二、王女の秘密(2)

 翌日からは忙しかった。

 

 先に到着していた候補者たちと挨拶を交わし、その家柄や親の役職、身分を覚え、相手の年齢なども考慮して接し方を決める。それと同時に、ほとんど知らなかった宮廷内の派閥や他家の勢力図を頭に入れ、目に入る官吏たちの顔と名前をそこに当て嵌めてゆく。その合間に国王の「試し」とやらを受け(やることは翰林院(アカデミー)とさほど変わらなかった)、すっかり国王に気に入られたエヴェルイートは、ときおりその話し相手になったり、生まれたばかりの王女と「見合い」をしたりもした。で、また新たな候補者が王宮に到着したら、挨拶を交わして家柄や親の役職、身分を覚え、勢力図に当て嵌めてゆく……そういうことの繰り返しである。


 だいたい候補者が出揃ったころには半年が経過していて、概ね予想どおり、エヴェルイートは候補者たちの頂点に立っていた。候補者のなかにはずっと年上の者もいるし、もちろんみなブロウト家と同じように由緒正しい家柄の者ばかりである。が、どうしてもエヴェルイートに勝る者はないのであった。これでエヴェルイートが愚かであったなら、本人にとってはそれが救いとなったかもしれない。しかし、本人が思うよりはるかに、エヴェルイートというひとは優秀なのであった。


 とはいえ、ここは王宮である。だれもがエヴェルイートに(こうべ)を垂れた翰林院とは違い、エヴェルイートが跪くべきひとたちがいる。そのおかげで、エヴェルイートは他の候補者たちと同じ場所に留まっていられた。


 エヴェルイートを含む候補者たちが、王宮に到着してからずっと強く感じていた視線が、ひとつある。鋭く尖ったその視線は、ある少年の切れ長の()の奥から発せられていた。たしかエヴェルイートより五つ年長だというその少年の名を、シリウスという。ウルズ王国第一王子である。


「またシリウス殿下が見ておられるな」
「おお、怖い。なまじ顔が整っておられるせいで妙に迫力がある」
「顔だけという噂もありますが」
「滅多なことを言うものではないよ。だが、まあ、どうせかのお方は玉座から最も遠い。才能があったところで悔しい思いをされるのはご本人なのだから、それでよいのではないか」


 いつものように王子の視線を受けた候補者たちが、口々に言う。

 

 シリウスは第一王子だが、その母は三人の妃たちのなかで最も身分の低い第三妃である。王の子どもたちを王位継承順位で並べると、正妃の子である第一王女アウロラ、第二妃の子である第二王子ダリウス、第三妃の子である第一王子シリウスと続き、末席が同じく第三妃の子である第三王子アレクシスとなる。こうしてみるとシリウスは決して「玉座から最も遠い」わけではないのだが、そう噂される理由は彼の出自の曖昧さにあった。


 彼の母はもともと下級役人の妻だった。それを国王が奪い取ったのち、一年を待たずして子が生まれた。それがシリウスである。国王の血を引いているのか疑わしい、というわけである。


 よくある話だ、とエヴェルイートは思っている。そんなことを言ったら、だれの出自だって怪しくなるではないか。いっそ自分にもそんな噂があったなら、などと考えてしまうのは、父母に申し訳ないとは思うが。


「エヴェルイートどのはどう思われる?」
「え?」


 ひとり物思いに耽っていたせいで、咄嗟に反応ができなかった。それをどう思われたのかは知らないが、いつの間にか隣にいた背の高い若者が、表面上はおだやかに笑う。


「聞いておられませんでしたな? どうやらあなたにとっては気にするほどのことでもないらしい。さすがに胆力がおありになる」


 たしか上級文官の息子だったか。こういう物言いにも慣れてはきたが、どうにも気持ちのよいものではない。


「いや、わたしは」


 と当たり障りのない返しをしようとしたところで、周囲の空気が変わった。みなにつられて目を向けた先に、シリウス王子が歩いてくるのが見えた。慌てて道をあけ、頭を下げる。


