十、ここからはじまる物語(1)

 いつだって空しかった。

 

 だれからも求められず、ただそこにいるだけの日々。

 

 求めてほしかった。求められさえすれば、それがどんな要求であってもリュシエラは完璧に応えられるはずだった。それだけの能力はあると自負していた。

 

 そんなことはなかった。

 自惚れだった。

 なんの力もなかった。

 

 悔しい。ただ、ただ、悔しい。

 

 ――ねえ、だから言ったでしょう?

 

 耳の奥で声が響く。

 

 ――あなたはなにも考えなくていいの。おだやかに、苦しまずに、だれとも関わらずに生きてゆくのがしあわせなのよ。

 

 ちがう。

 

 ――だってずっとそうしてきたじゃない、あなたは。あの環境に甘んじていたのはあなた自身でしょう? なぜいまさらそれを拒むの?

 

 気づいたからよ。あなたが教えてくれたからよ。このままではなんの意味もないと。ほんとうになんの意味もなく終わってしまうと。それが悔しかったからよ。わたしという存在を、せめてわたしだけは認めていたかったからよ。

 

 ――でも。

 

 でも。

 

 ――意味なんてないのよ。だってあなたはなにもできないもの。必要とされなかったほうだもの。かわいそうなリュシエラ。あなたは所詮わたしの影にすぎないのだわ。

 

 でも、あなたは死んだ。生きているのは、わたし。わたしよ。ねえ、アウロラ。あなたは死んで、わたしが生きている。なぜなの? なぜあなたは死んだの? わたしに黙って、なぜ死んだの。

 

 なぜ。

 

『わたしを覚えていて』

 

 なぜ、あんなことを。

 

 答えを知ろうと開いた目は、しかし、リュシエラになにも見せてはくれなかった。

 

 単純なことだ。暗闇のなかにいるからだ。暗闇がもたらすものはどこまでも暗闇で、ほんのすこしもその手を緩めない。だから見えない。もちろん、死者の幻影(かげ)だって。

 

 抱えた膝が濡れていた。(はな)(すす)るとかすかに煮込み料理のにおいがして、腹が鳴った。たぶん、もう丸一日なにも口にしていなかった。

 

「……おなかすいた」

 

 呟く声も暗闇に消える。返ってくる声はなかった。

 

 もう一度洟を啜って、頭からすっぽり被っていた毛布を肩まで落とす。うっすらと光が見えたがまだ暗い。ただそれはリュシエラが閉めきった天幕のなかにいるからで、外では太陽が眩しいくらいに輝いているはずだ。

 

 いい加減、顔を出したほうがいいだろうか。

 そう思ったときである。

 

 天幕の入口にかかる垂れ布が勢いよく跳ね上げられた。急に射し込んだ強烈な光が視界を()く。思わず両手で顔を覆うと、

 

「ほら、やっぱり起きてたわ」

 

 甲高い少女の声が耳朶(じだ)を打った。

 

「あたしの言ったとおりでしょ? ホラホラあんた、起きてんならちょっとは手伝いなさいよ。もう昼どきだよ」

 

 薄く開いた目の先に、逆光を背に立つ影がある。その身長から推察するに、年のころはリュシエラとそう変わらないようだ。

 

「……だれ?」

「だぁーれえー? そりゃこっちのセリフよ、あんたいったい」

 

 と、こちらへ踏み込もうとしてくる影を、またべつの影が横から押しとどめた。

 

「はいはーい、マリッカちゃん、ここはいいから。ね」

 

 今度は大人の女性の声がする。これには聞き覚えがあった。リュシエラの窮地を救い、この集落に迎え入れてくれた、まさにその声だ。

 

 ふたつの影はしばらくなにか言いあっていたが、やがて小さいほうは去り大きいほうだけが残った。明るさに慣れてきた目が、豊かに波打つ黒髪を捉える。それが揺れながら、ゆったりとした足取りで近づいてきた。

 

「お加減いかが、お嬢さま?」

 

 長い睫毛に縁どられた瞳は瑠璃色。それに似合う彼女の名を、リュシエラはもう知っている。

 

「山瑠璃」

 

 すがるように呼び、立ち上がろうとすると目が回った。両の手のひらと膝をつく。

 

「万全という感じではありませんわね」

「わたしは大丈夫よ、それより」

 

 と上げた顔に、山瑠璃の手が触れた。そのまま頬を撫でた指先はすこし荒れていて、その先の腕には目立つ傷がある。手首から肘まで及ぶもので、刃物で切られた痕のように見えた。以前会ったときにはなかったものだ。

 

 そう、彼女と会うのは、今回がはじめてではない。

 

 二年まえ、自身の出生を知ったあの日、わずかな時間だけ言葉を交わした妓女。それが、山瑠璃だったのだ。

 

「アイザックなら、さっき目を覚ましたところですわ」

 

 と、(べに)のひかれた唇がほほ笑む。リュシエラは思わず山瑠璃の肩を掴んだ。

 

「ほんとうに?」

「嘘をついたってなんの得にもなりませんもの」

 

 蝶のようにひらひらと舞う笑い声に、リュシエラの強張った指もほどけていった。腕がずり落ちて、追いかけるように全身の力が抜ける。ぺたりと座り込んだ。

 

「よかった……」

 心から、そう思った。

 

「お嬢さまのおかげですわね」

 知らず震える手を、山瑠璃の手が包む。

 

「違うわ、わたし、なにもできなくて」

「お嬢さまが呼んでくださらなかったら、気づかず手遅れになっていたかも。アイザックはわたくしたちにとっても大切な仲間です。助けてくださって、ありがとう」

 

 そんなことを言われたら、もう、どうしようもなかった。

 

 やっと止めたばかりの涙がどんどんあふれた。伝えたいことがたくさんあって、口は無駄に忙しなく動くのに、喉がまったく言うことを聞いてくれない。言葉になるはずの声は意味のない音として漏れるばかりで、聞き苦しいことこの上なかった。わかってはいても止められないのだ。次第にそれもどうでもよくなってきて、リュシエラはただ、声をあげて泣いた。

 

 山瑠璃がずっと背中を撫でてくれていた。

 

 そのうちリュシエラの呼吸が落ち着いてくると、ゆっくりと立ち上がって彼女は言った。

 

「それじゃ、行きましょうか」

 

 引きつる喉を宥めながら、その爪先に向けて答える。

 

「……行くって、どこへ?」

「決まってますわ。アイザックのところです」

 

 リュシエラは弾かれたように顔を上げた。

 

「こんな顔見せられるわけないでしょ!?」

「あら、とっても可愛らしいお顔よ、お嬢さま」

「そんなことは知ってるわよ!」

 

 そうじゃなくて、と暴れる腕を掴み、山瑠璃は入口のほうへと引きずってゆく。

 

「大丈夫だいじょうぶ、彼、女の子の顔なんてぜーんぜん見てませんもの」

「それはそれで納得いかないわ」

「わがままねぇ……」

「とにかくこのままじゃ絶対いやっ!」

 

 この攻防はしばらく平行線をたどったのち、「化粧」という山瑠璃からの提案をリュシエラが受け入れたことで一応の収束を見た。が、山瑠璃愛用の白粉(おしろい)はリュシエラの日焼けした肌に合わず、ますますひどい顔が出来上がったことにより再度争いが勃発。

 

 結局リュシエラが天幕を出たのは、最初の攻防から約二時間を経た昼下がりのことであった。