十、ここからはじまる物語(2)

 同じような天幕の並ぶなかを、山瑠璃に続いて歩く。みっともない顔を隠すために巻きつけた面紗(ヴェール)の下から周囲を窺うと、切り落としたままの木の枝でなにかを作ろうとしている母子と目が合った。

 

 集落にしてはすべてが簡易的だ。むかし読んだ書物に描写されていた、軍隊の野営を思い起こさせる風景である。しかしすれ違うのは女子(おんなこ)どもばかりで、そういう集まりのようには思えない。

 

「こちらですわ」

 と山瑠璃が案内してくれたのも、やはり他と同じような天幕だった。

 

「スハイルさま」

 

 垂れ幕のかかった入口に寄り添うように立ち、山瑠璃がリュシエラの知らない名を呼ぶ。するとすぐに

 

「山瑠璃か」

 

 と男の声で(いら)えがあった。

 

「お連れしました。入ってもよろしくて?」

 

 これには返事がなく、代わりに垂れ幕が押し上げられた。現れたのは若い男だ。アイザックよりは年上だろうか。青みを帯びた黒髪に紫色の目の、精悍だがなんとなく親しみやすい顔立ちをしていた。

 

「本当に……」

 

 と言ったきり、スハイルと呼ばれた男は絶句した。その目はまっすぐリュシエラの顔に向けられている。面紗はうっすら透ける素材なので、この距離ならば目鼻立ちも伝わるだろう。それでこの反応なのだから、彼は亡きアウロラの顔を知っていると見てよさそうだった。

 

「どうぞ、なかへ」

 

 ややあって、スハイルの低い声がリュシエラを招いた。逞しい腕に導かれて垂れ幕をくぐる。

 

 すぐそこに、(むしろ)の上でくつろぐアイザックがいた。

 

「……なんで顔面ぐるぐる巻きなんですか?」

「うるさいわね、なんだっていいでしょ!」

 

 怒鳴ると同時に力が抜けた。その場にへたり込む。そこへすかさずアイザックが這い寄ってきて、面紗に手をかけた。

 

「きゃーっ! ちょっと、やめて、触らないで!」

「よいではないか、よいではないか」

「なんなのよ、それは!」

 

 抵抗むなしく面紗は剥ぎ取られ、咄嗟に顔のまえで交差させた腕もあっさり左右に開かれる。至近距離で、銀色の瞳が大きく二度(またた)いた。

 

「……ひどい顔だな」

「だから見られたくなかったのよっ!」

 

 信じられない、と背けたふくれ面を、アイザックの手が引き戻す。再び文句を言おうとリュシエラが開いた口は、しかし動き出すことなくそのまま静止した。

 

 思いのほか真剣な顔が、そこにあったからだ。

 

「泣いたんですか」

 

 視界の端を、長い指が撫でるようにそっとすべった。触れるか触れないかというくらいの、本当に繊細な距離で。

 

「すみませんでした。怖い思いばかりさせて」

 

 目の奥に直接注ぎ込まれるような視線に、束の間、呼吸すら忘れた。

 

「……わたし、こそ。わたし、……」

 

 うまく言葉が繋げられない。きっと心臓の音がうるさいからだろう。それを無理やり意識の外に追いやってようやく、

 

「あなたが生きていてくれて、よかった」

 

 それだけを、口にできた。

 

 ゆっくりと、沁みるように、互いの視線が交じり合う。それがふっとやわらいで、直後。

 

「まあこんなこともあろうかと、あらかじめ奥歯に解毒薬を仕込んでおいたので」

 

 一気に色を変えた。

 

「そもそも死ぬような毒でもなかったですしね。慣れてるっていうのもありますけど」

 

 じゃなきゃさすがにあんな無茶はしませんよ、とすっかりいつもの調子で言うアイザックに、リュシエラの胸中はどんどん冷めてゆく。さらにわりと早い段階で地理を把握していたことや、この集落に帰り着くまでの算段もつけていたことなどを聞かされれば、もう、こう言うしかなかった。

 

「わたしの純情を返して」

「え、どこにそんなものがあるんですか」

 

 殴りたくなってくる。一応、相手が怪我人であることに違いはないのでぐっと(こら)えた。大きく息を吐き出して完全に平常心を取り戻したところで、

 

「信じられん」

 

 背後から呟くような声が聞こえた。スハイルだった。

 

 振り向けば、入口付近に立ったまま眉根を寄せてなにかを考え込んでいる。隣に並ぶ山瑠璃がその袖を控えめに引くと、はっとしたようにリュシエラを見た。それからいささかの間があったのち、彼は天幕のなかをぐるりと一周してから再び入口付近で足を止め、おもむろにリュシエラの正面までやってきて腰を下ろした。

