三、ボーイ・ミーツ・ガール(1)

 さて、ここでちょっと視点を変えてみようと思う。また新たな主役格の登場である。

 

 著者の気まぐれで、肝心の「女傑アウロラ」までなかなかたどり着けない読者諸氏には申し訳ないが、まあそのうちすべてが繋がる予定なので大目に見ていただきたい。ここまでおつき合いいただけたのならもうおわかりかとは思うが、この物語は真面目な歴史小説のふりをしたファンタジーである。

 

 そもそもエヴェルイートの性別のこととか、アウロラの出生の秘密とか、どこかのだれかが言い出した俗説の一部を拝借しただけで、学術的な根拠はまったくない。ただ、そこに作家である筆者が魅力を感じてしまったのだからしかたがない。どうせ滅茶苦茶な本になるなら、とことんまで楽しんでしまおうではないか。筆者はいつか、本書がいわゆる「トンデモ本」としてひっそりと愛されるようになることを期待している。


 閑話休題、アウロラ女王と同じころに生きた有名人といえば、このひとであろう。「賢人」アスライル・バルバートル、生年は明らかになっていないが、亡くなった六三九年当時、まだ二十代前半から半ばくらいに見えたというから、アウロラと同じくらいか、やや遅れて生まれたものと思われる。


 アスライルがウルズ王国の奴隷階級出身であったということは、あまりにも有名である。

 

 いろいろあって、アウロラ女王とも関わりを持ち、最終的にヴェクセン帝国の皇帝ベルナール・アングラードに仕えて賢人とまで呼ばれるようになったその人生を知るには、本人の自伝(正確には、少年期に盲目となった彼の昔語りを弟子が書き留めたものである)を読むのが手っ取り早い。ただそれを言ってしまうと本書の存在意義がなくなってしまうので、本書は本書なりに、彼の人生を追ってゆこうと思う。


 アスライルが思い出せる限り、はじめて仕えた主人は幼い少女であったという。まだ両の目でものを見ることができた少年アスライルは、少女との出会いを鮮烈な光とともに記憶した。


 陽光うららかな、春。磨き抜かれた大理石の床に転がされたアスライルを一瞥するや、


「おとうさま、あれをください」


 と氷のように澄んだ声でねだった彼女の表情は、白い面紗(ヴェール)で隠されていて見ることができなかった。


 リュシエラ=アルスマーテルと、少女は名乗った。豪商の令嬢で、(よわい)は五、日々屋敷のなかで退屈していたという。おそらく、アスライルはこの豪商の家の商品で、出荷されるまえにリュシエラ嬢に見初められたのであろう。彼自身は「たぶん脱走しようとして迷った先で出会ったのだと思う」と回想している。


 アスライルは、その知識や才能、思想は()ることながら、容姿も目を引くものであったといわれている。

 

 イーナィ(ドラグニア小大陸先住民族の言葉で「生きもの」を意味し、現代において彼らが自民族を表現するときに用いる。かつて「亜人(人間に及ばぬもの)」と呼ばれ差別された彼らは、遺伝的特徴がはっきりしているため民族ではなく人種という括りで考えられることもあるのだが、その歴史、文化、思想を尊重して現在では「民族」と表現することが多い。本書もそれに倣う)に特有の、褐色の肌に銀色の髪という神秘的な美しさに加え、左右で違う色の目を持っていたという記述が、一部の書物に見られる。

 

 「一方は黄昏の色、一方は晴れた昼の空の色」であったというが、これはアレクサンドロス大王にあやかって後世つけ加えられた伝承ではないかともいわれている(アレクサンドロス大王も虹彩異色症(ヘテロクロミア)の人物として有名であるが、それもまた伝承である)。ただしアスライルは生まれつき片耳が不自由であったともいい、これが虹彩異色症を発症する原因のひとつであるワーデンブルグ症候群の症状とも一致することから、事実であったと結論づける学者も多い。

 

 いずれにせよ、聴力の一部を欠いて生まれ、のちに視力をも失いながら奴隷という立場から身を起こした偉人であることに間違いはなく、そういうひとは容姿についても勝手な憶測をされるのがもはや宿命とでもいうべきであろう。かくいう本書も勝手な憶測の数々で成り立っている。まあ本人が「けっこう高値で取引されていた」と語っているくらいだから、それなりに容姿も魅力的であったのだろう。


 そのおかげかどうかは知らないが、アスライルはリュシエラ嬢にずいぶん気に入られたようである。彼女から言いつけられた最初の仕事は、沐浴の世話であった。


 突然浴場に連れてこられて立ち尽くす少年に、少女は


「なにをしているの、はやく脱がせて」


 と恥じらいも見せずに言った。といっても当時のウルズ貴婦人の沐浴といえば、使用人に手伝わせるのがふつうだったため、恥らうほうがおかしいともいえる。それにしても堂々とした振る舞いに、少年は状況もよく理解できぬまま素直に従った。


 さらりとした手触りの服を脱がせると、白い肢体があらわになる。あまりにも透明でなめらかな肌は、陽の光に触れたことがないのではないかと思わせた。事実、彼女が屋敷の庭にすら出たことがないということを、アスライルはのちに知ることになる。


 最後に面紗(ヴェール)を外そうとしたとき、リュシエラは言った。


「おまえ、よく見ておきなさい」


 それからアスライルの手を取って、導くようにゆっくりと面紗を外した。


「おとうさまがおっしゃるには、この顔には醜いできものがあるのですってよ」


 そう本人が説明したその顔にはそばかすひとつなく、ただただ、美しかった。


 リュシエラが言うように、彼女の父ドーバンは娘の顔が人目に晒されるのを極端に恐れているようだった。リュシエラの周りには使用人すら置かず、アスライルが来るまではすべて自分でリュシエラの世話をしていたようだ。屋敷の最奥、やけに広く立派な離れの全部がリュシエラのものであり、人を寄せつけない聖域だった。その理由を、ドーバンは周囲に「難しい病気だから」と説明していた。リュシエラは父親の言いつけどおり、常に面紗で顔を隠していた。アスライルだけが、その素顔を知っていた。


 そこまで徹底しているのに、なぜ自分をそばに置くことは許されたのかと、アスライルは率直な疑問を投げかけたことがある。


「わたしが望めば、おとうさまはなんでもくださるのよ」


 とリュシエラは答えた。たしかにリュシエラの周りは高価そうなものであふれ、代わりに人のぬくもりはなかった。