六、崩壊(1)

 独りの部屋に、靴音が響いている。それは絶え間なく一定の速度で耳を打ち、アウロラを苛立(いらだ)たせた。

 

 うるさい。

 

 かといって止めることもできず、どうしようもない焦燥感に心臓が締めつけられる。もうかれこれ半日、アウロラはこうして自室をぐるぐると歩き回っていた。

 

 開け放した窓から射した陽が、床に投げ出されている。もう、朝だ。一睡もしていない。眠れるわけがない。目を瞑っても、昨日の光景が繰り返し(まぶた)の裏に映し出されて、止まらない。

 

 やっと会えたと思ったのに。

 

 服装や髪型こそ違えど、あれはたしかに、アウロラの愛しい許嫁(いいなずけ)だった。それを。

 

 あの男は。あの男が。

 

 抱き上げて、連れ去った。奪った。

 

 その、光景。

 

「どうして」

 ――憎い。

 

「どうして?」

 憎い。

 

「どうして? おにいさま」

 この世のすべてが、憎い。

 

 立ち止まった。窓に視線を向けた。空を見上げた。

 雲ひとつない澄んだ蒼に、一羽の鳥が、飛び去っていった。

 

「……ローラさま?」

 

 控えめに扉を叩く音とともに、やわらかな声が聞こえた。こういう呼び方をするひとは、ひとりしかいない。義姉のティナだ。アウロラは声のほうに向きなおり、呼びかけに応えた。

 

「どうぞ、お義姉(ねえ)さま」

 

 そっと扉を開けて、義姉が入ってくる。すぐに頭を下げた彼女は、泣き出しそうな声で言った。

 

「ご無礼をお許しくださいませ、ローラさま」

「構わないわ。お顔を上げて」

 

 本来、国王と王后の次に位が高いアウロラに対して、ティナから声をかけるのは無礼である。そのことを気にして声を震わせているのかと思ったが、顔を上げた義姉はアウロラの顔を見るなりこう言った。

 

「おいたわしいこと……お(やす)みになられなかったのですね」

 

 昨日、あの事件のあと、アウロラはすぐに宮廷医のもとで診察を受け、自室に篭った。女官も遠ざけ、だれも近づけぬように命じていたから、口をきいた者はいない。それゆえにアウロラは国王やみなの現状を把握できていないが、周囲もまたアウロラの様子を知らなかった。だから、ティナがここへ来たのだろう。

 

「……眠れないの」

 

 もう、かわいい妹を演じるのも面倒くさい。素っ気なく答えると、ティナはますます瞳を潤ませた。

 

「ローラさま……」

 ふわりと、抱きしめられる。花の香りがアウロラを包む。

 

「こわかったですわね……つらかったですわね……でも、ご立派でしたわ」

 そのせいで、また、昨日の光景がよみがえった。

 

 あのとき。泣くことすら、できなかった。それをみなは、立派だという。

 

「やっぱり……わかってないじゃない」

 

 ぼそりと呟いた言葉は、ティナにはよく聞こえなかったようだ。聞き返されたが、

 

「なんでもないわ」

 

 と答えた。べつに、理解してほしいとも思わない。エヴェルイート以外には。そう考えていたとき、ティナが急に明るい声を出した。

 

「そうそう、あのご婦人、お目覚めになられたのですって!」

 

 よかったですわね、と体を離したティナに、今度はアウロラから取りすがった。

 

「いま、どこに」

 

 驚いた様子の義姉に詰め寄る。

 

「あの方はどこ、お義姉さま!」

 

 すると義姉はアウロラの腕をそっと撫でながら、

「まあ……ローラさま」

 宥めるように言った。

 

「ずいぶん気にかけておいででしたのね。でもご安心なさって。いまは意識もはっきりしてらして、ベルナール殿下とご一緒に控えの間にいらっしゃいますわ」

 

 なにが安心できるものか。控えの間ということは、謁見の間のすぐそばに、あの男とともにいるということだろう。いちばん会ってほしくない、父王と会うつもりで。あの男のとなりで。なにを、思って?

 

「お義姉さま。女官を呼んでくださいませ」

 

 すっと、義姉から離れたアウロラは、静かに言った。

 

「わたくしも、参ります」