十二、「バイバイ。」(1)

 迷路のような城下町の構造は、それだけで防壁になる。古い時代、まだこの地がウルズ王国のカルタレスではなく「銀灰の古王国」アッキア・ナシアの一部ですらなく、都市国家カンカラと呼ばれていたころ、たび重なる海賊の侵入から民の生活を守るためにこのような町並みになったという。


 海上交通の要衝である海峡の入口に位置するこの都市は、呼び名が変わっても属する国が変わっても、ずっと「ドラグニアの真珠」であり続けた。波間の光を受けて輝く白亜の(みなと)を、我が手中にと欲した者は数知れない。


 小大陸の北側、つまりヴェクセン帝国側から海路で訪れる場合、ウルズ王国との国境(くにざかい)にもなっているアロン山脈を横目に見ながら進むと、次第に景色は切り立った崖の連続になる。侵入どころか一時帆を休められる程度の入江すらなく疲労と不安が募ったところで突如として崖が切れ、そこにカルタレスが姿を現すのである。

 

 さらにその先の海峡に入るつもりがあるのなら、確実にカルタレスで補給を済ませ、休息を取らねばならない。カルタレスを出るとまたすぐに断崖に挟まれ、潮の流れが激しく複雑な海峡を抜けるまで途切れないからである。再び崖が切れると同時に船は内海に出て、周辺に広がる南方の豊かな国々との交易が可能になる。

 

 カルタレスを手に入れることはすなわち、海上貿易を牛耳(ぎゅうじ)ることと同義であった。


 そしてそういう場所は、得てして軍事的にも重要視されるものである。少年は改めて迷路のような町並みを見下ろしながら、この地の歴史に思いを馳せた。


 複雑に入り組んだ道を夜闇に浮かび上がらせるように、いくつもの火が燃えている。それらの灯りが甲冑の群れに反射して、おぞましくも美しい夜景を生み出していた。


 こういう光景は、もう何度も繰り返されてきたのだろう。もっと絶望的な状況もあったはずだ。それでもこの町は、そのたびに侵入者を海まで押し返してきたのだ。ときに支配者を変え、文化や匂いを変えてきたこの都市だが、海からの攻撃に屈したことは一度もなかった。


 あのころ。お嬢さまとふたり、屋敷に閉じこもっていたころは、こんなことは考えたこともなかった。歴史はひととおり頭に入れた。国の仕組みや宗教も勉強した。でも、理解してはいなかった。しようとすらしなかった。お嬢さまと自分だけがすべてだった。


 いま、やっとわかった。知識を持っているだけではなんの意味もない。


 知らなかった。歴史のなかで交錯する人々の思いを。


 知らなかった。国の仕組みに縛られ、もがき、対立しながら、それでも手を伸ばし合う人々がいることを。


 知らなかった。自分が生きてきたこの世界の醜さを。恐ろしさを。


 そして、美しさを。


 生きたい。これからも生きていきたい。この世界で。この体で。もっと知って、精一杯考えて、生きていたい。


「あの王女さまには悪いことしちゃったかなぁ……」


 少年が人知れず呟いた独り言は、冷たい夜風に散った。いまならば、彼女とももうすこしちゃんと話せる気がする。理解はできなくても、考えて、知ろうとすることならばできる気がする。


 また、会えるだろうか。話すことができるだろうか。


「風が気持ちいいわね」
 山瑠璃が、アイザックの手を借りて馬によじのぼりながら言う。


「そうですか? だいぶ寒いですけど」
 と、同じ馬に乗ったアイザックはわずかに肩を(すぼ)めた。


「まあ、みんな馬鹿みたいに薄着だもんネ」
 七星(ナナホシ)がのんびりと笑えば、


「…………」
 そのうしろで手綱を握るニコが無言で頷く。


 少年を抱きかかえるようにして馬に跨るユライは、ただ静かにそれを見ていた。その瞳が夜を映して、より深い紫色に染まっている。


「どうかしたの?」


 どこか遠くを見つめるような眼差しに、少年は問いかけた。こちらを向いた双眸が、


「なんでもないよ」
 と細められる。


「あ、もしかしてビビってる? ビビってるんでしょ」
「キミねぇ……あんまり大人をからかうんじゃありません」
「ユライっていくつなの?」
「二十三」
「うわ、思ったより年寄りだった」
「もうちょっと言い方考えて?」


 顔を見合わせて笑う。冷えた手が震えた。それは寒さのせいだけではなくて、そのことがやけに、笑えた。


「さて、じゃあ、行こうか」

 ユライが言って、手綱を握りなおした。


 それを合図に、一斉に駆け出した。


 風を切る。顔を上げる。天空に星は(またた)き、このよき日を祝福している。さあ、ここでみなさまにご案内。大きく息を吸って、高らかに。


「みなさぁーん! 春の一座の特別公演だよ! もうすぐ冬だなんて言うのは野暮だよ! 春の一座の特別公演だよ!」


 三本の松明が、光の筋となって花道を作る。舞い上がる火の粉は花吹雪だ。衣装に施された刺繍がきらめき、靡く薄布は蝶になる。太鼓の響きが生命(いのち)を歌い、鈴の()が風を彩った。


 これが春の一座の舞台。

 これが少年の戦い方だ。


「春の一座の特別公演だよ!」


 なんだなんだ、と人々の視線が集まる。そのなかを駆け抜けながら、なおも叫び続けた。


 たった六人の、小さな座組。その先頭で、少年は炎を掲げながら笑っていた。

 こわい。こわくてたまらない。けれど、なぜか力が湧いてくる。それが嬉しい。


 ああ、そうか。「こわい」と思うことは、「生きたい」と思うことと同じだ。


「ユライ! こわいね、すごいこわい!」
「ああ? あー……そうだね、こわい。キミが落ちそうでほんとに怖い! もうちょっとおとなしくできないかなぁ!?」
「ユライ意外と力持ちだね!」
「うるさいこっちは必死なんだよ!」


 ちなみにいまどういう状態かというと、馬上だということを忘れてつい立ち上がってしまった少年を、ユライが片手で支えているという、なかなか「怖い」状態である。


「せーんせ! 落ちたら綺麗な衣装がだいなしよ?」


 鈴をしゃらしゃらと鳴らしながら、山瑠璃が笑っている。


「ていうかすでに着崩れてんのよネ。んもぉー、せっかくかわいく着付けてやったのにぃ」


 太鼓を激しく打ち鳴らしながら、七星が嘆いている。でも尻尾は左右に振れていて、声も明るかった。


 泣きたくなるほど愉快だった。武器はない。防具もない。なのに目指す先には甲冑の群れ。ありあわせの衣装は薄くて寒いし、どこかちぐはぐでみんなおかしい。小道具も、人も、その思いも、どれも全部、ありあわせ。


「なんか馬鹿みたいだね!」
 少年が言えば、


「馬鹿じゃなきゃこんなことしないでしょ!」
 と共演者たちが声を合わせた。


「だよねー! じゃあとことん……」


 馬鹿らしくいこう。


 そう決めて見つめた先には、ヴェクセン軍が列をなしていた。