三、ふたりの王女(2)

 そのあとのことを、少年はよく知らない。昏倒していたのだ。リュシエラを連れ去ろうとするサイードに噛みついて、おそらく殴られ、倒れた。意識が落ちる寸前まで必死に手を伸ばしたが、届かなかった。

 

 リュシエラは、抵抗もせずに連れて行かれた。

 

 いや、行ってしまった。ついに、行ってしまった。

 

 リュシエラの出自になんらかの秘密があるのだろうとは、思っていた。だから、いつかこういう日も来るのかもしれないと思っていた。だが、できれば来てほしくなかった。

 ほとんど諦めていながら、それでもこの家の一員であると信じたがっていたリュシエラのために、嘘を貫いてほしかった。

 

 彼女に、孤独を、認めさせてほしくなかった。

 

「お嬢さま……」

 

 少年が目を覚ましたとき、まだ辺りは薄暗く、だれもいなかった。頭が痛む。ゆっくりと身を起こし、痛む箇所を確認する。血が出ていた。命に関わるような怪我ではなさそうだが、少年の銀髪なら血の色が目立って、相当な重傷に見えるかもしれない。だからだろうか。あんな国家機密を知ってしまったというのに、少年は放ったらかしにされていた。

 

 これは、好機だ。

 

「お嬢さま」

 

 立ち上がる。足を踏み出す。目もとに垂れた血をぐいと拭って、リュシエラの面紗(ヴェール)を手に取った。

 

「いま参ります」

 

 行く先など知らない。ただ、この匂いをたどって行けばよい。少年は知っていた。自分の嗅覚は、リュシエラを連れ去った「人間」たちよりも優れている。それは調香の技でも証明されている。純粋な「亜人」には多少劣るかもしれないが、この、自ら作り出した匂いなら。だれよりも彼女のそばにいた自分なら。

 

 絶対にたどり着ける。

 

 寝室を飛び出した。朝の気配が近い。だがまだ人が起き出した様子はない。いつもは離れを囲んでいる警備も、いまはいない。もう必要ないと判断されたか。ならば堂々と、正面から。

 

 母屋に残る鈴蘭の香り、つまり主人の匂いは、まっすぐ玄関に向かっている。あちらも堂々と出て行ったようだ。追いやすい。迷うことなく駆けた。

 

 門番の姿を想定したが、そこにはだれもいなかった。あらかじめ人払いをしてあったのだろう。では、これは以前から計画されていたことなのだ。なぜ気づけなかったのか。悔しさが募る。

 

 通りに出た。はじめて見る、景色だった。屋敷の外は、知らない世界だ。それは、少年にとっての「世界」が壊れた瞬間だったのかもしれない。臆することなく、彼は駆け出した。

 

 外は思っていたより狭くて、入り組んでいた。馬車は通れないこともないだろうが、歩いたほうが速そうだ。実際、少年の追う匂いはしっかり地面に残っていて、徒歩で通過していったことが窺えた。

 

 ときおり迷い、立ち止まりながらも、少年は駆けた。冷静にひとつひとつ、情報をつなぎ合わせてゆく。やがてたどり着いたのは、街外れの、枯れ井戸だった。匂いはここで途切れている。ということは。

 

「地下通路があるんだ」

 

 まあ、不思議なことではない。王家に次ぐ名門貴族が住まう都市なのだ、緊急用の抜け道くらいあるだろう。そしてそれを知っているということは、やはりあのサイードという男は「ブロウト家前当主サイード卿」で間違いなさそうだ。

 

 少年は確信して、井戸の底へ降りていった。主人の匂いが濃厚になる。灯りはないが、これならば迷うこともないだろう。壁に手を当てて道を確認しながら、歩いた。

 

 ある程度進んだところで、異変に気づいた。血の匂い。

 

 まさか。

 

 走り出す。匂いが濃くなってゆく。それが()せかえるほどになったころ、少年はなにかに躓いて転倒した。咄嗟についた手や服が濡れる感触。そして自身の下に横たわっているのは、間違いない、人体だ。大きい。大人、の、たぶん男。暗闇のなかでそこまで推測した少年は、やはり匂いから結論を導き出した。

 

 リュシエラの父、いや、もう養父と言ったほうがよいのだろう。そのひとの、死体が転がっている。

 

 ひとまず、胸を撫で下ろした。だが安心はできない。リュシエラの身にも、危険が及んでいるかもしれない。

 

 べっとりと全身にこびりついた血が鼻を惑わせるが、大事な主人の匂いはちゃんと嗅ぎ分けられる。まだ、匂いは続いている。大丈夫だ。少なくともここで殺されてはいない。

 

 少年は立ち上がり、すこしだけ考えた。それから一言、

 

「お嬢さまと出会うきっかけをくださって、ありがとうございました」

  と死体に声をかけた。再び歩き出した。

 

 しばらく行くと、少年はまた異変に気づいた。匂いが増えている。

 

 嗅ぎ分けられる匂いは全部で四つ。主人リュシエラ、彼女を連れ去ったサイード、そこに加わった知らない匂い。それらはみな、新しい、つい最近ここを通ったことがわかる匂いだ。残るひとつだけが、異質だった。他の三つと比べるとだいぶ薄い。つまり古い、すこしまえにここを通った者の匂いだ。その匂いを、少年は知っていた。そう、一度だけ、会ったことがある。

 

「……領主さまの、ご子息」

 

 行方不明だという、あの綺麗なひとの匂いだった。

 

 少年の行く先に、その匂いは必ず残っていた。同じ場所に、向かっている。これは、もしかしたら。

 

 同じものに、たどり着くのではないか。

 

 ほとんど直感だった。だが妙な確信があった。少年はいま、想像以上に大きな問題に手を出そうとしている。それでも、足は、止めなかった。

 

 暗闇のなかを、駆けた。なにが自分を突き動かすのか、よくわからなかった。ただ、最後に見たリュシエラの表情が、脳裏に焼きついて離れなかった。

 

 はじめて見た、そのほほ笑みが。(かな)しく美しい、その表情(かお)が。

 

 駆けた。鈴蘭の香りが導いていた。まだ名もなき少年の運命を、導いていた。

 

 そして、少年はついに足を踏み入れたのである。この国の中枢へ。その歴史の、一部へと。

 

 行けども行けども真っ暗だった視界に、ふいに明かりが灯った。

 それはゆっくりとこちらに近づいてくる。少年もゆっくりと、近づいていった。

 

 やがて見えてきたのは、リュシエラを連れ去った男、サイードだった。わかりにくいが驚いたようにその目が動く。立ち止まった彼のうしろから、もうひとり、現れた。

 

「あら?」

 

 高く澄んだ声。さらりと流れる青みを帯びた黒髪。大きな紫色の瞳。楽しそうに笑うその顔。

 

 すべてが、リュシエラと同じだった。だが、

 

「おかしいわね、サイード。全員処分したのではなかったの?」

 

 別人だ。リュシエラはこんな、甘くとろけるような喋り方はしない。

 

「ああ……あなたね。あの子の奴隷というのは」

 

 どろどろと濁った笑顔が歩いてくる。少年は、思わず一歩退(しりぞ)いた。リュシエラと同じ顔をした少女は、構わずに目のまえまでやってきて、少年の血まみれの手を取った。

 

「はじめまして。わたくしはアウロラ。……リュシエラの、双子の姉妹よ」

 

 振りほどくことは、できなかった。