 

 前のめりな視線が飛んでくる。リュシエラはそれを、真っ向から受けとめた。

 

「信じられん」

 再びスハイルが呟く。

 

「が、信じるしかない。……ですよね、スハイルさま」

 

 アイザックが勝手に言葉を継いだ。それは間違っていなかったようで、スハイルはしきりに首を縦に振る。別段、気を悪くした様子もなかった。

 

 しかし彼の

「どこからどう見てもアウロラ殿下だ」

 という言葉は、リュシエラの機嫌を損ねるのに充分だった。

 

「失礼ね、わたしはリュシエラよ」

 不快感を隠さず言えば、

 

「これは申し訳ない」

 スハイルの顔に焦りが浮かぶ。素直な男である。

 

「まあいいわ、わたしだってそう思ったもの。やっぱりだれが見ても同じ顔なのね」

 

 乱れた長い髪が目にかかった。指で梳いて背中へ流す。

 

「リュシエラ殿下は、アウロラ殿下とご対面されたことがおありか」

「一度だけ」

 

 割れた爪に引っかかった数本をほどきながら、リュシエラは答えた。ほう、と頷く気配がする。

 

「あなた、ちっとも疑わないのね」

 

 手を止めて首を傾げれば、スハイルは清々しいほど豪快に笑った。

 

「ご尊顔を拝して疑う者はおりますまい。それに、アイザックや山瑠璃からだいたいのことは聞き及んでおります。しかしまあ、まさか本当に王家に双子が生まれていたとは……」

 

 後半は、声にいくらか苦いものが混じった。リュシエラの背に緊張が走る。

 

 双子は忌むべき存在だ。本来ならリュシエラも、アウロラだってあの年齢まで生きてはいなかった。それがなんの因果かこういうことになったが、たとえばそれを知った者が、現状に至った責任をリュシエラたち姉妹に負わせることは容易い。そしてそれによって生まれるであろう群集心理を利用することも。

 

「……わたしを殺す?」

 

 リュシエラはさらに深く首を傾けた。できるだけあどけなく、いじらしく見えるように。

 

 それに対してスハイルは、すこし考えてから冷静な表情で答えた。

 

「我らが神の教えを信じる身としては、思うところがないわけではござらぬ。正直に申せばおそろしくもあるが……しかしそれこそ我々の決められるところではございますまい。御身が人としてお生まれになり、またいまこうして生きておられるのであれば、それが神の思し召しということでございましょう」

 

 私はそれに従うのみ、と重々しく言い切ってから、

 

「だがやはり怖いものは怖いな」

 と笑った。

 

 こういうひともいるのだ、と思った。

 

「わたしがアウロラ本人であるという可能性は考えない?」

 

 リュシエラはなおも問いかけた。もっと彼の回答が欲しかった。

 

「それはありえない。一目見ればわかることです。つくりは同じだとしても、やはりそれぞれの顔になるものなのですな」

「じゃあわたしとアウロラ、どっちのほうがかわいい?」

「む、それは……」

 

 そこではじめてスハイルの目が泳ぐ。助けを求めるようにアイザックを見て、なんの反応も得られないとわかると山瑠璃を振り仰いだ。彼女が返したのはため息だけである。

 

 リュシエラはスハイルの手を取ってぐいと引いた。視線が戻ってくる。それをしっかりと捉えながら、言った。

 

「わたし、死にたくないの」

 ただまっすぐに、伝えた。

 

「まだ生きていたい。だからここまで来たわ。生きてさえいられるのなら、この先どう利用されたってかまわない。でもそのために」

 

 手を強く握る。

 

「わたしのことを知ってほしい。そしてわたしは、あなたたちのことが知りたい」

 

 スハイルはしばらく黙ってこちらを見ていた。じっと、(まばた)きもせずに。

 ややあってゆっくりと目を閉じた彼は、再び開いたときそこに笑みを浮かべていた。

 

「名乗りもせず失礼いたしました。私はスハイル=ラダン=ジェ=ブロウト、カルタレス領主ヴェンデルの甥で、現在は養子として跡目を継ぐ立場にござる」

 

 迷いのない声だった。リュシエラはじわじわとその意味を理解して、破顔した。

 

「リュシエラ=アルスマーテルよ。いまはそれ以外のなんでもないわ」

 

 手を放して、今度はこちらから差し出す。それから重ねられた武骨な手を、もう一度固く握りなおした。