八、純真(3)

 王女から聞いた情勢は、悲惨なものだった。国王が病に臥し、いつどうやって繋がりを持ったのか、ヴェクセン皇帝マティアスと結託した第一王子シリウスが幅を利かせている。第二王子ダリウスとその生母である第二妃も、何者かに毒を盛られて倒れた。それらのことが、竜によるカルタレス襲撃事件の前後に次々と起こり、いま宮廷は、アウロラ派とシリウス派に割れている。


「アレクシスお兄さまはどこまでご存知かしら……アレクシスお兄さまがカルタレスに向かわれたときは、まだお父さまもお倒れになってはいなかったから」


 第三王子アレクシスとヴェクセン大公ベルナールが王都に到着するまでには、最短でもあと三日を要するだろう。ただ、いまごろアレクシス王子もこの事態について聞いているかもしれない。急ぎこちらへ向かっている可能性もある。逆に、なにかしらの妨害を受けて立ち往生していることも考えられるのだが。


 一緒にいるベルナールは、いまどうしているだろう。そう考えたとき、


「おにいさま、ベルナール大公に、お怪我はないのよね?」


 王女に聞かれて、心臓が跳ねた。エヴェルイートは努めて平静に答える。


「はい、ご無事です」
「そう、よかった……」


 王女は、そんなエヴェルイートの様子には気づいていないようだ。胸を撫で下ろす。こんなときに、なぜあの男のことなど。


「ベルナール大公になにかあったら、それこそシリウスお兄さまとマティアス帝の思う壺だもの。ヴェクセンに攻め入る口実を与えてしまうわ」


 その言い方に、引っかかるものがあった。それでは、まるで。


 王女を見る。


「シリウスお兄さまは、我が国を滅ぼすおつもりよ」


 エヴェルイートの視線に、王女は頷いた。


「そんな……なぜ」
「それはわからないわ。でも、わたくしにはそうとしか考えられないの。だからなんとしても、止めなければならないのよ」


 そんなことを、いったいいつから、彼は考えていたのだろう。はじめて言葉を交わしたときの、暗く冷えきった瞳を思い出した。もしかしたら、五年前のあの日、すでに彼の心は決まっていたのかもしれない。


「アレクシスお兄さまはどうなさるかしら……」


 アレクシス王子は、シリウス王子の同母弟だ。アウロラ王女の不安は理解できた。


「私がおります、殿下」
 王女の手を握ると、


「ありがとう、おにいさま」
 王女ももう片方の手でしっかりと握り返した。


 とはいえ、アレクシス王子がシリウス王子につくことは、ないのではないかとエヴェルイートは思っている。根拠はない。ただそう信じたいだけなのかもしれない。アウロラ王女にも、なにか大きなうしろ盾が欲しい。


「イージアス」


 そばに控えていたイージアスに顔を向ける。


「勝手なことを言うぞ。いやだったら殴れ。……おまえが必要だ」


 イージアスは盛大にため息をついて、エヴェルイートの頭を小突いた。わかりにくいが、笑っている。エヴェルイートも笑みを返した。


 たとえ竜と会話するための声が出せなくとも、イージアスの存在はそれそのものが大きな意味を持つ。なにせ、言い方は悪いが国王の所有物だ。それも、どうやらアウロラ王女だけがイージアスの情報を国王から引き継いでいたらしいことを考えると、彼女が正統な王位継承者であることを証明する材料にもなり得る。イージアスの境遇を知る身でありながら、実に勝手な考えだとは思う。だが、イージアスはそれも含めて快諾してくれた。


「ごめんなさいね、イージアス。でも、ありがとう」


 王女が頭を下げる。


「おにいさまも。ごめんなさい。もうすこしだけ、嘘でいいからわたくしの許嫁でいて」


 体を起こすと、背筋を伸ばして言った。


「お約束します。わたくしが即位した(あかつき)には、必ずあなたがたを解放し、自由に暮らせるように手配いたします。ですからどうか、いまは力を貸してください」


 無論、断る理由などなかった。


「この身に代えても」

 エヴェルイートが答えると、

「それは、だめよ」

 王女は唇を尖らせた。


「とりあえず、おにいさまは一度お休みになったほうがいいと思うの。とってもお疲れのご様子だもの」


 言われて、ほとんど寝ていなかったことを思い出す。アウロラ王女は、人差し指を顎に当てて考える仕草をした。


「……まだいまは、ここに隠れていてもらったほうがよさそうね。わたくし、お着替えを持ってくるわ。すこし待っていてね」
「いえ、内親王殿下にそのようなことを……」
「なら、これは命令よ。おとなしく待っていなさい。……ふふ、よろしくて?」


