十三、また会うために(2)

 話してみれば、ヴェクセン帝国の兵たちは気のいい連中だった。「ベルナールの婚約者」という立場もあるのだろうが、ぐったりするエヴェルイートを気遣ってくれ、連れのイージアスにも快く着替えや食料を提供してくれた。イージアスの声が出ないことを知ると、その境遇を想像して涙ぐむ者までいたくらいである。正直、装備も十分ではなかったし、王都を出たときに乗っていた馬もとっくに手放していたから、いまとなってはこの状況はありがたかった。


 ただ、どうしても受け入れ難いことがある。
 彼らがこの山脈を越え、ウルズ王国に攻め入ろうとしているという事実である。


「瑠璃姫さまには、つらいことではございましょうが」
 と、セヴランがすべて話してくれた。


 いま、ヴェクセン帝国は皇帝マティアス派とベルナール派に割れている。もともとそんな空気はあったのだが、決定打となったのが奴隷制度の廃止らしい。言い出したのはベルナールだった。そして彼は自分の周りで早くからそれを実行し、成果をあげていた。やがて彼の支持者にもその動きが広まり、他ならぬ奴隷たちの蜂起(ほうき)もあって、皇帝は奴隷解放を宣言せざるを得なくなったのである。


「ただまあ、我らが殿下はあのとおりのお方でございますからな。古臭い老害……失礼、昔気質(むかしかたぎ)の重鎮の方々にはすこぶる評判が悪い」


 つまりは保守派と革新派の対立ということなのだろう。皇帝マティアスに比べると、ベルナールは若干立場が悪いらしい。だから、弱っているウルズ王国に目をつけたのだ。


 一度国外へ出て、そこで力をつけ、いずれ皇帝として祖国へ戻るために。


 もちろん、マティアス帝はそれを阻止しようとした。そういった帝国の事情にアウロラ王女やシリウス王子の思惑も複雑に絡み合い、そしていま、ウルズは滅亡のときを迎えようとしている。


 セヴランの淡々とした語りのなかで、エヴェルイートはカルタレスが陥落したことも、知った。


「皇帝陛下の軍はすでにウルズの内部にまで食い込んでおります。なんでも、カルタレスの隣のサガン領主が、陛下に(くみ)していたとか」


 では、カルタレスは仲間の裏切りにあって()ちたというのか。


 父は。
 ウリシェは。
 みんなは。


「……カルタレス領主や、城の者たちは……生き残った者は、いるのか」
「さあ、そこまでは。ただ城は、彼ら自身の手によって焼かれていたようで」


 泣くに泣けなかった。


 あまりに多くの、強い感情が渦巻いていて、どうすればいいのかわからなかった。


「そういうわけで、我々はここで引き返すわけにはいかんのです。皇帝陛下より先に王都アヴァロンを押さえねば。……おわかりいただけますな」


 そうか。


 どう足掻いても、もう。


 ウルズは、滅びるしかないのだ。


「……わかった。あとひとつ、教えてもらえるか」
「どうぞ」
「竜を、どこへやった?」


 そこでセヴランは一度(まばた)きをして、髭を撫でた。


「なるほど、それを追ってここまで来られましたか。さすが、ベルナール殿下のお認めになった女性(にょしょう)は気概が違う」


 そして片手を上げ、連なる山の向こうを指してみせた。


「お察しのとおり、我が国に集められておりますよ。ただ、あれは我々にも理解のできぬところです。なぜあのようなことができたのか、なにをしようとしているのか」
「……ベルナールは無関係なのだな?」
「はい。誓って」


 それを聞いてほっとしてしまうあたり、自分はどうかしている。エヴェルイートは、強く手を握りしめた。


「それもあって、我々は先を急いでいるのです。たとえば、あの竜の群れを一斉にけしかけるようなことができるとしたら……まあそうなった場合、正直なにができるとも思えませぬが、せめてベルナール殿下の御身(おんみ)はお守りせねば」


 せめて。


 せめて、なにをしたいと思うだろう。もし、そんなことになったら。だれのそばにいたいと、願うだろう。


 最初に見たのは、傍らに座るイージアスだった。それから、ベルナールの顔を思い浮かべ、最後に、強く、あの少女を想った。


 すべてを壊してしまうほどに深くこの身を愛し、求めてくれた、小さな手を。

 せめて、さいごは取るべきではないのだろうか。


 その愛に、応えることはできなくとも。


「瑠璃姫さまは、いかがなさいますか」


 問うセヴランの目を、見返すことができなかった。しばしの沈黙のあと、エヴェルイートは


「……すこし、考えさせてくれ」
 とだけ言った。

 

