七、あなたと離れて(3)

 初夏の(かぐわ)しい土を踏む。薔薇の咲き乱れる〈王妃の庭〉は、これ以上ないほどやさしく瑠璃姫を迎え入れた。

 

「そうですか……」

 

 と隣を歩いていたウイルエーリアが足を止める。痛みを(こら)えるようなその様子に、瑠璃姫は慌てて言葉をつけ足した。

 

「わたしのわがままなのです。わたしが望んだことですから、その……」

 

 言いながら、適切ではなかったと後悔した。

 

 ウイルエーリアはおそらく、こうなったことに責任を感じている。もともと彼女がティナの妊娠を告げたことにより生じた事態だ。そうでなくとも遅かれ早かれ明るみになったことではあろうが、それを受けて出て行くことを伝えたうえでのこの発言は、いささか嫌味たらしく聞こえたかもしれない。

 

 瑠璃姫は唇を噛んだ。風が吹いて、色とりどりの薔薇を揺らした。

 

「エヴェルイート」

 と、小さな声が耳を撫でた。たおやかな手が伸びてくる。それがそっと、頬に触れた。

 

「それはわがままではありませんよ」

 

 庭園に射す陽は明るく、あたたかい。

 

 あらかじめ人払いをしてあったから、この会話を聞く者は他になかった。瑠璃姫は、ウイルエーリアの手に素直にすがった。

 

「……いいえ、わがままです。きっともっといいやり方はあったのに、わたしにはこうすることしかできません。全部ただのいいわけです。わたしは……」

 

 こうでもしないと、もうあのひとを見ることすらできなくなる。

 

 目を伏せた。しばらくして、手はゆっくりと離れていった。

 

「先日、ベルナールさまがこちらにいらっしゃいました」

 

 唐突ともいえるその言葉に胸が跳ねた。思わず目を見開くと、どこか怒ったようなウイルエーリアの目とかち合った。

 

「あの方にティナとの婚姻を勧めたのはあなたですね?」

 

 ずい、と下から顔が近づく。思わず後退(あとずさ)れば、ウイルエーリアは眉尻を下げて大きくため息をついた。それから諦めたように視線を逸らし、

 

「そうね、すこし離れてみたほうがいいのかもしれないわね……」

 頬に手をあてて呟く。

 

 ややあって、再びまっすぐにこちらを見た。

 

「あの方がどんなご様子だったかは、教えません。それはわたくしの口から言うことではないでしょうから。ただ、これだけは伝えておきますね」

 

 瑠璃姫は知らず唾をのんだ。

 

「この話は、まだティナの耳には入っていませんよ」

「……え」

 

 漏れたのはほとんど吐息だけだった。どう反応すればよいのかわからなかった。なのにどこかで、泣き出しそうなくらいほっとしていた。

 

 ウイルエーリアはそんな瑠璃姫にやわらかくほほ笑むと、おだやかに言った。

 

「一度距離を置いて、きちんと向き合ってみるのも悪くはないかもしれません。あなたの思うようになさい、エヴェルイート」

 

 わずかにその頭が揺れたのは、彼女が背伸びをしたからだろう。小柄な彼女が女性としては長身の瑠璃姫を抱きしめようとすると、どうしても無理のある体勢になる。それでも、

 

「道中、気をつけて」

 と背を撫でてくれる手に、全身を包まれたような心地がした。

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 (かな)わないな、と思う。もし、これが「母」というものの強さなら、瑠璃姫には一生手に入れられないものだ。

 

 何度目かわからない胸の痛みを知覚しながら、それがきっかけとなって瑠璃姫は大事なことを思い出した。

 

 そうだ。ここに来たのは、弱音を受けとめてもらうためでも慰めてもらうためでもない。

 

「ウイルエーリアさま」

 

 それまでと調子を変えて呼びかければ、すぐに察したらしいウイルエーリアはすっと離れて背筋を伸ばした。静かな視線はいささか硬質な色を帯びる。

 

