八、再会(2)

 目を覚ましたとき、瑠璃姫は知らない部屋にいた。寝台に寝かされている。狩猟の場で倒れたときと似たような状況だ。けれどあの日とは違い、そこにサイードやベルナールはいなかった。代わりに、可憐な女性がひとり、こちらを心配そうに見つめていた。


「お目覚めになりまして?」


 女性は瑠璃姫の額に触れ、わずかに頬を綻ばせた。


「お加減は、いかがですか?」
「わたくし……」
「どうぞ、そのままで。熱は下がったようですけれど、まだおつらいでしょう」


 そう言って、女性のたおやかな手が瑠璃姫の目もとを拭う。それで、泣いていたことに気づいた。「彼」の気配は、もう、ない。


「どうして……」
「……覚えていらっしゃらないの?」


 傷ついたような顔をして、女性は瑠璃姫の手を取った。


「本当に、なんて酷いことを……あなたは騙されていたのよ、あの男に」


 女性の可憐な美貌が歪む。握られた手が痛かった。


「いいえ、あなただけではないわ。わたくしたち、みんな騙されていたの。ローラさまだって、あの男のせいで、あんなこと……」


 おいたわしい、と女性は嘆いた。いまいち状況がわからなかった。このひとの言う「あの男」がベルナールのことを指しているのなら、「騙されていた」という部分は理解できる。だがだからこそ、その「婚約者」である瑠璃姫も、ともに捕らわれようとしていたのではなかったのだろうか。


 軽く視線をめぐらせた。目に入るのは、落ち着いた、ぬくもりを感じる内装や調度品。明らかに牢獄ではない。


 では自分は、嫌疑を(まぬか)れたのだ。なぜ。きっとあのひとは、いまごろ冷たく暗い空間に閉じ込められているだろうに。


 酷いひどいと彼を非難する女性に、違う、そうじゃない。とは、言えなかった。結局、瑠璃姫はなにひとつ知らないのだ。


 そう思ったら、涙があふれた。瑠璃姫が瑠璃姫として流した、はじめての涙だった。


「ごめんなさい、あなたを責めているわけではないのよ。ごめんなさいね……」


 女性が慌てた様子で瑠璃姫の髪や頬を撫で、抱き寄せた。泣き止むまで、そうしていてくれた。人肌が恋しいと、はじめて思った。


 女性は、ティナと名乗った。シェリカ領主の娘で、第三王子アレクシスの妻。つまり第一王女アウロラの義姉にあたる。王女の心身を案じる姿や、「ローラさま」と愛称で呼ぶことから推察するに、ふたりの関係は良好らしい。そういえば、ベルナールがアウロラ王女に刺されたあの場に、このひともいたような気がする。あのときは挨拶すらできなかったが。


 妃殿下、と呼んだら不満げな顔をされたので「ティナさま」と呼ぶことにした。どうやら立場にはあまり(こだわ)らないひとのようだ。だからだろう、ティナの言うことは終始、感情論に走っていて、政治的な思考は微塵も見えなかった。彼女にとっては、考える必要もないことなのだろう。その良し悪しはともかく、少なくとも人としては信頼できる、心やさしい女性だと感じた。


 そんな彼女の、ときおり脱線する話を要約すると、状況はこういうことらしかった。


 まず、やはりベルナールはいま身柄を拘束されているらしい。彼は春の一座を使ってアウロラ王女と接触し、甘い言葉で王女を(たぶら)かしてここまで乗り込んできた。そうしてこの王国を乗っ取るつもりだったが、女(つまりは瑠璃姫のことだ)に目が眩んでぼろを出し、逆上した悲劇の王女に刺された――という、ティナの口から語られた主観的な「真実」を、瑠璃姫は信じることができなかった。

 

 王女がベルナールに恋慕していたとは思えない。ただ、春の一座を介して王女とベルナールが関わりを持っていたのは、なんとなく事実のように思える。その裏になにがあるのかはわからないが、おそらくそんな単純な話ではないはずだ。


 アウロラ王女の目を、瑠璃姫は覚えていた。こちらを見る、あの目。すがるような、救いを求めているような、そんな目だった。


 恋敵に、そんな目を向けるはずがない。


 だがそれはティナやほかの者にわかるはずもないのだ。瑠璃姫とベルナールの、本当の関係も知らない。


 だから瑠璃姫自身も、ティナ曰く「最低な男」の被害者、ということになっているようだ。実は庇護者であるサイードも春の一座と繋がっていたらしく、それで瑠璃姫にも捜査の手が伸びたわけだが、あのときの「彼」の行いが、疑いの目を遠ざけたらしい。一度は取り押さえられたものの、そもそも証拠が不十分だったことと、錯乱し憔悴しきった(ように周囲には見えたのだろう)様子が取り調べには向かないと判断されたことにより、いったんこうして保護されることになったようだ。

 

