二、王女の秘密(5)

 もともと、儚げなひとだった。


 寝台に横たわる姿は何度も見ていたし、抱きしめられたときのあまりに頼りない感触を覚えている。けれどいつも美しく、陽だまりのような母だった。五年。その長さを、思い知らされたような気がした。


 さすがに今回ばかりは国王も引き留めるようなことはせず、すぐにエヴェルイートの帰郷が決まった。


「おにいさま、だいじょうぶ。きっとだいじょうぶよ」


 アウロラ王女はそう言って、泣き出しそうな顔をしながら見送ってくれた。アレクシス王子とは別れぎわ、抱擁を交わした。王子の腕から伝わる友としての気遣いと再会の約束が、エヴェルイートには痛かった。国王が用意してくれた馬車に乗り、振り返って見た王宮は、黄昏の色に染まっていた。


 楕円を描く王国のほぼ中央、やや西寄りに位置する王都アヴァロンと、南西端にあるカルタレスはほぼ直線の道で繋がれており、目立った障害もない。足の遅い馬車でもだいたい五日くらいの道のりである。

 

 エヴェルイートは自分のせいで負傷したウリシェを気遣いながら、内心、焦っていた。

 

 いますぐにでも馬車を置いて駆け出したい。体力はないが、馬の扱いは人並み以上だと自負している。実際、その馬術の巧みさは評価されていた。自身の気力と優れた馬さえあれば、二日もかからずに母のもとへ帰ることができるのだ。だが、馬車や護衛が国王から貸し出されたものである以上、あまり勝手な真似はできなかった。


 王都を発って半日、浅い眠りに落ちかけていた明け方のことである。

 

 エヴェルイートは、周囲の騒がしさで目を覚ました。護衛によると、騎影がひとつ、前方より凄まじい速さで近づいてくるのだという。エヴェルイートも目を凝らしながら、剣の柄に手をかけた。

 

 しかし、朝陽を受けた不審者の顔がはっきりと見えてくるにつれ、緊張は興奮に変わった。記憶よりだいぶ成長している。が、その無愛想でかわいげのない表情を、エヴェルイートが忘れるはずもなかった。


「イージアスか!」
「エヴェルイートさま!」


 低い声。反して、背は高い。ずいぶんと逞しくなった。


「ご当主さまの(めい)により、このイージアス、お迎えに上がりました」


 駆けつけたそのままの勢いで馬から飛び降り、膝を折る。唖然とする周囲に向けて、


「この先にブロウト家の馬車を用意しておりますので、王都よりお越しのみなさまにはそちらで荷をお引き渡しくださいますよう。ここまでの我らが若君の護衛、感謝いたします。それでは」


 汗だくで息を乱しながらも、滔々(とうとう)とまくしたてるようにイージアスは言いきった。それからエヴェルイートを馬に乗せ、自身も同じ馬に乗ると、強く手綱を握った。


「火急の用ゆえ、ご無礼をお許しください」


 そう言ったときには、すでに駆け出していた。


 イージアスをよく知っているからこそ愉快に思えるが、知らぬ者にとっては実に鮮やかな誘拐である。いまごろウリシェは説明と対応に追われているに違いない。


「イージアス、ウリシェは怪我をしている。あまり苦労をかけてくれるな」
「そうか。他の者には伝えておこう」


 人目がなくなった途端、友人としての会話がはじまる。イージアスの、必要最低限の言葉しか使わない話し方が懐かしい。どうやら敬語はすこしだけ上手くなったようだが、やはり根本的には変わらない。そのことがやけに嬉しかった。


「すこし行ったら、馬を乗り換える。おまえの馬も用意している。そのあとは乗り換えながらひたすら走る。いけるか」
「無論」
「すまんが、おれは嘘がつけぬ。……間に合う保証はないぞ」
「間に合わせる」


 イージアスにしては珍しく言い淀んだ言葉に、エヴェルイートは即答した。イージアスは黙って頷き、馬の腹を締めた。


 宣言どおり、個々に馬を乗り換えたあとは驚異的な速度で走り続け、翌早朝、まだ陽が昇らぬうちにふたりは揃ってカルタレス城にたどり着いた。城内ではだれひとり眠らずに、エヴェルイートの帰りを待っていた。


