五、「イージアス」(3)

 夜、エヴェルイートはカルタレス城の庭園にいた。傍らにはイージアス、それからベルナール。すこし離れたところにベルナールとともにやってきた使節団が固まっていて、父ヴェンデルが彼らをもてなし、従兄のスハイルがその身辺の警護に当たっていた。さらにその周りを、ウリシェら使用人たちが忙しなく行き交う。


 もともと屋内にセッティングされていた会食の場を、屋外に持ち出そうと提案したのはベルナールだった。折しも星月夜である。エヴェルイートは、ともすればこの男がそういうことを言い出すのではないかと予想していた。ちなみに、なかなかややこしい言葉なので一応説明しておくと、星月夜とは「月夜のように星が明るく光る夜」、つまり新月のよく晴れた夜のことである。当然街灯もないこの時代、それは見事な星空が拝めたのではないかと思う。


「じつに美しい夜だ。美しいものは、心を豊かにしてくれる。そうは思わぬか、エヴェルイートどの」
「はあ、そうですね」
「だいぶ受け答えが雑になってきたな。よいぞ、構わぬ」


 構えよ、とはさすがに言えず、エヴェルイートはため息を酒で飲み下した。かれこれ一時間、こうしてベルナールの相手をしている。なにがこの男の気に入ったのか、エヴェルイートはずっとつき纏われていた。


「あちらに合流なさらなくてよろしいのですか、ベルナール卿」
 と、父ヴェンデルと談笑する一団を指す。


「よいのだ。私はあなたに興味がある」
「はあ……」


 まあ、それはそうだろうとエヴェルイートは思う。エヴェルイートは次期王配(おうはい)候補である。ヴェクセン帝国の政治の一端を担うベルナールにとっては、無視できない存在だろう。それはわかるのだが、いい加減、離れてはくれないだろうか。もう話すことはないと言わんばかりに、また酒を飲む。


「あなたは、夜が似合うな」


 唐突に言われて、すこし()せた。酒精(アルコール)が喉を刺激する。


「はあ?」
「いや、朝お会いしたときからずっと思っていたのだが、あなたの美しさは暗闇のなかでこそより際立つように思うのだ」


 なんだ、その、歯の浮くような台詞は。エヴェルイートは頬を引きつらせ、一歩うしろに控えているイージアスはたぶん笑いを堪えようとしたのだろう、小さく咳払いした。


「待て、待て待て、ベルナール卿。相手をお間違えではないか?」


 思わず、敬語を忘れた。ベルナールはやはり咎めず、むしろ嬉しそうである。


「おお、やっと打ち解けてくれたか。もとより我らの立場は対等、堅苦しい言葉遣いなど無用だ。友として認めてくれたこと、嬉しく思う」
「いや、そうではなくて……ああ、もう、面倒臭い! では遠慮なく言わせてもらうが、人を馬鹿にするのも大概にしてもらおう」


「馬鹿にする? なんのことだ」
「近い、顔が近い! だからそういう、女に対するような言動をやめろと言っているのだ。私は、男だ!」

「承知しているが?」
「承知していてそれなのか!?」


 なにやら危険を感じて仰け反ったとき、背後からくつくつと笑う声が聞こえた。見ればイージアスが、背中を丸めて口に手を当て、必死に顔を隠そうとしている。


「イージアス?」
「……っし、失礼いたしました」
「いや、べつにいいが……なんだ、珍しいな」


 イージアスが、こうやって声をあげて笑うことは滅多にない。ましてや、仕事中である。はじめて見ると言ってもよいその姿に、エヴェルイートはなんだか嬉しくなった。


「エヴェルイートさまが、珍しく楽しそうにしておいででしたので」
「おい、ちょっと待て。なんでそうなる」
「おふたりは、相性がよろしいのですね」
「だからやめろ、気色悪い!」


 横で「気色悪い!?」と悲鳴をあげたベルナールを無視して、主従は続けた。


「気づいておられませんでしたか。あなたがこのように声を荒げたり、露骨に不機嫌な顔を見せたのは、お身内以外でははじめてなのですよ」
「……そうなのか?」
「はい。私は、嬉しく思います」


 イージアスの言う「身内」には、両親はもちろん、ウリシェや幼少時世話になった侍女エリス、それからイージアス自身も含まれている。それを感じて、エヴェルイートは心の底から喜んだ。


