五、選択(2)

  腹のあたりに強い圧迫感を覚えたと思ったら、籠のなかに引き倒されていた。

 

「なに……」

 

 軽く咳き込みながら鈍い痛みの走る腹部に手をやると、ざらついた感触のものがぐるりと巻きついている。縄だ。縄はリュシエラの腰の中心でしっかり結ばれたあと、べつのなにかに向かって伸びていた。月明かりを頼りにその先をたどれば、行き着いたのは男の腰。

 

「きみには前科がありますからね。ちょっと繋がせてもらいました」

 男が言いながら縄を引く。

 

「放しなさい!」

「放したところで状況は変わりませんよ。仮にきみがここから飛び降りたとしても、そのときはおれも一緒です」

 

 じわじわと腹が締めつけられる。リュシエラは倒れたまま身動きが取れずにいた。男の顔がすぐそこにある。もともとふたりで入るには窮屈な籠だ。こうなってはもう、腕を伸ばすことすらできなかった。

 

「わたしはいやよ! 王家なんて関係ない。ただそこに生まれたというだけで、どうして存在そのものまで奪われなくてはならないの!」

 

 だから、力の限り訴えた。すると、男から返ってきたのは意外な言葉だった。

 

「……そうですね。わかりますよ」

 

 まるで、痛みを耐えるような。

 それまでの調子とは明らかに違った。男はゆっくりとリュシエラを抱き起こすと、向かい合うように座らせた。

 

「おれもきみと同じです。だから旧市街から逃げ出した」

「……え?」

「だいぶ昔の話ですけど」

 

 見てください、と、男が両腕を月光に晒す。すらりと淡く浮かび上がった、その一部分だけが黒く染まっている。両の手首をなにかの文様が囲んでいるのだ。ちょうど、腕輪のように。

 

「これがおれの(かせ)です。きみはこれを知っているでしょう?」

 

 よく見ればそれは、入れ墨だった。ネンデーナの両手首に刻まれていたものと同じ。

 

「これ……」

「アッキア・ナシアの聖刻文字です。歴代の王の名が列記されている」

 

 リュシエラは弾かれたように男の顔を見た。相変わらず目もとはフードに隠れているが、かろうじて確認できる口もとが自嘲気味に歪んでいる。

 

 アッキア・ナシア。はるか昔に滅びた国の名。それが。

 

「王国の無念を、そして悲願を忘れないように、こうして直接刻みつけるんです。王家の末裔(すえ)肉体(からだ)にね」

 

 それが、なぜ。

 

「まあ、王家云々(うんぬん)はほんとうかどうか知りませんが、おかげでなかなか楽しい幼少期を過ごしましたよ」

「あなたは……」

 

 とリュシエラが考えをまとめるのを遮るように、強い風が吹いた。男のフードが、流されて肩に落ちる。

 

 さらりと靡いた髪は、月影にも似た淡い色。まっすぐに光る瞳は銀。どこかあの白い花を思わせる容貌(かんばせ)は、

 

「……ネンデーナ?」

 リュシエラの恩人に、そっくりだった。

 

「おれの名はアイザック。ネンデーナは姉です」

「おねえ、さん……?」

 

 アイザックと名乗った男がかすかに目を細める。

 

「よく似ているでしょう? だから幼いころは、入れ替わって遊んだりもしたんですよ。でも、おれと姉の考え方は真逆だ。あのひとは自分に流れる血を盲信している」

 

 流れる血。もし、アイザックの言うことが真実だとしたら、ネンデーナは。

 

「姉はね、パルカイを心の底から憎んでいるんです」

 

 アイザックの指が、リュシエラのほつれた髪を(すく)った。

 

「そんなの……だって、わたしたち、髪や目の色が違うだけだわ」

「本気で言ってます? アッキア・ナシアを滅ぼしたのはきみたちパルカイ民族ですよ」

 

 そんなことを言われたってリュシエラにはピンとこない。たしかにそういった歴史は本を読んでひととおり頭には入れた。そしていまや自分がその「パルカイ民族」を代表する存在であることも理解している。だがそれだけだ。

 

「……ずっと昔のことでしょう?」

 

 困惑しながら返せば、アイザックは呆れたようにため息をついた。

 

「あのままあそこにいたら、きみはいずれ殺されていましたよ」

 

