二、新時代の母(3)

「あら、おかえり。早かったんだねぇ」

 

 王宮に戻り、陽の射し込む回廊を歩いていると、視線の先で見るからに包容力のありそうな腕が大きく振られた。

 

「ただいま、ミミ。ちょっとわたしが疲れてしまって、早めに切り上げてもらった」

「だぁから言ったじゃないのさ、無理すんじゃないよって」

「無理はしていないぞ」

 

 瑠璃姫は笑ったが、ミミは険しい顔をしている。ずんずんと近づいてくる彼女の豊満な体は、燃えるような赤い髪と相俟(あいま)って妙な迫力があった。

 

「この間だってそう言ってぶっ倒れたんじゃないかい。アタシゃ聞き飽きたよ、そのセリフ」

 

 やれやれまったく、とため息をつきながら、額や頬に触れる手つきはやさしい。

 

 ミミはいまや、瑠璃姫の侍医だ。もともとベルナールのもとで医術師として働いていたらしい。その話を聞いたときには女性にもそういう仕事ができるのかと驚き、そしてすぐに、なつかしい顔を思い浮かべた。

 

 ウリシェ。

 

 彼女は豊富な知識を持っていて医術にも明るかったが、侍女のひとりでしかなかった。侍医のようなことをしていたのは、たまたま瑠璃姫の体に秘密があったからだ。そうでなければ、本当にただの世話係として城にいたのだろう。もしもいまここに呼び寄せることができたのなら、彼女もミミのような活躍の場を望むだろうか。

 

 ――彼女や父ヴェンデルの安否は、未だわかっていない。

 

「熱はないみたいだね。まあ、今日は早めに寝るって約束するんなら許してやろうじゃないの」

「うん、わかった。約束する」

「なら、よし!」

 

 ミミが力強く笑った。

 

「ところで、どうしたんだい、その花?」

 

 と訊かれて思い出した。そうだった。これを届けに行こうとしていたのだ。

 

「帰ってくる途中でもらった。綺麗だろう?」

 両手いっぱいに抱えた花の束を見せる。鮮やかな黄色が小さく揺れた。

 

「菜の花ね。美味(うま)いのよねぇ、これ」

「……食べるのか」

 

 衝撃を受けた。これを手渡してくれた子どもとその母親は笑顔だったが、もしかして、彼らの食料を奪ってしまったのだろうか。だとしたらなんということを。

 

「そんだけ花が開いてたらもう食べらんないわよ」

 不味(まず)いからね、と続いた言葉に

 「あ、よかった」

 ほっと胸を撫で下ろした。

 

「しっかし、アンタ出かけるたんびになにかしらもらってくるねぇ」

 

 そうなのだ。ベルナールが王都陥落直後から頻繁に城下に出ていたからか、最近同行するようになった瑠璃姫にも民衆はおおむね好意的だ。こういう贈り物は素直に嬉しいし、金銭さえ絡んでいなければベルナールも拒むことはないので、ありがたく受け取るようにしていた。

 

「彼らの気持ちを裏切らないようにしないとな」

「ま、もらえるもんはもらっときな。だけど植物には気をつけなよ? 毒があるかもしれないんだから」

「わかっている。一度それで死にかけたからな」

「……アンタ意外としぶとく生きてんだね」

 

 そういえばこの話はしたことがなかったか。気づいて、瑠璃姫は「そうだな」と苦笑した。

 

 侍医であるミミはもちろん、セヴランにも、本名を明かしたうえでこの体のことやだいたいの事情は話してある。だがまだ互いに知らぬことも多いのだ。

 

 とはいえ彼らはすでによき理解者ではあった。明かしたところで彼らの態度はなにも変わらず、強いて言うなら

 

「アタシ、なんてことを……」

 

 とミミに泣かれた程度である。初対面時の後継ぎ云々(うんぬん)の話を気にしたのだろう。子が()せないということに関してはベルナールもそのときはじめて知ったようで、なにやら微妙な顔をしていた。というかそれ以外は知っていたことにこちらが驚いたのだが、同時にほっとした部分もある。その血筋を残せないとなれば、ベルナールはそのうち瑠璃姫を手放すだろう。

 

 いまはただ、ふさわしい女性がいないから隣に置いている。きっとそれだけのことなのだ。そう思えば気がらくだった。

 

「おっと、そうだ。アンタもしかしておじいちゃんのとこに行くつもりだった?」

 ミミが思い出した、というように手を叩いた。

 

「ああ、この花をお持ちしようかと」

 

 祖父サイードは、あの日ひどく負傷したものの、なんとか一命を取り留めた。しかしめっきり老け込み、いまではほとんど寝たきりになっている。ミミはそんな祖父の世話も引き受けてくれていた。

 

「悪いんだけど、またあとで持ってってやって。さっき寝たとこなんだ」

「そうなのか……わかった。いつもありがとう」

 

 祖父の部屋からはだいぶ離れているからそんなことをする必要はないのだが、自然と声量が下がる。それがおかしくて、ふたりで笑った。

 

「なら、先にほかのところに行ってくる」

 と言って歩き出そうとすると、

 

「待った」

 と肩を掴まれた。

 

「また離宮かい? やめときなって」

 ミミが気遣わしげに首を振る。

 

 離宮――〈王妃の庭〉では、現在ふたりの未亡人が暮らしている。(さき)の王后ウイルエーリアと、アレクシス王子の妻であった、ティナだ。

 

 ウイルエーリアとの関係は良好なのだが、ティナには完全に敵視されていた。当然だと思う。彼女は、夫の首がベルナールに()ねられるところを見ていたのだ。そして「エヴェルイート」が「瑠璃姫」として、その夫の仇とともに玉座に座ったことも知っている。彼女には真実を話していないので一部誤解はあるだろうが、それでも瑠璃姫が彼女や王家を何重にも欺き裏切った存在であるということは否定できない。

 

「お互いに傷つくだけだよ」

「…………」

 

 返す言葉もない。だが、どうしてもなにかをせずにはいられなかった。自分勝手だとは、思う。

 

「すまない。……ありがとう」

 

 そう言って目を伏せれば、ミミももうなにも言わなかった。肩が解放されるのと同時に、再び歩き出した。