「そうか。おまえが嬉しいと、わたしも嬉しい」


 イージアスも、おだやかな笑みを返す。


「ただ、相性がよいというのは、誤解だな」
「聞き捨てならんぞ、エヴェルイートどの!」


 立ち直りの早い男である。主従の間に割って入ったベルナールは、がっしりとふたりを掴まえて、言った。


「我らはもはや親友だ! さあ、友情を星に誓おうではないか!」
「遠慮します」
「なんだと!?」


 声を揃えて答えると、ベルナールは大げさに嘆いてみせた。だがすぐに顔を上げ、なにやら決意を拳に込める。


「挫けぬ……これしきのことでは挫けぬぞ。我が名はベルナール、その意味は〈強く勇敢な者〉だ!」


 つまりこれからもしつこく絡んでくるということか。エヴェルイートは辟易しながら、すこし気になっていたことを口にした。


「あなたは、ずいぶんと名前の意味を気にされるのだな」


 昼間、着替えをさせようとしたときも、ベルナールはイージアスの名前を気にしていた。たしかに侍従らしくはないのかもしれないが、貴族には多いその名前に着目したのは、ベルナールくらいである。


「ああ、これは弟の受け売りなのだが……」


 と、ベルナールはすこし視線を落とした。


「名前というのは、最初に手に入れる自分というものの証明だ。そして、枷でもある。ときに重く、煩わしいが、それはこの世で最も短い祈りなのだ。だから私は、名に恥じぬような人間であろうと思うし、ひとの名を尊重したい」


 それから、エヴェルイートの耳もとで、囁くように言った。


「エヴェルイート……〈原始の光〉。よい名だ」


 はっとした。ベルナールはいつの間にか、エヴェルイートとイージアスの前方、五歩ほどの距離のところに立っている。


「だからやはり、あなたは闇のなかでこそより輝くのだ」


 ベルナールが、天上を指差した。星が明るいとはいえ、月のない夜、わずかに灯された火だけではその表情まで見ることはできない。


 ――だから、反応が遅れた。


 次の瞬間、ベルナールの体はなにかに弾き飛ばされていた。


「ベルナール卿!」


 エヴェルイートはすぐに駆け寄り、倒れた長身を抱き起こした。さいわい、ベルナールの飛ばされた場所は低木や草花が植えられたところであり、土も柔らかい。ベルナールの受身が熟練していたこともあり、大事には至らなかったようだ。


「お怪我は」
「ない。それよりあれはなんだ!?」


 ベルナールが空を見上げる。そこかしこに星を散りばめた空に、(いびつ)な黒い穴が空いている。いや、あれは影だ。巨大ななにかが空に浮いているのだ。その影の形を、エヴェルイートは知っている。


「嘘だ……」


 ばさり、と音を立てて影が動く。風が起こる。翼が生み出す凄まじい風圧に、足を踏ん張って耐えた。


「なんで」


 影が、その生きものが、地に降り立つ。巨大な気高き獣の体に白銀の六枚羽、黄金に輝く二本の角。そう、たしかにそれは、昼間見た、


「なんで竜が人を襲うんだ!?」


 温厚で無害なはずの、神聖な獣だった。


 エヴェルイートの問いに答えるように、竜が咆哮をあげる。独特の唄うような鳴き声が、連鎖して響いた。それで気づく。一頭ではない。


「なんだ、これは……なにが起こっている?」
「わからぬ。とにかくいまは逃げるぞ!」


 竜がこちらを見ている。狙いを定めている。おそらく最初にベルナールを弾き飛ばした一頭だ。全身を覆う白い体毛がわずかに揺れ、金色の()が光った。と同時に、ベルナールがエヴェルイートの手を取り、走り出した。そこらじゅうから悲鳴が聞こえる。


「父上……父上は!」
「まずは自分の心配をしろ!」


 先ほどまでとは別人のようなベルナールに叱責されて、エヴェルイートは押し黙った。暗い。ところどころ、会食のために灯していた火が燃えている。なにかに燃え移ったのだろうか。広がる炎をなんとかして消し止めようとする人々が見えて、それから、その人々を竜の牙が襲うのが見えた。まるで布きれのように、人の破片がぼろぼろと落ちてゆく。


「見るな。来るぞ」


 ベルナールがぐっと手を引く。


()けろ!」


 直後、巨大な爪の切っ先が頬を掠めた。遅れて、汗が噴き出す。もう、なにがなんだかわからない。息が苦しい。暗闇のなかで舞っているのは、竜の落とした羽根だろうか、それとももっと重いなにかだろうか。


「泣くな。と言いたいところだが、私も泣きたい気分だな」


 ベルナールが苦笑した。なおも走り続ける。苦しい。なぜこんなにも苦しいのだろう。エヴェルイートは、次第に手足が痺れてくるのを感じた。頭にも靄がかかる。苦しい。もう、走れない。


「エヴェルイートどの!」


 ベルナールの声が聞こえたような気がしたが、もはや反応できなかった。足が縺れ、竜の巨体が迫る。瞬間、ぐん、と体ごと引っ張られるのを感じた。次いで、背後に轟音。そして体温と、小刻みな振動。抱き上げられたとわかったのは、城の棟と棟の間、石壁に守られた狭い空間にそっと降ろされてからだった。


