十一、炎を灯せ(1)

「嘘でしょ……」

 海岸線に灯った火を見て、ユライが呟いた。ヴェクセン軍が上陸をはじめたのだ。


 こちらはすこしときを遡り、竜が飛び去った直後のカルタレスである。少年も「嘘だ」と信じたかった。しかし、すぐそこに迫った夜の闇は、確実に絶望を運んできていた。


「はは、最悪だ。結局、あにうえのほうが一枚上手(うわて)だったってことか」


 自嘲気味に頬を歪めるユライは、こうなることを本当に知らなかったようだ。これはつまり、ユライも騙されていたということなのだろう。三日後の払暁(ふつぎょう)に攻めてくるはずだったヴェクセン皇帝マティアスの軍が、いま、やってきたのである。


 これでは逃げることなどできない。


 だが、戦うことも、できるとは思えない。戦争のことなどなにも知らない少年が見ても兵力の差は歴然としていて、だれもがすでに諦めていた。


 では、どうなるのだ。
 死ぬのか、ここで。なんの意味もなく。他人の争いに巻き込まれて。


「……なんだそれ」


 いままでのことは全部無駄だったとでもいうのか。なにもなくなるのか。ただここにいるというだけで、だれにも知られず、なかったことにされるのか。


 ふざけるな。
 死んでたまるか。


 こんなところで終わってたまるか。


「おい」

 声を張り上げた。できるだけふてぶてしく、自信たっぷりに。


「なに全部終わったみたいな顔してんの?」
 顔を上げて、思いきり生意気に笑って。


「終わってねぇよ。勝手に終わらせんなよ、ばーか」


 それでも握りしめた手は、情けなく震えていて。少年は、集まった視線を受け止めるのに必死だった。


「……キミの気持ちもわかるけどね」
 とユライが肩に置いた手を掴む。


「だって悔しいじゃん!」
 振り向いてそう叫んだ自分の剣幕に、驚いた。


「なんだよこんなの……馬鹿にすんなよ! なんでそんな簡単に諦めなきゃなんないんだよ! だっておかしいだろ、なあ! だれもそう思わないのかよ!」


 だめだ。なんで、こんな。喚き散らしたいわけじゃない。もっと冷静に、考えて、現状を打破する言葉を言わなくてはならないのに。なのに、どうして。


「こんなの、おれはいやだ……っ!」


 どうして、こんな、よりによっていま、まるきりただの子どもでしかいられないのだ。


 もうわけがわからなかった。こんなことははじめてで、どうすることもできなかった。ただ、とにかく、なんでもいいから伝えたかった。


 その衝動が、彼の運命を変えたのかもしれない。


「そのとおりです」


 と、どこからか声が聞こえた。女の声だ。堂々とした靴音が鳴り、そのひとが少年のまえに歩み出た。知的な顔の半分と首もとが、火傷痕で覆われている。それを隠そうともせず、女性には珍しい短髪を風に靡かせながらまっすぐに立つその姿は、少年を感動させた。


 美しい。


 顔かたちが、というわけではない。いや、決して悪くはないのだが、まあ「並」といったところだろう。若いわけでもない。表情にも溌剌としたものはなく、むしろ下手な彫刻のようだ。ただその漲る自信と、彼女の生きざままで見えるような眼差しに、少年は一種の憧れすら抱いた。ほんの数秒間の出来事である。


「……キミは、」
「ウリシェと申します、ユライさま。もとはこちらの奥方にお仕えする侍女でしたが、まあいまはただの行き遅れでございますね」


 ウリシェと名乗った女性は、周囲の視線など気にもせず、無表情を貫いた。そのくせ、紡ぐ言葉にはどこか愉快な響きがある。


「というのも、わたくしどもの領主さまはいささか不甲斐ない方でいらっしゃいまして、なかなかおそばを離れることができなかったのでございます。ですからわたくしは鬱憤が溜まってどうしようもなく……そこにこの理不尽でございましょう? 率直に申しまして、はらわたが煮えくりかえっております」


 と言いつつ怒りすら見せずに淡々と


「せめて思いきり足掻いてやらねば、気が済みません」


 その強い意思を示した。


 静まり返っていた人々がざわつきはじめ、囁き合うような会話がいくつも生まれた。次第にそれは大きくなって波を広げてゆく。はっきりと感じる。


 流れが、変わった。


 少年は胸が高鳴るのを感じていた。ウリシェから目が離せない。彼女の瞳がこちらを捉えたとき、自分でも理解しがたいほど昂揚した。この気持ちを少年は言葉にすることができなかったが、筆者が彼に代わって表現するならば「格好いい!」とでもいったところだろうか。


「まあ、そうだな」
 と同意したのはスハイルである。


「おれたちはいまどん底にいて、これ以上はもう落ちようもない。つまり、足掻けば必ず事態は好転するというわけだ」
「……馬鹿丸出しの発言だね、スハイル」


 というユライの言葉は無視して、続ける。


「みな、聞いてくれ。いや、聞いてくれなくてもいい。捕縛命令の下った男の言葉など聞きたくはないだろう。だから、自分で考えてほしい。単純なことだ。自分がいまなにをしたいか、今後どうしたいかだ。もうらくになりたいか。それもいい。戦いたいか。それもいい。よくわからないか。それもいい。もうこうなったら自分のこと以外なにも考えなくていい。ちなみにおれは!」


 その声が、響く。


「逃げて、生き延びたい!」


 だれも口を挟まずに。挟めずに。


「生きていたい、死にたくない! ここで潔く果てれば格好はつくかもしれんが、おれはいやだ! まだ二十二だ。もっと生きて、もっと恰好つけたい、もっとずっと先まで、惚れた女に、恰好いいところを見てほしい!」