 ティナによると、あのときからすでに一日と半が経過しているという。


 瑠璃姫は思う。たぶん、ベルナールはこうなることに賭けたのだ。知っていたのだ、瑠璃姫のなかに「彼」が眠っていることを。ああ言えば「彼」が目覚め、あのような行動に出ると、わかっていたのだ。


 だから、わざと。「彼」を助けるために。


 なぜだか、チクリと胸が痛んだ。


「それにしても、驚きましたわ。瑠璃姫さまは意外と男勝りでいらっしゃいますのね」


 ティナが、瑠璃姫の頬や汗ばんだ首筋をやさしく拭いながら笑う。


「いいえ、よろしいのよ。わたくしたち女も、殿方に泣かされてばかりではいけないと思いますの」
「ティナさま……でも、わたくしは……」


 本当は、女ではないのだ。言えずに、うつむいた。自身の、男でも女でもない体が目に入る。


 瑠璃姫はそれを認識していたが、意識したことはあまりなかった。それがいま、やけに気になる。「彼」はおそらく、男として生きていた。ならば自分は、なんなのだろう。本当は、「彼」はどうやって生きていきたかったのだろう。


 そこでふと、気づいた。やわらかくこの身を包む、上質な寝衣。意識を失うまえはたしかにドレスを着ていた。これはつまり、だれかの手で着替えさせられたということだ。


 血の気が引いた。


 見られた? この体を。


 上半身だけならば女性に見えるだろうが、それでも女性には似つかわしくない大きな傷痕が二箇所ある。疑われる。せっかく、あのひとが逃がしてくれたのに。


「ティナさま」
 震える声で尋ねた。


「どうなさったの? お顔が真っ青だわ」
「わたくしの……わたくしの介抱をしてくださったのは、ティナさまですか?」
「いいえ、わたくしはただ、あなたを助けた方にいまだけ見ていてほしいと頼まれて……」
「助けてくださった……? それは、どなたが――」


(わたくし)ですよ」


 突如聞こえたその声は、おそろしく繊細だった。それでいて、ピンと張り詰めていた。たとえるなら、弦楽器を爪弾いたときの、余韻。


「王后陛下」


 その声の持ち主を見て、ティナが椅子から立ち上がり膝を折った。


「王后……陛下……?」


 折れてしまいそうなほど細い体。透けるように白い肌。どこか少女めいた美貌。そのまろやかなほほ笑みは、アウロラ王女とよく似ている。


 王后ウイルエーリア。まだ三十にも満たない、若き国母。
 第一王女アウロラの、母。


「目が覚めてよかったこと。……すこし、おはなししましょうか」


 小柄な体に纏った濃い色のドレスが、ひどく重たげに見えた。


 王后がふたりきりで話がしたいと言うと、ティナは「またわたくしともおしゃべりしてくださいませね」と人懐こい笑みを咲かせてから退出した。「いつでもいらっしゃい」と返した王后とティナの間には、親子のようなあたたかみを感じる。(おおやけ)の場にもめったに姿を現さないという王后の、これが素顔なのだろうか。


 ティナを見送った王后は、先ほどまでティナが座っていた寝台脇の椅子に腰掛け、瑠璃姫の頬に触れた。


「熱はないようですね」
「王后陛下、あの」
「横になっていなさい。ここは〈王妃の庭〉。そなたを傷つけるものはなにもありません」


 それから、静かに告げた。


「エヴェルイート=レンス=ジェ=ブロウト」


 まっすぐに瑠璃姫を見て、告げた。


「それが、そなたの名です」


 ずっと知りたかった。けれど、知ろうとするたびに「彼」が避けてきた、その、名。「彼」の――瑠璃姫の、本当の名前。


 やっと、聞けた。でも、


「どうして……?」
「サイードからすべて聞きました。サイードは、そなたの実の祖父です」
「……お祖父(じい)さま?」
「そうですよ。そなたはずっと、お祖父さまに守られてきたのですよ」


 守ってくれていた。もはや別人になっても、ずっと。守ってくれていた。エヴェルイートを。そして、瑠璃姫を。


「お祖父さま……」


 何者になっても、ずっと。


 王后は、しばらく黙って瑠璃姫を見守っていたが、やがて意を決したように話しはじめた。


(わたくし)はこれから勝手なことを言います。そなたを傷つけることもあるでしょう。許してほしいとは言いません。妾を恨みなさい。それでも、妾はサイードと……娘たちを、助けたいのです」


 その言葉に、引っかかる部分があった。


「娘たち」


 たしかに、王后はそう言った。だが、王后の生んだ子はアウロラ王女ただひとりのはずだ。瑠璃姫の声にならない疑問に答えるように、王后が言った。


「およそ十二年まえ、妾はふたりの娘を産みました。ひとりは、アウロラ。もうひとりは、名も知りません」


 思わず上体を起こそうとした瑠璃姫を制しながら、はっきりと。


「双子だったのです」


 王后は、そう言った。