我が首を切り落としましょう。陛下の御為(おんため)ならば、喜んで塵芥(ちりあくた)となりましょう」

 

 シリウスの目は、ひたすらまっすぐに、玉座に座るそのひとを見ていた。

 

「陛下はただ、お命じになればよろしいのです。これ以上の問答は無用」

 そして跪き、(こうべ)を垂れた。

 

「陛下こそ、我がすべて」

 

 その頭上で、立ち上がった国王が剣を抜いた。

 

 みな、呼吸も忘れて黙っていた。「わたくしはなにも存じませんわ」と息子を突き放した第三妃ゾフィアでさえ、真っ白な顔で立ち尽くしていた。

 

 アウロラは、じっと、見届けるつもりだった。

 

 もし、父が正気を取り戻したなら、こうなるであろうことは予測していた。実際にそうなるとは思っていなかったが、こうして目にすると、なにも言えない。

 

 邪魔をしては、いけない。

 

 だがそんなアウロラの思いを笑い飛ばすかのような、妙に明るい声が聞こえた。

 

「勝手に死んでもらっては、困るな」

 

 一斉にその男を見た。新緑色の目を細めながら金色の髪を掻き上げた男の両耳で、紅玉(ルビー)の耳飾りが揺れる。

 

「これはあなた方だけの問題ではない。お忘れではないかな?」

 大げさに肩をすくめてみせたベルナールが、国王のまえに進み出た。

 

「イシュメル陛下、まずはその物騒なものをお収めください。いまここでご子息を殺めれば、不利になるのは陛下ご自身ですぞ」

 

 ベルナールが言うと、国王はわずかに眉を顰めながら剣を鞘に収め、着席した。満足げに頷いたベルナールは、未だ跪いたままのシリウスを見下ろす。

 

「シリウスどの、あなたはもっと素直になられたほうがよい。考えあってのことだと、なぜ言わぬ?」

 

 シリウスは黙して答えない。

 

「……まあ、私には関係のないことだな。さて、陛下。今朝方、私は何者かに襲われ、このように怪我をいたしました。それについては、どのように思し召しか」

 

「それもシリウスの差し金であろう。であれば、その男を罰すればよい」

 

「それで済むとお思いなら陛下は実に愉快なお方ですな。我が弟とシリウスどのが結託し、私を亡き者にしようとしていたことが真実であるとすれば、それが失敗したいま、弟にはその盟約を守る義理などないのですよ。つまり、我が国はいくらでも難癖をつけてあなた方を襲うことができるというわけです。しかも盟約を交わした張本人であるシリウスどのがいなくなったとなれば……まあ、あわよくば貴国を手中に収めたいと思っている我らが皇帝にとっては願ったり叶ったりというところですな」

 

 国王イシュメルが低く唸り、周囲はざわついた。ベルナールは滔々と続ける。

 

「そもそも私は、正式な使者としてここに参った。我がヴェクセン帝国が奴隷制度を廃したことで貴国に損害を与えるであろうからそれは申し訳ない、平和的に落とし所を探りましょう……と、そういう友好の使者です。それは親書でも先にお伝えしてあるはずだ。その私が、カルタレスではあなた方パルカイの民にしか扱えないという竜に襲われ、この王宮でも傷つけられた。さて、これはふつう、どう見られるでしょうな?」

 

 ベルナールがにっこり笑うと、再び静まり返った。

 

「もちろん、竜の出処(でどころ)もいまのところわからぬし、私の命を狙ったのが本当にシリウスどのの手の者なのかもわからない。そこがはっきりしないのだから、まだ互いに交渉の余地はあるはずだ。……というわけで、シリウスどのは生かしておいて、すべて吐かせたほうがよろしいかと存じますよ。……でなければ私も納得できぬのでね」

 

 一瞬ぎらついた目に気圧されたのは、認めたくはないがアウロラだけではあるまい。そんななか、勇気ある者が消え入りそうな声で尋ねた。

 

「ベルナール殿下は、いったいだれの味方なのですか……?」

 

 と。それに対して、ベルナールは待っていたと言わんばかりに高らかに宣言した。

 

「殿下と呼ぶのはやめていただきたい。その呼称は私には相応しくない。私は、〈陛下〉と呼ばれるべき男だ。いずれ必ず、皇帝となる。そのためならば、だれの味方にも敵にもなろう。蒼き義人(ウルズ)の兄弟たちよ。私の力が欲しくはないか。私は弟とは違う。私が即位した暁には、貴国の果てのない栄光と繁栄をお約束しよう!」

 

 宣言して、国王を見た。ややあって、国王が口を開いた。

「……なにがその保証となる」

 

 ベルナールは言った。

「私が。人質になりましょう」

 

 

 

 

 

 

 その日、ウルズ王国第一王子シリウスは地下牢に入り、罪人となった。

 

 疲弊し、乱れた王国には、もはや考える力も残っていなかった。着々と、滅亡への準備は進んでいた。

 

 アウロラはひとり、自室でそれを噛みしめる。これで、いい。もう問題はほとんどない。

 

 あと、残っているとすれば。

 

「これでやっと会いにいけるわ……待っていてね。もうひとりの、わたし」

 

 開け放った窓から見上げる夜空には、若い双子星が輝いていた。