ただ、その言葉を聞いていた。


山瑠璃(やまるり)!」


 と、そこで突然、スハイルが視線を一点に定めた。そこには、ぼうっと立つ山瑠璃がいる。スハイルが勢いよく近づいてゆくと、山瑠璃は「は、はい」と返事をしながら一歩後退(あとずさ)った。その肩をがっしりと掴まえて、


「おれと一緒に逃げてくれ!」
 真正面から、そう言った。


「い、い、い、いやです」
「なぜだ!?」
「そ、そん、だって、……いや! スハイルさま、恰好悪い!」
「だから、恰好いいところはこれから先たっぷりとだな」
「いやーっ! やめて! どうしていま!? どうしていまなの!?」


 なにを、やっているのか。こんなときに。というかどういうことだ。そういうことか。


 開いた口が塞がらない少年の横で、ユライが肩を震わせた。


「……あー、なるほど……そ、そういうこと」
「笑うな、ユライ」
「いや、だってさ、おかしいと思ったんだ。キミには裏から手をまわすような頭なんてないでしょ? なのになんで春の一座と関わったのかなーって思っ……、ふふっ、あ、無理……っ、さすが、……単純……馬鹿……」


 あとはもう言葉にならなかったようだ。


 少年は考えた。これはつまり。だから。要するに。
 スハイルが春の一座に好意的だったのは、山瑠璃に惚れていたからか。


「うわ、単純……」
 と呟いてしまったのもしかたがないと思う。


 そうか、なるほど。だからスハイルは『(つばめ)の巣』にもよく来ていたのか。いまさらながらに納得して、少年は山瑠璃のほうを見た。唇を尖らせて小さく震える、真っ赤な顔がそこにある。なんとも珍しい光景だ。思わず凝視していると、ますます赤みを増したその顔が、きっ、とこちらを向いた。


「ちょっと! うるさいわよ!」
「なんにも言ってないけど」
「顔がうるさい!」
「いや顔はもうしょうがないよねー」


 冷静に返せば、今度はスハイルを睨みつける。


「スハイルさまも! 何度でも言いますけれど、わたしはあなたの求愛を受け入れたつもりはありませんでしてよ!?」


 少年たちもつられて視線を動かした。するとスハイルはそれらを真っ向から受け止め、


「わかっているさ。だが何度でも伝えたいからな」
 と男らしく笑った。


「一回や二回寝たくらいでいい気にならないでくださいまし!」
「やることやってんじゃん!」
「お黙り!」


 くすくすと、笑う声がいくつも聞こえる。気づけば周囲には、笑みがあふれていた。ほんのすこしまえまで、あんなに暗く沈んでいたというのに。


「わかります……わかりますよ、スハイルさま」
 などと頷く若者。


「なんということだ……由緒正しきブロウト家の跡取りともあろうお方が、異民族の女に」
 などと嘆く老人。


 反応はそれぞれだが、彼らの瞳には同じものが宿っている。おそらくそれは、このままでは終われないという強い気持ちだ。スハイルが、彼らに炎を灯したのだ。


「しかたがないなぁ。キミがそんなに逃げたいって言うんなら、協力してあげてもいいけど?」
「いや、おまえ、どの口が言う……まあいいんだがな、べつに」


 自分のことは棚に上げたユライに、スハイルがため息をつく。


「しかしどうなさるおつもりですか」


 という不安げな声が上がった。それも無理はない。海はヴェクセンの軍艦で埋まり、領地を接するサガンは明確に敵意を示している。逃げ場がないのだ。しかしその問題は、


「逃げ道なら、まだありますよ」


 と進み出た者によって解決された。アイザックだった。


「地下です。アッキア・ナシア時代の地下水路を使えば、外に出られます」


 それは、少年たちがこの城に入り込むときにも使った、あの抜け道のことを言っているのだろう。アッキア・ナシアというのはたしか、はるか昔、聖典に記された神話の時代にこの地を支配していた国の名だ。そこまで古い時代の遺構だったのか、と内心驚く。


「ただ、それだと結局うちの領地(サガン)に出ることになるんだよね。まあその先は僕がなんとかしてあげ」
「いえ、大丈夫です」
「せめて最後まで言わせて?」


 どことなく得意げに顎を上げたユライの言葉を遮り、アイザックは続けた。


「もっと安全なところに抜けられる道もありますから」
「え、なにそれ聞いてない」
「言ってなかったので」


 どうやら、地下水路に関してはアイザックがいちばん詳しかったようだ。春の一座のなかでも共有されていない情報はけっこうあるらしい。


「ならもっと早く言いなさいよ、キミは」
「すみません、ユライさまさえ助かればいいかなと思ってました。でもなんかそういう雰囲気じゃなくなったので」
「あ、そうなの……うん……なんだこれ微妙に叱りづらいな」


 なにはともあれ、これでなんとかなりそうだ。もはや、重い空気はどこにもなかった。みな顔を上げ、まえを向いていた。


「では、旦那さま」


 ウリシェが、ずっと沈黙を貫いていた領主を振り返った。


「悪足掻きなさいますか。それとも、いじけたままで奥さまに会いに行かれますか」


 だれもがそれに倣い、彼の言葉を待った。杖に両手を預けうつむく姿に、しかし弱々しさは欠片もない。やがて顔を上げた領主ヴェンデルは、静かに、だがはっきりとこう言った。


「荷物をまとめよ」


 ウルズ王国史に残る悪足掻きが、いまここにはじまった。