 静かに歩くひとだと思った。凪いだ海に降る雪のように、なんの音も残さない。その爪先が見えたと思ったら、目のまえで止まった。


「エヴェルイート=レンス=ジェ=ブロウトは、そなただな」


 高圧的な声がすこしかすれているのは、変声期だからだろうか。


「はい、シリウス殿下」
 頭を下げたまま、答える。


「そなたの祖父には世話になっている。せいぜい恥をかかせぬよう励むのだな」
「……は」


 そういえば、祖父は王子たちの剣術指南などもしているらしい。エヴェルイートは未だ一度も、祖父と直接言葉を交わしてはいなかった。


「その貧相な腕では期待もできぬが」


  そう言ってそのまま立ち去ろうとする王子の腕は、少年特有の細さを残しながらもよく鍛えられている。これからもっと逞しくなるであろう、男の腕だ。

 

 反論する気にもなれぬままぼんやりと眺めていると、王子が珍しいものを身につけていることに気づいた。絹の手袋である。

 

 余談だが、ヨーロッパにおいて、特権階級の男性の装身具として手袋が重宝されるようになったのは七世紀ごろからといわれている。ドラグニア小大陸の服飾文化はだいたいヨーロッパから一世紀遅れて同じような道をたどるといわれているから、シリウス王子のファッションはかなり前衛的なものとして人々の目に映っていたことだろう。その、当時としては奇抜な装身具に血が滲んでいるのを見て思わず手を伸ばしてしまったのは、性分としか言いようがない。


「殿下、お怪我を――」
「無礼者!」


 鈍い音をたてて払われた手が、行き場を失う。


「だれが触れてよいと言った。やはり田舎者は礼儀をわきまえておらぬな」


 しまった、と思った。たしかに、王子の言うとおりこれは明らかに無礼な振る舞いだ。再び頭を下げようとして、遮られた。王子の手が、強引にエヴェルイートの顎をつかむ。


「なるほど、女子(おなご)のように美しい。陛下は美しいものがお好きだからな」


 王子が(わら)う。その、整った輪郭を歪めて。間近に見える瞳の底は、暗く冷えきっていた。王子の手袋に包まれた指が肌に食い込み、顎の骨が軋む音をあげはじめたとき、エヴェルイートは乱暴に解放された。よろけて、膝をつく。シリウス王子はそれには一瞥もくれずに、さっさと歩いて行ってしまった。


 これが、シリウス王子との最初の会話であった。


「それで、エヴェルイートさまは、なんと返されたのですか」


 その日の夜、当分の間の自室として充てがわれた客室で、侍女ウリシェにその話をすると、さして興味もなさそうに忙しく手を動かしながら彼女は訊いてきた。


「だから、さっさと行ってしまわれたのでなにも言えなかったのだ。そうだな……無礼を詫びることができなかったのが心残りだな」
「阿呆ですか」
「阿呆!?」
「ふつうそういうときは、腹をたてるものです。お人好しも度が過ぎればただの阿呆ですよ」
「わ、わたしだってもちろんちょっとは腹をたてたぞ! ただ、その、なんというか……」


 申し訳ないと、思ったのだ。自分がいま、ここにいることが。そのせいで、きっと彼を苦しめているであろうことが。それを口に出すことすら(はばか)られて、エヴェルイートは口を噤んだ。


 ウリシェは黙って言葉の続きを待っていたが、エヴェルイートの言いたいことはだいたいわかっているようだった。しばらくしてため息をついた彼女は、動かしていた手を止めていつものように淡々と言った。


「思い上がりも大概になさいませ。あなたが周囲に与える影響など、(たか)が知れたものです。人のことなど気にせず、身勝手に振る舞えばよろしい」


 エヴェルイートにとっては教師でもある彼女の言葉は、いつも静かで厳しい。ただ、


「それが子どもの特権というものです」


 どこか不器用にやさしい。


「だいたい、そんな窮屈な生き方をしていては、禿()げますよ」
「なに!?」


 だから、まあ、なかなかに失礼なことを言われても、エヴェルイートは彼女のことを嫌いにはなれないのであった。が、それはそれとして。


「おまえ、すこしは慎めよ! わたしはおまえの主人だぞ!」
「わたくしのご主人はアリアンロッドさまであって、あなたではございません」
「そ……そうだけど!」


 この無礼な侍女に勝てる日は、まだまだ遠いようである。