「落ち着いて、息をしろ。私がわかるか?」


 ベルナール、と答えようとしたが、うまく舌が回らない。


「大丈夫だ、喋ろうとしなくていい。音は聞こえているな? なら、私の声だけを聞いていろ」


 かろうじて頷いたが、自身の呼吸と、心臓の音がうるさい。ああ、そうだ、胸をきつく締めつけていたのだった。だから息ができないのだ。ウリシェの言うとおりにしておけばよかった。


「ゆっくり、深呼吸をするんだ。大丈夫、ここは安全だ」


 でも、苦しい。無理だ。だって、締めつけられている。胸が、苦しい。布を。この邪魔なものを、なんとかしなければ。


 エヴェルイートは朦朧としながら、必死に胸を掻き毟った。もう、秘密などどうでもいい。ただ、この苦しみから逃れたい。


「やめろ、傷がつく。落ち着け」


 なぜ、この男はそんなことを言うのだろう。こんなに苦しいのに。死んでしまいそうなのに。どうしようもなくて、でもどうにかしたくて、エヴェルイートは暴れた。だが抵抗虚しく、すぐにベルナールに押さえつけられる。


「エヴェルイート」


 ベルナールの新緑色の瞳が、目のまえにある。


「私を見ろ」


 そう言って、ベルナールはエヴェルイートの後頭部を支えた。緑の、光彩が、近づく。


 不思議な力でも備えているのだろうか。そのまま唇を塞がれても、ただ、その鮮やかな緑の光を、エヴェルイートはじっと見ていた。


 ゆっくりと、だが確実に、からだじゅうがほどけてゆく。じっと、じっとそのまま見つめあって、すべての力が抜けたとき、ようやくエヴェルイートは解放された。


「いい子だ。よく頑張った」


 もう、呼吸は苦しくない。けれど、痛い。なにか言い返してやりたくて口を開いたが、嗚咽しか出てこなかった。


「竜は、三頭。城壁の一部と居住棟が崩れた。我々以外の安否はわからぬ」


 再び、ベルナールが目を合わせる。


「エヴェルイートどのは、戦場に出たことがないな?」
「……ない」


 ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。ベルナールはほんのわずか笑って、静かに、だが力強く言った。


「ならば、今日の惨劇を覚えておくことだ。どんなことも、余すことなく。そうすれば、あなたはよき王になる」
「……私は、王にはならない」
「どうかな。そう思っているのはあなただけではないのか?」
「なにを言って――」


 そのときだった。よく知った声が耳を打った。呼んでいる。エヴェルイートを、呼んでいる。


「――イージアスッ!」


 燃え盛る炎に照らされて、ひとり、竜の間を駆けるイージアスが見えた。


 駄目だ、イージアス。そこにいては駄目だ。


 気づいたら、飛び出していた。ベルナールがなにか叫んでいる。だがすぐに、音はなにも聞こえなくなった。エヴェルイートにはただ、あのときと同じ、イージアスの、置き去りにされた子どものような顔だけが見えていた。


「イージアス!」


 イージアスがこちらを見た。その顔に喜色が浮かぶ。しかしすぐにそれは驚愕に変わり、そして、絶望に染まった。


 なにが起きたのかわからなかった。急に地面が遠くなり、互いに伸ばした腕は、あと一歩のところで届かなかった。バキン、と、なにかが壊れる音がした。イージアスのいまにも泣き出しそうな顔を、エヴェルイートは見下ろしていた。そんな顔、するな。伝えようとした言葉は、激痛に遮られた。


 もはや、悲鳴すらあげられなかった。


 竜の牙が体に食い込むのを、いやというほど感じていた。視覚が赤く染まる。エヴェルイートは思った。これが、死か。


 どうせ死ぬなら、イージアスだけでも助けたかった。


「逃、げろ……」


 この声が、届くかどうかはわからない。ただ、エヴェルイートは、力の限り叫んだ。


「逃げろ、馬鹿! 走れ!」


 竜の舌が、視界を完全にふさいだ。だからエヴェルイートは、その間になにがあったのかを知らない。それは、不思議な出来事だった。


 飲み込まれるか、噛み砕かれるか、どちらなのだろうと考えていたはずなのに、エヴェルイートは、生きていた。ゆっくりと、地面に転がされる。イージアスが見えた。無事だった。彼は大きく口を開けていた。言葉を、発しているわけではない。聞こえてくるのは、旋律だ。歌を、歌っている。


 歌うイージアスを囲むように、竜が座っていた。静かに、(こうべ)を垂れるように。三頭の竜を順番に撫でるイージアスは、さながら、竜を従えた王だった。


「……イ、ージアス?」


 きっと、蚊の鳴くような声だったと思う。それでもイージアスは、気づいてくれた。旋律が止んで、イージアスは笑った。どうしようもなく、孤独な笑みだった。


「ごめんな」


 遠くに、声が聞こえた。


「その名前、あまり好きじゃないんだ」


 意識を失う直前、エヴェルイートは思い出していた。ずっと、何年も呼び続けてきた、その名前を。


 イージアス。その名の意味は――「従える者」。