六、選択したその先で(1)

「絶対さっきも通ったわよ、ここ」

「そんなことないですよ。ほら、あんな獅子みたいな岩なかったじゃないですか」

 

 などというやり取りはもう何度目になるだろう。流れ着いた森のなかを歩き続けて数刻、すでに中天にある太陽に目を(すが)めながら、リュシエラは一歩先を行くアイザックに尋ねた。

 

「獅子? なにそれ」

「うわー、知らないんですか。本当に無知な人ですね」

「あなたはけっこう失礼な人よね」

 

 と小石を蹴る。それはひたすらまえを見て歩くアイザックの(かかと)を掠めただけで、気晴らしにもならなかった。

 

「海の向こうの大陸にいる動物です。まあおれも絵でしか見たことはないんですけど」

「なによ、あなただって知らないんじゃない」

「貴重な動物なんですよ。あちらでは力の象徴とされているようです。竜みたいなものですかね」

 

 と言われて思い出した。

 

「ねえ、そういえば」

 アイザックの袖を引く。ほんのわずか、それなりに整った顔が振り向いた。

 

「あの竜、どうしてわたしたちを襲ったのかしら」

 

 はじめて間近で見たその迫力に違和感ごとのまれていたが、本来、竜はおとなしい動物で、こちらから危害を加えない限り襲ってくるどころか近づいてくることすら滅多にない。……らしい、としか言えないのがリュシエラの知識と経験の限界ではあるのだが。

 

「あー、それはたぶん」

 

 と、なぜだか急に舌の動きを鈍らせたアイザックが、再び正面を向いた。そして続いたのは、

 

「おれが巣にちょっかいを出したからじゃないですかね」

 衝撃の告白である。

 

「……あなた馬鹿なの?」

「きみも大概失礼ですよね」

「え? だってそうじゃない? 馬鹿なの?」

「……しかたがなかったんですよ」

 

 ため息と同時に足が止まった。今度は体ごと向きなおって、アイザックはリュシエラを見た。

 

「きみを迎えに行く途中、いろいろあって……気づいたら、竜の巣に」

 

 かと思えば、弁解するうちに視線は横に流れ、声もはっきりしなくなってゆく。リュシエラはわざわざ逸らされた目を覗き込むように、じりじりと距離を詰めていった。

 

 そのまま黙って見つめる。見つめ続ける。アイザックは(まばた)きを繰り返しながら

 

「いやー、うまく()いたと思ったんですけど。だから、えーと、その」

 などと呟いていたが、やがて観念したように

 

「……すみませんでした」

 と目を閉じた。

 

「要するに、この状況に陥ったのはあなたのせいってことよね」

「だから謝ってるじゃないですか」

「駄目。誠意が感じられない」

「じゃあどうしろって言うんです?」

 

 そう言われると具体的にどうしてほしい、ということもない。リュシエラが首を捻っていると、腹が盛大に泣き声を上げた。

 

 思えば、昨日の夕飯以来なにも口にしていない。その状態でこれだけ動きまわれば腹が減るのは当然で、なるほど頭も回らなくなるわけである。

 

「ご飯よ。ご飯を用意しなさい」

「えー、面倒くさい……ここを抜けたらどこかで美味しいもの食べればいいじゃないですか」

 

 お金はあるんだし、と言うアイザックも空腹には違いあるまい。リュシエラは腕を組んでまくし立てた。

 

「いつ抜けられるの? どこに出るかわかってるの? この先にすぐ町があるだなんて保障はどこにもないじゃない。だったらここで食料を確保しておくべきでしょ」

「まさかの正論」

「そう思うのならさっさとなにか()ってきなさいよ! お腹がすいたの!」

 

 怒鳴ったらまた腹が鳴った。アイザックは不承不承といった様子だったが、

 

「じゃあちょっと行ってきますけど、ちゃんとここにいてくださいよ」

 

 と言い残して歩き出した。その背中を見送って、しゃがみ込む。木漏れ日が揺れていた。

 

 まあ、悪いひとでは、ないのだろう。信用できるかと問われればまだなんとも言えないが、ここまで守ってくれたのはたしかだし、尋ねたことにも正直に答えてくれるような印象があった。

 

 たとえば、ソランのこと。リュシエラが花畑で気を失ったとき、彼は果敢にもアイザックに掴みかかっていったのだという。それでしかたなく彼も昏倒させたのだが、安全な場所に移すまえに見つかりそうになったのでそのまま置いてきてしまった、とアイザックは説明した。だから花畑とともに焼け死んでしまったかもしれない。そう謝られたときには、ひどく曖昧な返事しかできなかった。

 

「ソラン……」

 

 巻き込んでしまった。奪ってしまった。

 

 アイザックを責めるつもりはない。自分が甘かったのだ。おとなしく聖都アルク・アン・ジェへ行っていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。それでも。

 

 どうしたって、もう自分にだけは嘘をつけないのだ。

 

「ごめんね、ソラン……」

 

 ただ、いまは、生きていてくれることを願う。痛む胸の中心を押さえた。違和感に気づいたのは、そのときだった。

 

 ない。

 鍵が、ない。

 

 片時も離さず身につけていた。アウロラから渡された、あの鍵が。

 

 立ち上がり、慌てて視線を巡らすも、ただ緑が広がるばかりでそれらしく光るものはどこにもない。どこで落としたのか。この森のどこかか。それとも川のなかか。あるいはそのまえ、竜に襲われたときだろうか。いや、旧市街を離れたときにはすでになかったのかもしれない。なぜ。

 

 なぜ。

 

 なぜ、こんなに動揺しているのだろう。

 

 いつか突き返してやろうと思っていた。面と向かって、言いたいことを全部言ってやろうと思っていた。でも、もう必要ないのだ。

 

 アウロラは死んだのだから。――なのに。

 

「どうして」

 なぜ。なんなのだ。やり場のない、この思いは。

 

「リュシエラ!」

 

 どれほどの時間が経っていたのだろう。その声で、リュシエラは我に返った。