「まあ、エヴェルイートさま! 本当にエヴェルイートさまなのですね! なんとご立派になられて……」
「ただいま、エリス。すこし痩せたね」
「ええ、もう、もう。このごろは生きた心地がいたしませんで……ああ、姫さま! アリアンロッドさま! エヴェルイートさまがお戻りですよ!」


 懐かしい空気を吸い込んで息を整え、縺れる足を叱咤しながら、母の寝室を目指す。熱を出したとき、なんとなく眠れないとき、その扉を叩くと、いつも母のやさしいほほ笑みが迎えてくれた。思い出すと、喉の奥が引きつり、痛んだ。


 暗く長い廊下の先、母の部屋の前では、父ヴェンデルが待っていた。父はエヴェルイートの姿を認めると、静かにそこを立ち去った。すれ違いざま、そっと肩に触れた父の手を、ぎゅっと握りかえした。


 父の足音が聞こえなくなってから、扉を二回、軽く叩いた。


「どうぞ」


 と、か細いが澄んだ声が答えた。


 もう、我慢なんてできなかった。


「母上……!」


 行儀悪く扉を開け、転びそうになりながら部屋に駆け込み、寝台の上、母の痩せた胸に飛び込んだときにはすでに、あふれる涙でほとんどなにも見えなかった。


「母上、ははうえ……!」
「おかえりなさい、エヴェルイート。大きくなったわねえ」
「ははうえ、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「まあ、なにを謝るの? あなたがこんなに元気に帰ってきてくれたのに。わたくしはなにを叱ればいいのかしら?」


 母が、ほほ笑んでいるのがわかった。昔となにも変わらずに、やさしく抱いてくれた。もう言葉を紡ぐこともできずに、ただひたすらすがって泣いた。陽が昇りはじめて、ほのかに母子を照らした。


 それから三日間、エヴェルイートは大半の時間を母の部屋で過ごした。あんなに無茶をしたにも関わらず、不思議と体調を崩すこともなく、おだやかな日々だった。


「エヴェルイート、こちらへいらっしゃい」
 寝台から、母が手招く。


「ここに座って。あなた、ちゃんと髪は梳いているの? いけませんよ、せっかく綺麗な髪なのだから、手入れをしなくては」
「ですが母上、わたしの髪は短いですし、女性(にょしょう)のように結い上げることもないのですから……」
「いけません。自分の長所を見ないふりして(おとし)めるのは、愚かですよ」


 言いながら、ふわりと櫛で髪を梳いてくれる。すこしくすぐったくて、心地よかった。


「この櫛はね、とても大切な方がくださったものなの」
「父上が?」
「あら、どうしてわかったの?」
「わからないほうがおかしいですよ」


 ()けた白い頬に、ほんのりと赤みがさしている。いつまでも少女のような初々しさを持つ母である。この象牙製の、花模様の彫刻と瑠璃玉で飾られた櫛を使うとき、母が必ずいまと同じような顔をしていたことを、エヴェルイートは知っている。


「いつかあなたにも、大切な方ができるのかしら。ふふ、なんだか寂しいわね」
「…………」


 どきりと、胸が痛んだ。母はそれに気づいたのだろうか。しばらく考え込んでから、言った。


「この櫛、あなたにあげるわ」
「そんな、……大切なものを」
「あなたに持っていてほしいの」


 母はエヴェルイートの手に櫛を握らせて、包み込むようにその手を重ねた。


「あなたに、大切な方ができたら……そのときは、その方に差し上げてもいいし、その方のためにあなた自身が使ってもいいわ。いいえ……なんでもいい。あなたの望むようにしてくれたら、それでいいの」


 まるで子守唄でも聞かせるような、かすかな声だった。


「ねえ、エヴェルイート」


 けれど、ずっと胸の奥に残る、たしかな言葉だった。


「あなたを愛せて、しあわせだったわ」


 その日の夜、母アリアンロッドは、静かに息を引き取った。


 その後一年間、カルタレス城には弔問客が絶えなかった。なにかと忙しい毎日が過ぎる間に、侍女エリスが心労により倒れ、老齢ということもあって家族のもとへ帰ることになった。もとは女官として王宮に仕えていた彼女の家族は王都におり、これが今生の別れになるであろうと思われた。


 母の葬儀を終え、エリスを見送ったあとのカルタレス城は、ひどく広かった。