 おかげで切り出しやすかった。瑠璃姫は軽く呼吸を整えてから、おもむろに口を開いた。

 

「内親王殿下のお名前がわかりました」

 

 ウイルエーリアが息を呑んだのがわかった。瞳に映り込んだ光が揺れる。可憐な唇がかすかに震える。

 

 それから彼女はゆっくりと二度(まばた)きをし、

 

「……わたくしは、その名を聞くべきではないでしょう」

 

 重い声で言った。

 

「いつか、もし、それが許されるのならば、本人の口から聞き、わたくしはその名を呼びましょう。どうかいまは、あなたの胸に仕舞っておいて」

 

 お願いよ、と祈るようにうつむく彼女に、瑠璃姫は頷くしかない。

 

 もしかしたら、彼女がその名を知らないのは、あえてそうしてきたからなのかもしれない。それを思ったらせつなかった。

 

「……承知しました」

 そう短く返せば、

 

「ありがとう」

 とウイルエーリアは薄く笑んだ。

 

 いつの間にか、陽が傾きはじめていた。そろそろ辞去するべきだろう。瑠璃姫はその旨を伝え、頭を下げた。ウイルエーリアは

 

「送りましょう」

 

 とだけ言って、馬車を用意してくれた。ふたりで乗り込む。慎重な馬車は、徒歩とさして変わらぬ速度で進んだ。宮殿までは四半刻(三十分)ほどかかるだろう。

 

 いつも徒歩で〈王妃の庭〉を訪れる瑠璃姫のために、ウイルエーリアはこうして帰路の馬車を出してくれる。出立に備えて体力を温存しておきたいいま、この気遣いはありがたかった。こういう場合でもないと王宮のものを使わせてもらう気にはとてもなれない。ウイルエーリアはそんな瑠璃姫のうしろめたい思いを、それとなく察してくれているのだ。

 

 高い木の並ぶ景色が、ゆるやかに流れた。宮殿へと続くこの林を抱える庭園は、かつてイージアスとの再会を果たした場所でもある。そのときはまったく目に入らなかったが、いまは揺れる青葉の向こうに、はっきりと後宮を囲む壁が見えた。

 

 目が離せなかった。

 

 もはや見慣れた風景だ。〈王妃の庭〉は後宮の奥に位置している。両者は性質を異にするため入り口を共有しないが、その位置関係ゆえに、景観としてはひと続きになっているのである。むろん、瑠璃姫も〈王妃の庭〉を訪ねるたびにこの壁を見てきた。だというのに、いまはじめて目にするような気にすらなった。

 

 空は皮肉なほど晴れて、わずかに覗く後宮の屋根飾りを(きら)めかせた。

 

 ウイルエーリアの気遣わしげな視線が頬を滑る。それに気づかぬふりをして、しばらく。ずっと慎重に動き続けていた馬車が、門のまえで静かに停止した。

 

 (うやうや)しく差し出された御者の手を取り、軽く裾をつまんで馬車を降りる。短く礼を述べれば、年老いた御者は温厚そうな笑みを浮かべた。ウイルエーリアの側仕えは彼女が王后であったころから顔ぶれを変えていない。であれば彼は、宦官(かんがん)だろう。

 

 瀟洒な飾り格子の門が音を立てた。宮殿側にいる衛士(えいし)たちが開けたのだ。彼らはこちら側に入ることを許されず、宦官である御者はあちら側へ行くことを許されない。自由に出入りができる男子はただひとり、王だけである。

 

 王后の気晴らしのための(あるいは軟禁のための、ともいわれる)離宮〈王妃の庭〉には、特別な決まりがいくつもあった。それには後宮と共通するところも多い。ヴェクセン帝国に後宮はないと聞いているが、ベルナールはいまのところこれらの制度に手を入れることなく、そのまま残していた。

 

 馬車のほうを振り返る。

 ウイルエーリアのほほ笑みが見えた。

 

 瑠璃姫が腰を折り、互いに挨拶を済ませると、馬車はまたゆっくりと動き出して〈王妃の庭〉へ戻っていった。