九、絡み合う糸(1)

 瑠璃姫は肩越しにちらと振り返ってため息をついた。荷馬車のなかで眠る大小ふたつの人影が、昨夜の出来事は夢ではないと改めて告げていたからだ。

 

 いや、そんなことはもうわかりきっている。だからこそこうして一睡もせずに、見張りをしながら頭を抱えていたのである。

 

 すでに太陽は地平線を明るく染めている。早朝の空気は澄んで冷たく、しかしながら清々しいとはほんのすこしも思えなかった。ゆっくりと広がる光の帯が嫌味なほど眩しい。

 

 再び盛大なため息が漏れた。

 

「悩んでんなぁ」

 

 と、背後から声が聞こえた。遠くを眺めたままで答える。

 

「これが悩まずにいられるか」

「そりゃあ大変だなぁ。おれでよかったら相談に乗るぜ?」

「あのな、ソラン……」

 

 思わず、三度目のため息。ソランは機嫌よさそうに鼻歌を歌いながら荷馬車を降り、地べたに座り込む瑠璃姫の正面に腰を落とした。

 

「おはよ、お妃さま」

 にっこりと笑う。

 

「……おはよう、ソラン」

 

 さすがに四度目は呑み込んで、しかしほとんどそれと変わらない調子で瑠璃姫は返した。ソランが笑みを深くする。

 

「おれちょっとションベンしてくんな!」

「ああ、あまり遠くへは行くなよ」

「え、じゃあここでする?」

「だからって見せようとしなくていい」

 

 いいから早くしてきなさい、と軽く手を振れば、いたずらっぽく鼻を掻く。いとけなさと小憎(こにく)らしさが同居するその仕種(しぐさ)に、瑠璃姫の頬もつい緩んだ。

 

 やけに楽しげに駆けていったソランの背中を見送って立ち上がる。それから全身を後方へ向けると、寝そべったままこちらを窺っていたティナと目が合った。

 

「おはようございます、ティナさま」

 

 いくらか戸惑い気味にティナの視線が揺れる。

 

「お起こししてしまったでしょうか、申し訳ありません」

「いいえ……起きていましたから。お気遣いありがとう」

 

 腹を庇いながらゆっくりと上体を起こしたその顔には疲労の色が見える。ありったけのもので寝床を整えはしたものの、ただでさえ深窓の令嬢にはやさしくない環境で、そのうえ身重の体とくればそれも当然であろうと思われた。

 

「ティナさま」

 

 静かに呼びかけると視線で応える。目もとは赤く腫れていた。

 

「おつらいところはございませんか」

 

 そんなことを訊くだけで精一杯だった。ティナは驚いたように目を見開き、次には、はらはらと涙をこぼした。

 

「……どうしてそんなことを聞くの」

 

 両手で顔を覆う。

 

「ひどい。ひどいわ。あなたはどこまでもわたくしを惨めにさせるのね」

 

 瑠璃姫は戸惑った。いっそこのまえのように「なぜ生きているのか」と、「あなたが死ねばよかったのに」と(なじ)ってくれれば、まだ答えようもあった。だがいま瑠璃姫のまえにいるティナは、あのときとはまるで別人だ。

 

 いや、どちらかというと、本来の彼女に戻ったように思えた。

 

「ティナさま……」

「来ないで!」

 

 華奢というよりはやつれてしまった体が小さくなって震える。思わず伸ばしかけた手を、瑠璃姫は引くこともできずにぎゅっと握った。

 

「わ、わたくしは……わたくしは、あなたたちの思いどおりになんてなりませんから」

 

 ティナの頬が勢いを増す涙で光る。

 

「ティナさま、わたしはなにも」

「わたくしの夫はあの人だけよ!」

 

 呼吸も詰まらせるほど泣きじゃくりながら、それでも強く放たれたその言葉は、瑠璃姫を打ちのめすのに充分だった。

 

 聞いたのだ。ティナは、きっと、彼から。

 

 妻として迎えるつもりだと。

 

 昨日の昼間、ウイルエーリアと会っていたときには、まだその話はティナのもとへ届いていないということだった。では、そのあとだろう。

 

 あのとき――すれ違った、あのときだろうか。あのとき、彼はその意思をティナに伝えたのだろうか。

 

「……それで、王宮を抜け出されたのですね」

 

 複雑な気持ちだった。ほっとしたような、ひどくせつないような、なんとも言えない感情が胸の奥で渦巻いていた。

 

「ティナさま、どうかお聞きください。これからティナさまやお腹のお子がお過ごしになるには、彼のもとがいちばん安全です」

 

 半ば自身を落ち着かせるために、瑠璃姫はティナに語りかけた。

 

「嘘よ!」

「嘘ではありません。彼は玉座につくことを望みませんでした。いずれ、正当な王位継承者に明け渡すつもりです。それは、ティナさま、あなたとアレクシス殿下のお子に他ならないではありませんか」

「もしそれが本当だったとしても、あなたは夫の仇におもねるべきだと、夫の仇にこの子を渡すべきだと、本気でそう言うの!?」

「それは――」

 

 一度、声を呑んだ。ティナの目がまっすぐにこちらを射抜く。意を決して見つめ返した。

 

「――はい。そう思います」

 

 ティナが絶句した。

 

 追い打ちをかけるように瑠璃姫の舌は動き続けた。止まらなかった。

 

「御身に宿しておられるのは赤児ではありません、一国の未来です。生かしてもらえるというのなら、権力に追従することも必要でしょう。それに、もし彼との間にもあなたの子が生まれれば、我が国の未来はさらに広がります」

 

 ティナはもうとめどなく涙を流しながらこちらを見上げ、力なく首を横に振るだけだった。泣きすぎて苦しいのだろう、薄い唇が忙しなく開閉し、わななくように震える。それが次第に形を整え、やがてひとつの言葉を作った。

 

「悪魔」

 

 なおも新たな雫が落ちる。

 

「あなたは悪魔よ」

 

 やけにゆっくりと、伝って落ちる。

 

「……そうかもしれませんね」

 

 瑠璃姫は頷くようにうつむいた。しばしの沈黙が降りた。軽く視線を流せば、ミミやセヴランが用意してくれた積荷の一部が目に入った。

 

「朝食に、しましょうか」

 

 呟くようにそう言って、手を動かそうとしたときである。

 

「んぎょわぁあああっ⁉」

 

 と、どことなく間の抜けた絶叫が(こだま)したのは。