九、開戦(2)

 カルタレス城への侵入は簡単だった。さすがに城内へ続く地下水路は使ったことがなかったのだが、山瑠璃は迷うことなくユライたちを導いた。さいわいといってよいものか、侵入口となる朽ちた井戸の周辺に人目はなく、全員、無事に地上へ出た。


 暴動への対応に追われているのだろう、城内の警備は手薄だ。その貴重な警備も、はじめは不審者を尋問する態度で近づいてきたものの、ユライの携えた書状を見た瞬間に青ざめ、道を開けた。そしていま、ユライは右手に剣を、左手に書状を持ち、カルタレス領主をまえにやわらかくほほ笑んでいる。


「どうも、ご無沙汰しております、ヴェンデル卿。またお会いできて嬉しいです」


 通された広間は、人が集まっているわりに静かで、肌寒かった。


「スハイルも、ひさしぶり。元気そうでなによりだよ」


 とユライが振り向いた先に、領主の養子が駆け込んでくる。外に出ていたのだろうか。汗の浮かぶ顔や甲冑が、ところどころ汚れていた。


「ユライ、おまえ……」
「逃げずに自分から捕まりに来るなんてさすがだね。キミは変わらないなぁ。なつかしくなっちゃうよ」


 ユライの左手を見たスハイルが、わずかに眉を動かす。それから、じっとしているしかない少年たちのほうを一瞥し、小さく喉を鳴らした。


「……おまえは変わったな、ユライ。まるで別人だ」
「えー、そうかな? そんなに変わってないと思うけど?」
「いいや、変わった。おまえはこんなことをするような人間ではなかった」


 スハイルが再びこちらを見た。憐れむように目を伏せる。ユライが声を上げて笑った。


「だとしたら、それはキミのせいだよ、スハイル」


 ゆっくりと歩き出す。


「キミがおかしなことをしなければ、僕だってこんなことしなくて済んだのに」


 書状を突きつけるようにしながらスハイルに近づいたユライは、その一歩手前で立ち止まり、首を傾げた。


「僕、知ってるんだよ? キミが春の一座をわざと取り逃がしてたこと。それってひどい裏切りだよね。彼らがなにをしていたか、知らないわけじゃないんでしょ?」
「裏切るようなことはなにもしていない」
「へえ……そう」


 まっすぐに目を合わせたスハイルに、ユライが低く呟くように返す。そしてもう興味を失ったのか、あっさりと(きびす)を返した。――ように見えた。


 次の瞬間、激しい金属音が響いた。振り向きざまユライが突き出した剣を、スハイルが弾いたのだ。ユライの手から離れた書状が、音もなく床に落ちた。


「ユライさま!」


 と、あの立派な装備の兵士が駆け寄ってゆく。剣を抜き、盾の代わりとなってスハイルと向き合う彼のうしろで、ユライが嬉しそうに言った。


「アハッ、やっぱり(かな)わないや。腕が痺れちゃったよ」
「なにを笑っておられる! あなたが敵う相手などおりますか、ご自分の技量をわきまえられよ!」
「ひどいこと言うねぇ、キミは」


 そう言ったユライの目が、少年を捉える。その意味を考える間もなかった。急に走り出したユライはするりと少年の背後に回り込み、その首に腕をかけた。


「あーあ、なんかつまんなくなってきちゃった。もうみんな殺しちゃおうかな」
「なにを……それでは勅命に背くことになります。父君や兄君の顔に泥を塗るおつもりか!」
「だってキミは僕のこと馬鹿にするし、スハイルは全然おもしろいこと言ってくれないし。やっぱりわざわざこんなところまで来るんじゃなかったよ」


