十四、本心(1)

 後悔などなかった。


 すべてアウロラの望んだことだった。これでいい。これでいいのだ。これでようやく、みな解放される。もう苦しむこともない。


 薄暗い天井が、アウロラを静かに見下ろしていた。


 古くて狭い部屋だ。漆喰(しっくい)の剥がれた壁にほんのわずか残る色彩は名も知らぬ神々を描いた跡で、部屋の四隅にある窪みにはかつて、その神々を象った鉄像が置かれていたという。


 ウルズの文化ではない。現在のドラグニアに存在する、どの国のものでもない。これは「銀灰の古王国」アッキア・ナシアの、忘れ去られた栄光と祈りの残滓(ざんし)である。


 ウルズ王国には、アッキア・ナシアの面影がそこかしこに残っている。アヴァロン王宮もそのひとつである。もちろん長い時を経て変化した部分も多いが、一番重要な玉座の間などはほとんど手つかずだという。

 

 アウロラたちの信じる聖典によれば、アッキア・ナシアは神を冒涜したために滅んだ「悪しき国」だ。と同時に、神子(みこ)の母、すなわち信仰の母である聖女エスタスの祖国でもある。だからだろうか、未だにこうして生き続けているのは。滅ぼしきれなかったのだろうか。王女として生まれたエスタスは、自らが滅ぼした祖国をどう見ていたのだろうか。その繁栄を支えた鉄のような、銀灰色に輝いていたという瞳で。


 アウロラは、その身に宿るエスタスの情念を思った。


 アウロラ=ディオーリエスタス。「聖女エスタスの福音(ディオーリエスタス)」を授かった「曙の乙女(アウロラ)」。


 なんという運命だろう。エスタスが祖国の玉座をパルカイの男に与えた日、それを記念する日に生まれたアウロラが、こうしてその滅亡を待っている。笑うことすらできないほど、滑稽だった。


 自然と、歌がこぼれた。どこかで聴いたような気がする、歌詞のない適当な歌だ。本当は、子守唄でも歌いたい気分だった。だが子守唄というものを、アウロラは知らない。


 遮るものはなにもなく、歌声は空気に溶けてゆく。静かだった。


 ふと、思った。だれもいないのだろうか。


 いつもこの部屋のまえには、だれかしら立っていたはずだ。アウロラを守るためだと彼らは言ったが、そんなことは嘘だと知っていた。だって、きっと狂ってしまったと思われている。おかしい。アウロラは狂ってなどいないのに。


 歌いながら、踊るように歩いた。そうして鉄の扉に触れると、刺すような冷たさが返ってくる。寄り添うように、そっと扉を開けた。


 歌声が廊下に流れた。それを聴く者はいない。素足で歩くアウロラには、床の大理石すら音を返さない。自身の歌声だけが、ときどき掠れながら響いていた。だがそれすらも、やがて消えてしまった。ひとりだった。


 ずっと、ひとりだった。


「……おとうさま」
 生まれたときから。


「おかあさま」
 ずっと。


「おにいさま」
 ひとりだった。


 だから大丈夫。これでいい。これで、いい。これで。こんな。こんなの――


「……置いていかないで」


 ――やっぱり、いやだ。


「おとうさま! おかあさまぁ!」


 どうしてだれもいないの。もうローラのことなんて忘れてしまった? やっぱりなにをしても無駄だったの?