 とその指が示す先に、リュシエラは妙なものを見た。後方、真っ暗な大地にぽつりと、そこだけ夕焼けを落としたような赤い色。厚い(もや)に包まれながら、それは(はげ)しく(またた)いている。

 

「……燃えているの?」

「はい。あれがきみの過ごした旧市街(まち)です」

「なぜ」

「姉とその信奉者が火をつけたんでしょう。きみがいた花畑、あれは毒です。あの量を燃やせば、相当な被害が出る」

「どうしてそんなことを」

「この国が自分たちのものだと主張するためですよ」

 

 それは、言葉にすればひどく単純なことのように思えた。

 

「そして王国の……神々の屈辱を晴らす。そのために、憎い敵に媚びへつらってでも、彼らは今日まで生き抜いてきたんです」

 

 だが、とてつもなく膨大で複雑な、人の(つむ)いだ流れの果ての激情に違いなかった。

 

 そんなものまで背負わされるのか。王の血脈というものは。

 

「……それがいやで、おれは逃げ出した」

 重く呟くように言ったアイザックは、しかし、その直後やけに軽やかに笑んでみせた。

 

「余計なことを喋りすぎました。話を整理しましょう」

 それから、真面目な顔でよどみなく語る。

 

「そんな旧市街の動きを、ベルナール卿は読んでいました。それにきみという存在があったから、近々旧市街に踏み込むつもりでいたようです。ところが、それを察知した姉が先手を打った」

「それが、あの火事?」

「そうです」

 

 大人たちがたびたび集まっていたのは、そのためだったのか。理解すると、急に寒気がした。集会に参加したいと思っていた。助けてくれたひとに、なにかすこしでも恩返しができればと。でも、いったいその場で、自分はどんな扱いを受けていたのだろう。わざわざ生かされていたその意味は、なんだったのだろう。

 

「ネンデーナは、わたしの生まれのことを知っていたのかしら……」

「それはないと思います。たまたま儀式にちょうどいいパルカイ娘が飛び込んできた。そのくらいの認識でしょう」

「儀式?」

「アッキア・ナシアでは、大事なときには必ず、神々に生贄を捧げていたんですよ。戴冠式とか戦のまえとかですね。生きたまま心臓を抉り出すんです。その日までは神々への供物として丁重に扱い、家族同然に過ごします」

 

 にわかには信じ難い話である。想像すると吐き気がした。アイザックはそんなリュシエラを見て言う。

 

「まあおれからすれば、肉体をないがしろにするきみたちの教えもどうかと思いますよ。宗教なんてそんなものです」

 話を戻しますね、と続けた。

 

「で、そうなるまえに、おれがきみを連れ出しました」

「助けてくれた、ということ?」

「部分的には」

「ああ、そうか……それで、わたしはこれからベルナールというひとに差し出されるというわけね」

 

 半ば投げやりに納得して、リュシエラはゆるく頷いた。ところが、

 

「いいえ。彼はいまごろ必死になってきみを探しているんじゃないかな。そもそも今日こんなことが起こるなんて思っていなかったでしょうし」

 

 アイザックはそんなことを言い出したのである。

 

「言ったでしょう? 我々はだれの下にも属さないんです」

 

 一見やわらかく(ほころ)んだ銀色の瞳に、リュシエラは射すくめられてしまった。もしかしたら、なによりもやっかいなものに捕まってしまったのではないだろうか。

 

「さて、ここからがようやく本題です。ベルナール卿に利用されるのと姉に殺されるの、どっちがいいですか?」

「どっちもいやよ」

「ですよね。そこでひとつ、きみに提案があります」

 

 顔が近づき、頬に指が触れる。

 

「おれと一緒に来ませんか」

 

 そう来るのではないかと思ってはいたが、なんとも答えづらい誘いである。だいたい、この男の話をすべて信じろというほうがおかしいのだ。というより、信じたくない、というのが正直なところかもしれない。

 

 ネンデーナとともに過ごした日々が眼裏(まなうら)にちらつく。ややあって、リュシエラは声を押し出した。

 

「……それもいやだと言ったら?」

「速やかに引き渡します」

 

 ずいぶんとおだやかに言う。

 

 しばらく、沈黙が続いた。亜人たちの羽ばたく音だけがときおり聞こえている。風と調和するその音に違和感を覚えたのは、リュシエラがなんとかして答えを導き出したときだった。