六、選択したその先で(2)

「……アイザック?」

 

 たしかに呼ばれたと思ったのだが、姿が見えない。なにか、あったのだろうか。まさか。

 

「アイザック!?」

「木に登ってください! はやく!」

「……は?」

 

 再び声が聞こえた。が、その意味がわからず立ち尽くす。そのうちに、地を揺らすような音が聞こえてきた。どんどん近づいてくるその音のほうへ顔を向ける。そして、

 

「え」

 

 目を疑った。

 

「どうしてそうなるのよ!?」

「こっちが訊きたいですよっ!」

 

 と必死の形相で駆けてくるアイザックの後方。一頭の巨大な(いのしし)が、こちらに向かって文字どおり猪突猛進してきていた。

 

 状況はまったく理解できないが、これで言われたことの意味はわかった。リュシエラは即座に手近な木によじ登る。そこへ疾走してきたアイザックが、その勢いのまま跳んでリュシエラの頭上に伸びる枝を掴んだ。そして足を振り上げくるりと回ったかと思えば、いつの間にか枝の上にいる。その軽業師のような動きに感心する間もなく差し出された手を握り、ぐっと引き上げられた、その直後。

 

 ドン、という重い音とともに、木が揺れた。

 

 さいわい、太く立派な木が倒れる気配はない。猪は何度か同じように幹を突いたり根もとを掘ったりしていたが、やがて興味を失ったのか静かに去って行った。

 

 ふたり同時に、息を吐き出す。

 

「あー、焦った」

「じゃないわよ、焦ったのはこっちよ、なんでそうなるのよ!」

「こっちが訊きたいくらいですって。なんでかわからないんですけど、気づけばいつもこうなってるんですよね」

 

 だから面倒だって言ったのに、とアイザックはもう一度ため息をついた。その風を感じるほど、顔が近い。引き上げられたあと、ずっと彼に抱きついていたことに気づいて、リュシエラは狼狽(うろた)えた。

 

「ちょっと、離れなさいよ」

「いいんですか。そうしたらきみは落ちますけど」

「安全におろそうっていう気はないわけ?」

 

 などと言い合いながら手を借り、ときに貸し、ゆっくりと地面に降り立つ。足裏に感じるたしかな感触がありがたかった。

 

「わかったわ。あなたって動物を怒らせる天才なのね」

「そうでしょう?」

「褒めてないわよ」

 

 竜に襲われたのもなんとなく納得できる。と思ってから気がついた。そういえば、あの竜には人が乗っていたのだ。きっかけはアイザックの不注意だったにしても、それは襲われたこととなにか関係があるのだろうか。というよりまず竜の上に人がいるという光景自体が不思議でならないのだが、あれは本当に現実のものだったのだろうか。もしかしたら、自分だけが見たまぼろしだったのかもしれない。

 

「ねえ、」

「あ、ちゃんと食料は獲ってきましたよ」

「え、本当?」

 

 浮かんだ疑問は、あっさりと食欲に追いやられた。とにかく、現在(いま)をどうにかしなければこの先なにもできないのだ。

 

「はい、どうぞ」

 とアイザックが広げた袋を、期待しながら覗き込んだ瞬間。

 

「いやああああっ!」

 

 リュシエラは自分でも信じられないほどの悲鳴を上げて思いきり後退(あとずさ)った。木の根に躓き、尻餅をつく。

 

「なにやってるんですか」

「だ、だって、それ、む、む、む……っ」

 

 目に焼きついて離れない。うぞうぞうねうねと大量に蠢く、白い――

 

「虫じゃないの!」

「虫ですけど?」

 

 信じられない。食えと。これを食えと言うのかこの男は。

 

「だって狩猟道具もなにもないし、面倒くさいし、手っ取り早く確保できる栄養源といったらこれくらいしかなかったんですよ。……あと面倒くさいし」

「面倒だっただけなんじゃないの!?」

 

 鳥肌が立つ。本当に信じられない。もはや信じられないとしか言えない。

 

 そんなリュシエラをよそに、アイザックは平然と袋のなかに手を突っ込み、そのうちの一匹を摘まみ上げた。それからこちらを向いて、一歩踏み出す。

 

「やめて。見せないで。こっちに来ないで」

「ほら、食べてくださいよ……お腹がすいたんでしょう……」

「いやぁぁ動いてるうぅ」

「そりゃ動きますよ。生きてるんだから」

「気持ち悪いぃ」

「失礼な。虫さんに謝りなさい」

 

