五、「イージアス」(2)

「イージアス、どうした」


 イージアスは答えない。ただ一点を見つめて、立ち尽くしている。その視線をたどると、先ほど開け放った窓があった。さらに、その先。空に広がる無数の影を認めて、エヴェルイートは、あ、と声をあげた。


「竜だ」


 巨大な気高き獣の体に白銀の六枚羽、黄金に輝く二本の角。人里には滅多に姿を現さないその生きものが、十ほどはいるだろうか、群れて空を泳いでいる。


「本当だ、珍しいな」


 ベルナールが興奮気味に言った。ウリシェも心なしか目を輝かせている。基本的に、竜の出現は吉兆といわれる。その吉兆の獣が口々に吼えたので、三人はますます高揚した。特徴的な、唄うような鳴き声が響く。イージアスだけが、その不思議な唄を聴いてもなお、緊張していた。


「イージアス」


 もう一度、安心させるように名を呼ぶ。イージアスは置き去りにされた子どものような顔をして、ようやくこちらを見た。


「大丈夫だ、落ち着け。どうした?」
「竜が、……」
「うん?」
「……――いや、なんでもない」


 とてもそうは見えないが、本人が平素の状態を取り戻そうと努めているのを感じて、エヴェルイートは


「そうか」


 とだけ答えた。竜の群れは唄いながら、東の空へ去ってゆく。その姿が完全に見えなくなってから、一斉に息を吐いた。


「行ってしまったな」

 まずベルナールが視線を戻し、


「群れははじめて見ました。あれだけ数が多いと、人を襲わぬものとわかっていてもすこしおそろしい感じがいたしますね」
 ウリシェが珍しく声を震わせた。


「おそろしい? おまえにそんな感情があったのか」
「エヴェルイートさまはわたくしをなんだとお思いなのです?」
「冗談だ、怒るなよ」


 エヴェルイートがそう言って笑う間に、イージアスは呼吸を整えたようだ。横目でそれを確認してから、エヴェルイートは立ち上がった。


「さて、ベルナール卿。そろそろ客間へお戻りを」
「なんと。つれないことを言うのだな。もっと親睦を深めようではないか」
「残念ながら、私にも仕事がございますので。ああ、お戻りになるまえに、お召し替えをなさったほうがよろしいでしょう」


 改めて見ると、ひどい格好である。どこもかしこも泥だらけで、なにをどうしたらこの城内でそうなるのか、皆目見当もつかぬ。このまま帰せば、あらぬ疑いを持たれかねない。しかし着替えといっても、エヴェルイートは男性として見ればやや小柄かつ華奢であるため、長身に立派な筋肉を纏うベルナールに服を貸すことはできそうもなかった。


「イージアス、すまぬがおまえの服を貸してくれるか」


 ちょうど、背格好が似ているイージアスに頼むことにした。


「かしこまりました」


 と明瞭に答えたイージアスは、表面上はすっかり落ち着きを取り戻したように見える。ならばもう気遣いは余計であろうと、エヴェルイートも平時のように振る舞うことにした。


「頼む」
「はい。ではベルナール殿下、まず水をお持ちいたしますので、いましばらくご辛抱ください」
「そなたら、人の話を聞かぬな。殿下はよせと言っておるのに」
「他になにか必要なものはございますか、殿下」
「む、さてはそなた、頑固だな。いや、悪くない」


 どうにも会話が成立していないような気がするのだが、ベルナールはなぜか納得した様子である。


「イージアス、か……侍従には似合わぬ名かと思ったが、そなたには相応しい。気に入ったぞ、イージアス!」


 ベルナールが、イージアスの肩を抱く。


「それはありがとう存じます。水とお召し物を取りに行きたいので、放していただきたいのですが」
「構わぬ、ともに行こう!」


 イージアスが、こちらを見た。眉間に皺が寄っている。エヴェルイートが黙って頷くと、一瞬極限まで顔を歪めてから、諦めたような目をしてまえを向いた。


「……ご案内いたします」


 そしてそのまま、ふたりで並んで出ていった。ベルナールの楽しげな声だけが、まだ聞こえている。エヴェルイートは胸のうちで、すまん、と謝った。


「案外、相性がよろしいのではないですか?」


 ウリシェが言う。


「あのふたりのことか?」
「あなたと、あのお方のことでございますよ」


 といつもの無表情でじっと見つめられたので、
「やめろ、気色悪い」

 エヴェルイートはぞっとした。

 

 

 

 

 

 

 さて、我らが憧れ、竜の話である。そして節題のイージアスの話である。


 エヴェルイートらパルカイ民族が、かつて竜を操り、その技を以て国を興したことはすでに何度も述べた。そして彼らがこの時代、その技を失い、また取り戻そうともがいていたことにも触れた。

 

 しかしながら、まだ竜のいる風景は当たり前のもので、厳重に管理、保護されている姿しか知らない我々とは異なり、当時の人々は自由に空を飛ぶその巨体を「あ、飛行機だ」くらいの感覚で眺めていたことだろう。先述のとおり人里には滅多に姿を現さないが、山や森に入ればすぐに巣が見つかるし、人の少ない田舎を旅すればわりと頻繁に頭上を通る、そんな時代であった。従って先ほどベルナールが「珍しい」と言ったのは、竜の存在そのもののことではなく、竜が群れているということに対しての感想である。


 竜は、群れを作らない。それが、エヴェルイートも翰林院(アカデミー)で学んだ竜の習性であった。群れを作らず、こちらから危害を加えない限り人を襲うこともない、基本的に温厚で賢い獣。そういう認識であったから、神聖なものとしての(おそ)れはあったものの、危険な動物として恐れるということを、この小大陸の人々はしてこなかったのである。


 だから、竜が群れていたあの光景はたしかに異常であり、それを必要以上に恐れているように見えたイージアスの反応もまた異常といえた。


 エヴェルイートは思う。もしかしたら、イージアスは過去に竜と深い関わりを持っていたのかもしれない。


 イージアスのことは、その為人(ひととなり)以外なにも知らない。出会ったとき、それから祖父が訪ねてきたとき、彼を取り巻く環境がほんのわずか垣間見えただけである。それもさっぱり意味がわからなかったし、気にも留めていなかったのではあるが。


 あのとき、父は、祖父は、なんと言っていただろう。


 いまになってそれが引っかかるのは、べつにイージアスの正体を暴こうとか、そういうわけではない。ただ、あんな顔をさせるだけのなにかが彼の過去にあったとするならば、もっと知ろうとするべきだったのかもしれないと思ったのだ。もし、なにか底知れぬ苦しみを、彼がずっと独りで抱えていたとするならば。


 そこまで考えて、エヴェルイートは、やはりこのままでよいと思った。自分だってすべてを明かしているわけではない。イージアスが話したくないと思っているのなら、無理に聞き出す必要もないだろう。それに知ったところで、結局なにが変わるわけでもないような気がした。


 たとえいま見ているイージアスが、本当の彼ではないと言われたとしても、ずっとなにも変わらない。そう、思っていた。