「どこ……おにいさま……!」


 憎しみでもいいから。愛してくれなくてもいいから。

 お願い。わたしを見て。わたしを思って。


 ひとりにしないで。


「アウロラ殿下!」


 そのとき突如響いた、その、声を。


 アウロラは、信じることができなかった。


 けれど、黄金の落陽(らくよう)を背負い、こちらへ向かってくるそのひとは、いや、そのひとこそが。


 アウロラの、ずっと求めていた光だった。


「おにいさまああ!」


 走った。眩しくて、まえが見えなかった。でも、まっすぐに走った。途中何度も足が縺れたが、かまわずに走った。ただ、会いたかった。触れたかった。躓いて、倒れかけた。


 その体を、


「失礼いたしました。お怪我はございませんか、殿下?」


 しっかりと、受けとめてくれた。昔のように。その、あたたかい腕で。


「おにいさま、おにいさまあああ!」
「はい、ここにおります」
「わた、わたし……ごめんなさい、ごめんなさいいぃ……!」
「いいんです。もう、いいんですよ」


 本当に、ここにいる。エヴェルイートが、抱きしめてくれている。


 髪が短い。服も男物だ。アウロラのよく知っている姿だ。戻ってきてくれた。戻ってきてくれた!


 すがりついて、泣きじゃくった。はじめて、人目を憚らずに、声をあげて泣いた。


「寂しかったですね。つらかったですね。苦しかったですね。大丈夫。いいんですよ。我慢しなくていいんです」
「いいの? いっしょにいて、って、言ってもいいの?」
「はい。もっともっと、言っていいんです。殿下はなにが欲しいですか?」


 本当は、ずっとこうしたかった。こうしてほしかった。


「おとうさまがほしい……おかあさまがほしい。わたしがいてもいい場所がほしい」


 それができないから、ぜんぶ、なくなってしまえばいいと思った。ぜんぶなくなれば、アウロラのものになると思った。


「でもローラは生まれてきちゃいけなかったから……最初から汚れてるから、忌み子だから、だからだめだったの、本当はほしがっちゃだめだったの!」


 ごめんなさい。


「ごめんなさい、ほしがって、ごめんなさい、ひとですらないのに、わたしは、ふつうのひとですらないのに。神子さま、神子さま、ごめんなさい。あなたをほしがってごめんなさい……!」


 エヴェルイートの顔を見ることができなかった。


 その手が、欲しかった。存在自体が罪であるアウロラにも、差し伸べられる手が。だれからも愛されるあなたが。憎くて、妬ましくて、愛おしい、アウロラとは違う、全部を持っているあなたが。……いいえ、ちがう。きっと。


 わたしは、あなたになりたかった。


「アウロラ」


 静かな声に呼ばれて、顔を上げた。涙が伝う頬を、そっと包まれる。エヴェルイートはおだやかに、だが揺るぎない強さで、こう言った。


「わたしは、人間です。あなたと同じ。人間です」


 光が、あふれていた。眩しくて、その表情は見えなかった。


「……おなじ?」


「はい。なにも変わりませんよ。目がふたつあって、鼻があって、口がある。ほら、手や足は二本ずつあるでしょう? いいえ、なくたって、すこし多かったって、かたちが違ったって、なにも変わりません。同じように悩んで、同じように笑って、同じように泣いて、同じように憎む。ただの人間です。わたしも。あなたも」


「わたし、も」


 もう一度、抱きしめられた。エヴェルイートの胸が、やわらかく頬に当たった。その膨らみを、はっきりと感じる。エヴェルイートはもう、それを隠そうとはしていなかった。


「人であるのだから、人を求めるのは当然でしょう? いいんですよ、それで」


 それでいい。


「あなたは、あなたでいい」


 たったそれだけの言葉に、こんなに救われるのはなぜだろう。


 今度は、自分で顔を上げた。見ておきたかった。そう言ってくれるひとの顔を、見ておきたかった。手を伸ばす。触れた。たしかにそこにいた。


「好きですよ、アウロラ」

 その瞳のなかに、アウロラがちゃんといた。


「たとえ、わたしの見ているあなたが幻影だったとしても」

 すこし意地悪なほほ笑みが、アウロラの存在を認めてくれていた。


「……幻影なんかじゃ、ないわ」
 だから、答えた。


「全部わたしだもの。ちゃんとここにいるもの」

 そしてはじめて、その名を呼んだ。


「エヴェルイート」


 改めて、それを伝えた。


「あなたが、大好き」


 同じ人間として。大好きだ。