 口に手を当てて上品に笑いながら、小首を傾げる。なんとも言えずかわいらしい。エヴェルイートは苦笑して「御意のままに、殿下」と膝を折った。


 満足げな顔をした王女は、しかしそのまま歩き出しはしなかった。腰を飾る帯を(まさぐ)り、なにかを取り出す。それは、小さな蓋つきの容器だった。


「おにいさま、唇が乾いて切れてしまっているわ。これでよくなるといいのだけれど」


 言いながら、容器の中身を手に取り、エヴェルイートの唇に塗る。ふわりと、青い独特の芳香がした。その香りに覚えがある。


「殿下、これは……」
「そう、おにいさまにおねだりして送ってもらったものよ。わたくしのお気に入り」


 あの聡明な奴隷の少年が作った、美容品だ。そんなにまえのことではないのに妙に懐かしい気がするのは、このひと月ほどでいろいろなことがありすぎたからだろうか。


「鈴蘭は、好きよ」


 王女が嬉しそうに言った。可憐な花はこの少女に似合うと、エヴェルイートも思う。しかしエヴェルイートにとっては落ち着かない香りで、思わず唇を舐めた。


「もう、おにいさま! 塗ったそばから舐めないで!」


 すかさず、お叱りが飛ぶ。しっかりと塗りなおすと、王女は胸を張って言った。


「さあ、これでいいわ。ちゃんとお手入れなさらないとだめよ、おにいさま。せっかくそんなにお綺麗でいらっしゃるのに」


 エヴェルイートは再び苦笑する。王女は容器を丁寧に仕舞うと、イージアスに声をかけて歩き出した。イージアスは軽くこちらを見て、王女について行く。すこし寂しい気もしたが、彼もいま自由に動ける身ではないだろう、しかたのないことだ。


「ではおにいさま、またあとで」


 王女が振り返って、手を振った。会釈を返す。


 ふたりの姿が完全に見えなくなってから、その場に座り込んだ。

 

 

 

 

 


 風が、吹いた。草木を鳴らして、通り過ぎてゆく。広がる緑に、蒼穹(そうきゅう)。古の時間に置き去りにされた竜舎は、静かにそのなかで微睡(まどろ)んでいた。


 ゆっくりと、見渡す。目を閉じて蹲る一頭の竜が、いっそう鮮やかに映った。過去の夢を見続けるこの場所で、ただひとつ、現実のものとしてそこに在るその生きものは、再生の道しるべとなってくれるのだろうか。それとも、終焉の象徴となるのだろうか。


 そのまま、竜を見ていた。竜が目を開けた。その金色の瞳で、こちらを見つめた。おだやかで、美しかった。誘われるように、立ち上がった。一歩近づく。


 竜がまばたきをした。また一歩近づいた。そうやってすこしずつ、時間をかけて、進んだ。


 檻のまえに立つ。竜の白い毛並みが上下して、呼吸しているのがわかった。鼻息が、長い裾をわずかに揺らした。生きているのだと思った。


「……おまえは」


 竜の目を覗き込んだ。


「おまえは、どうしたい?」


 ほとんど独り言だった。意思の疎通を望んだわけではない。だが竜は、動いた。のそりと上体を持ち上げ、前脚で体重を支えた。エヴェルイートを見下ろす。そして一声、啼いた。


 どこかせつない響きを持って、それは風に流された。思わず追いかけるように、振り向く。するとそこには、見たことのない景色が広がっていた。


 一面の、蒼。


 蒼い空の下、その色を写し取ったかのような蒼い花が、地面いっぱいに咲いている。その向こうに、蒼い稜線。左右も蒼い山に囲まれ、見上げればその(いただき)は、やはり蒼い雲を纏っている。吹き渡る風さえ、蒼い。濃く、淡く、ただひたすらに蒼く広がるその景色は、なぜか懐かしさを感じさせた。


 ――蒼の谷。


 当然のように、その言葉が浮かんだ。もし、これがその伝説の地の景色なのだとしたら。遥か故郷の、失われた景色なのだとしたら。


 これは、だれの記憶なのだろうか。


 ふらりと、足を踏み出した。が、その瞬間、眩暈(めまい)がエヴェルイートを襲った。


 視界が回る。頭が痛む。吐き気がして、呼吸が苦しい。心臓がうるさく鳴っている。立っていることもままならなくなり、膝と手をついた。蒼い花に、影が落ちる。


 なんだ、これは。


 顔を上げた。景色が溶けてゆく。そのなかに、やけにはっきりとした人影を見つけた。

 目を凝らす。人影が近づいてくる。静かに、長い裾を揺らしてやってくる。


 花の香りが、した。可憐な、花の香りが。


 エヴェルイートのまえに、いつしかその花は立っていた。


「……アウロラ、殿下……?」


  透明な瞳で、見下ろしていた。


「どうして、来たの」

 ひどくやさしい声がした。


「どうして、来てしまったの、おにいさま」

 なにを、言っているのだろう。王女は、なにを。


「おやさしいおにいさま。わたくしの本心なんて、考えたこともなかったでしょう? わたくしがなにをしてきたか、なにをするつもりかなんて、知ろうとも思わなかったのでしょう?」


 なにを。


「苦しい? ごめんなさいね。けれど、きっとすぐにらくになるわ」


 目が回る、吐き気がする、動機が激しくなり、ついに上体すら支えていられなくなった。倒れる。


 この、症状は。


 エヴェルイートは知っていた。散々学んできたから。その体を、慣らしてきたから。
 花の香りが、する。呼吸をするたびに。生きようと喘ぐたびに。


 自身の、唇から。


「好きよ、おにいさま」

 

 これは――鈴蘭の、香り。


「あなたはただひとり、わたくしを見ていてくれたひとだから」


 その毒の、見せるまぼろし。


「たとえ、あなたの見ているわたし(・・・)が幻影だったとしても」


 少女の笑みが、最後に見えた。

 

 

 

 

 


 その日は、エヴェルイート=レンス=ジェ=ブロウトが失踪した日として記録されている。


 六二二年、五月二十七日。
 空が蒼く美しい、晴れた日だった。