 一歩一歩、やけに丁寧に足を運ぶアイザックは、しかし確実にリュシエラを追い詰めてゆく。なぜこんな思いをしなくてはならないのか。尻餅をついたまま動けずにいるリュシエラには本気でわからなかった。

 

「もうわたしはいいからあなた食べなさいよ」

「おれも踊り食いは苦手なんですよね」

「だったらなんでそれをさせようとするのよ!?」

 

 もはや逃げ場はない。目のまえで細長い体を(よじ)る、見るもおぞましい、それ。そんなものが口に入るだなんて。ああ、口に。口に。

 

 と、固く目を閉じたときだった。

 

 ふわり。鼻孔をくすぐる、香草の香り。それから、肉の焼けるにおい。それらが見事に調和して、口内と腹を刺激する。勝手に唾液があふれ、せつないほどに体の奥がぎゅっと疼いた。生きるために欠かせない、とくにいまは欲してやまない、これは、つまり。

 

「ご飯のにおい!」

 

 歓喜の声をあげると同時に、二匹の腹の虫が大きく鳴いた。

 

 リュシエラに迫るのをやめたアイザックが、うにうにと蠢く虫を無言で袋に戻す。しっかりと口を縛ったその袋を身につけ、一度長く息を吐くと、

 

「リュシエラ。行きますよ」

 

 においのするほうを親指で差した。

 

「ちょっと」

「よかった、やっぱり人がいた。これで美味しいご飯にありつけるかもしれませんよ。やったね」

「いろいろと言いたいことはあるんだけど、ちょっと」

 

 やっとのことで立ち上がり、リュシエラはアイザックを睨みつけた。

 

「とりあえずあなたは(それ)を食べなさいよ」

「え、いやですよ」

「なんでよ!」

「まあこれも不味くはないんですけど、もっと美味しいものがあるならそっちのほうがいいに決まってるじゃないですか」

 

 あと万が一のときのために取っておくべきでしょう、とアイザックは言うが、そんなときは一生来てほしくない。すでに歩き出している彼のあとを追いながら、リュシエラはなおも不満まじりの疑問をぶつけた。

 

「さっき、やっぱり人がいたって言ったわよね? 最初からそれをあてにしていたというわけ?」

「していたようなしていないような。ほら、こういう森にはだいたい素敵な出会いがあるじゃないですか?」

「ちょっとよくわからないわ」

 

 なんだか疲れてきた。リュシエラは軽く息をついて、歩をゆるめた。するとふいに足を止めたアイザックが、振り向きざまに言う。

 

「わからないなら、きっとそのほうがいいですよ」

 

 銀色の瞳が、木陰のなかで鈍く光った。

 

 冷たい風が吹き抜けた。肌がわずかにピリリと痛む。なぜだか急に、たったの一歩が遠く思えた。

 

「……それ、ほかのひとにも言われたことがあるわ」

「そうですか。なら、わざわざ言う必要もなかったですね」

 

 と口にするその顔が再びまえを向く。ややあって、静かな声が葉擦れの音に混じった。

 

「もう一度、言っておきますけど。おれはきみを利用しようとしています。正確に言うと、きみのその顔を」

 

 それは、とっくに承知していたことだ。だが改めて明言されると胸が波立った。対して、アイザックの声は淡々と続く。

 

「それさえあれば、軍隊を動かせる。あの方を助け出せる。だから、きみ個人の考えとか、理想とか、そういうのはどうだっていいんです」

 

 風が、止まった。

 

「きみが知らないままでいてくれたほうがおれにとって都合のいいことを、わざわざ教えるつもりはありません。ただ、目的を達成するまではどんな手を使ってでもきみを守りますし、達成したらあとは好きにしてくれてかまわない」

 

 ほんのすこしの、()。それから低く響いた言葉に、リュシエラは瞬時、躊躇した。

 

「きみは、本当に、この道を選びますか」

 

 呼吸がひとつ、ふたつ、薄く開いた唇から漏れて散る。みっつめをぎゅっと噛み締めたとき、リュシエラの答えは自然と出ていた。

 

「選ぶわ」

 

 視線の先の亜麻色の髪が、かすかに揺れた。そうしてゆっくりとこちらを見た瞳に、

 

「なら、これからおれがすることに文句はつけないでくださいね」

 

 もう、ほの暗い輝きは見えなかった。