 周囲がざわついた。いまいち状況が呑み込めないのは少年も同じである。ただ、どうも危険でおかしな事態になっているらしいということはわかった。


「……やはりうつけ(・・・)うつけ(・・・)か。せっかくエリアスさまが機会をお与えになったというのに」


 兵士がその立場にあるまじき言葉を吐いている、最中だった。


「ここから動いちゃ駄目だよ。危ないからね」


 ユライがそう、少年の耳もとで囁いたのは。


「……え?」


 それまでとはまったく違う声音だった。まるで「もう大丈夫だ」とでも言うような。ここに味方がいると錯覚してしまうような、そんな。


「もうよい。あなたさまには暫しおやすみいただきます。あとは(それがし)にお任せくだされ」


 偉そうな兵士が片手をあげた。他のサガン兵が一斉に動いた。その瞬間。


「アイザック!」
 ユライの鋭い声が飛んだ。


 と同時に、すぐ横で風が動く。少年ごとユライを取り囲もうとしていた数名が、なぜか目や鼻を押さえてうずくまった。そこに敏速かつ音もなく近づき、とどめを刺すように蹴りや肘打ちを食らわせるのは農夫姿の若者だ。すっかり打ちのめしてしまってから


「ユライさま」


 とこちらを振り返ったアイザックの手に拘束はなく、どこに隠し持っていたのか小石を(もてあそ)んでいた。落ち着き払った様子でしっかりと立ち、銀色の瞳には静かだが強い光を湛えている。これが本当に、あの弱々しく泣いていた若者なのだろうか。


 と、いうか。


「え、どういうこと?」


 思わず首を傾げたところに、凄まじい勢いで小石が飛んできた。直後、すぐうしろで悲鳴が上がる。驚いて見れば兵士がひとり、片目から血を流して悶えていた。


「ちょっと、黙ってこっちに投げるのやめてくれる?」
 ユライがアイザックに言う。


「すみません、おれの大事なユライさまの危機を察知したら勝手に体が動いてました。というわけでこれはむしろ褒められるべきですよね。褒めてください」
「あー、うん、いい子いい子。アイザックはいい子だねー」
「わー、ありがとうございます。あとうしろからまた来てますよ」


 と言われるまえにユライは動いていた。
「わかってる……よっ!」


 とん、と背中を押されて床に伏せる。なにか物音が聞こえたと思ったら、少年が顔を上げたときにはもう、ユライの剣が兵士の体から引き抜かれていた。さらにユライは迫る矢をひらりと躱し、倒れた兵士から弓矢を奪って()ち返す。


「……強いじゃん?」

 さっぱり意味がわからなくてもはやそんなことしか言えない少年に、


「能ある鷹は爪を隠す、ってね」
 ユライはなおも矢を放ちながらいたずらっぽく笑った。


「なんだこれは、どういうことだ!」


 偉そうな兵士が狼狽(うろた)えている。まったくもって、それには同意するしかない。少年がポカンと口を開けている間にユライは弓を捨てて駆け出し、向かってくるサガン兵たちに容赦なく剣の切っ先を向けた。


「スハイル! キミはなに、ぼーっと突っ立ってるのさ!」
「ん? いや、ほら。おまえの見せ場を奪うのも悪いかと思ってな」
「なにその気遣い!? いらないからね、そんなの!?」
「そうか。なら、遠慮なく」


 と、ユライと親しげに言葉を交わしたスハイルまで、一緒になって暴れ出す。


「……いや本当にどういうことなの」
 という少年の呟きに、苦笑で答えたのは山瑠璃だった。


「ごめんなさいね、先生。びっくりしたわよね」
「びっくりしたもなにも……え? どういうことなの?」
「じつはね、あのサガン領主のご子息も、春の一座の一員なの」
「…………」


 なにを言われたのか、すぐには理解できなかった。しばらく考えてからようやく、


「……はあ!?」
 少年は()頓狂(とんきょう)な声を上げた。


「わたしもね、会ったことはなかったから最初はわからなくて……ユライって名前を聞いてやっと気づいたのよ。たぶん彼、最初からわたしたちを助けてくれるつもりで、勅命に従ったふりをしたのね」
「え、じゃあなに? いままでのはなんだったの?」
「演技」
「みんな演技うまいな!?」


 それはまあ芸能集団だから、と言われても素直に納得できない。呆然としながら、花梨と七星にもユライのことを知っていたのかと尋ねると、「知ってた」「うん、知ってた」と明朗な答えが返ってきた。


「騙されてたのおれだけ?」
「あのー、ほら、ね? 〈お目付け役〉がいたから、彼もああするしかなかったんでしょうし……わたしも詳細はなにも知らないし……だから、その、ごめんなさいね?」


 そう考えると、たしかに彼の言葉はすべて、遠回しながらも現状を伝えるためのものだったように思える。アイザックはおそらく彼と示し合わせて、連行されるという体でついてきたのだろう。


 なんだか気が抜けそうになった。が、そういうわけにもいかなかった。四、五人のサガン兵が前方からこちらに向かってくるのが見えたのだ。彼らの目的からするといますぐに殺されるということはなさそうだが、おとなしく捕まるのは得策ではない。しかし逃げようにも下手に動けば怪我をしそうだし、未だ拘束されたままなのでその危険性はさらに高まる。どうしようかと二の足を踏んでいるところに、横からもひとり、サガン兵が飛び出てきた。


 しまった、と思ってももう遅い。その兵士の巨体が壁のように視界を覆い、少年たちの上に影を落とした。こうなってはしかたがない。覚悟を決める。ところが。


「ぬうん!」


 兵士はなぜか、味方に向かって武器を突き出した。いや、武器、というにはなにかがおかしい。巨大で分厚い鉄の板。盾、でもない。これは。


「扉!?」


 どこから拝借したのか。という問題でもない気がするが、巨漢の兵士は重そうな鉄扉を難なく持ち上げ、振り回し、こちらを目指していた兵士たちを見る間に一掃する。それから兜を脱いで、振り向いた。その糸のように細い目を見た山瑠璃が、あっと声を上げる。


「ニコ! あなたもいたの!」


 巨漢が頷き、毛髪のない頭が光った。もうここまで来たら言われなくてもわかる。つまりこの巨漢も。


「春の一座」
「そうよ。やだ、まさかニコまで一緒だったなんて。びっくりしちゃった」
「いや、びっくりしちゃったのはこっちだよ」


 改めて春の一座の恐ろしさを感じた。あんたらすごいね、と言えば、ニコは硬そうな赤い髭を撫でながらすこし困ったようにまた頷く。まあ、なにはともあれ味方は多いに越したことはないと、少年もそれ以上はなにも言わないことにした。


 そうこうしているうちに戦闘は終結しつつあり、気づけばあの偉そうな兵士だけが残されていた。手の甲を押さえ、肩で息をする彼の剣は、そのまえに立つユライの足もとに転がっている。それを蹴り飛ばしたユライが、薄く笑った。


「キミはちょっと、僕のこと舐めすぎだよね」


 目が、据わっている。


「ま、でもしょうがないかな。だれも僕のことなんて見てこなかったし。あにうえだってまさかこうなるとは思わなかったから、最後に僕のお願い聞いてくれたんだろうしね」
「……このようなことが許されるとでもお思いか。あなたには家長の信念を継ぎ、貫こうという気はないのか!」
「ないね。そんなの」


 きっぱりと言い捨てる。


「貫くとしたら、それは僕の信念だ。この世に継いだり継がせたりする信念なんてないんだよ」


 そして細い剣を握りなおした。


「だいたい――」


 兵士が動いた。雄叫びを上げてまっすぐにユライ目掛けて突進してゆく。その、大きく開いた口を。


 ユライの剣が、刺し貫いた。


「――おまえがそれを言うな」


 突き出た切っ先から、紅い雫がひとつ、落ちた。そのあとを、鈍く重い音が追いかけた。