 

 

 

 

 夜。星を、眺めていた。空が近い。手を伸ばせば届きそうだ。


 見事な星月夜だった。


 吐く息が白い。指先は冷えて痛いほどだ。もうずっとこうしている。さっき、ミミに「寝なさい」と叱られた。でも気分が昼間よりはいくらかよくて、考えることもたくさんあって、眠るのがもったいなかった。


 この体調の悪さは、高山に体が適応していないせいだとミミが教えてくれた。下山すればすぐによくなるということだが、無理をすると死ぬこともあるのだから甘く見るなと釘を刺された。ではなぜ彼女たちは平気なのかと訊けば、普段から慣らしているからなのだという。地形にもずいぶん詳しいようだ。ミミやセヴランの上に立つベルナールも同じように詳しいのかと問うと、


「あの方はご幼少のころ、この山で暮らしておいでだったから」


 と予想外の回答を得た。


 こんなところで。こんな、過酷な環境で。いったいどんな幼少期だったというのだろう。


 幼少期といえば、イージアスももともとは竜とともに生活していたのだから、山か森にいたはずだ。だからだろうか、エヴェルイートのように体調を崩すこともなく、ずっと落ち着いた様子だった。


 遠いむかし、パルカイ民族が暮らしていたという「蒼の谷」は、このアロン山脈のどこかに存在したと語られている。もしかすると、その時代から変わらずにこの場所で生き続けてきたのが、イージアスたち「神話の民」なのかもしれない。だとしたら、ここが彼の故郷ということになる。では、イージアスは戻りたいのだろうか。だからここへ来たのだろうか。それとも、もう諦めているだろうか。


 竜。そうだ、竜だ。セヴランのいうように竜が戦争に使われたら、どうなってしまうのだろう。このまま帝国に行って、思惑をたしかめるべきだろうか。だがたとえそれができたとしても、阻止できるだろうか。


 いや、ここまで来たのだ、イージアスにはなにか当てがあるのではないか? あの竜の行動が『禁術』によるものだと教えてくれたのもイージアスだ。やはりイージアスとともに、竜を追うべきなのかもしれない。


 でも。


 ……でも、そうしたら祖国は。


 その間に、なくなってしまうかもしれない。もう二度と会えなくなるかもしれない。


 もう滅びるのはしかたがないとしても、やはりあのままで、放ってはおけない。


 そもそも、本当に滅びるしかないのか。まだなにかできることがあるのではないか。ここでセヴランたちを足止めするか。違う、そんなことをしても意味がない。それでは結局、皇帝軍にやられてしまう。だったらまだ、ベルナールに王都を取られたほうが……


 ベルナール。


 まだ、知らない。なにも聞いていない。なにも言っていない。


 目を閉じる。


 ベルナール。
 会いたい。会って話がしたい。

 どうすればいい。どうすれば。


 どう、気持ちの整理をつければいい?


 そうして目を開けて、再び星空にすがったときだった。視界に、見慣れた顔が入り込んできた。


「イージアス」


 いつものように、ため息が返ってくる。また、寝ろと言われるのかと思った。でも違った。イージアスは持っていた毛布をエヴェルイートの肩にかけると、そのまま隣に立って一緒に星空を見上げた。


 ずっと、そのまま見ていた。すこしずつ、星が動いているのがわかった。ときが、流れてゆくのがわかった。


 決めなければならなかった。


「イージアス」


 もう一度、その名を呼んだ。こちらを向いた。星明かりの下で、おだやかにほほ笑んでいた。
 その唇が、


「おまえは、戻れ」


 と、たしかに動いた。


 相変わらず声はない。文字で示されたわけでもない。けれどもたしかに、そう言った。


 手を取った。

 その目を見た。


 イージアスは一度エヴェルイートの手を包むように握ってから、ゆっくりと離れていった。離した手を、自分の胸のまえに置く。それからひらひらと、舞うように、手首と指を動かしてなにかの形を作っていった。


 両手が別々に動き、ときに絡み、次々と形を変えてゆく。それを眺めているうちに、同じ形が何度か使われていることに気づいた。いくつかの形を組み合わせて、なにかを表している。


 まるで、文字。


 そう、文字だ。これは、言葉だ。


 これは。これが。


「おまえの故郷の言葉か、イージアス」


 いつか、父から聞いたことを思い出す。
『彼らは言葉を持たず、歌で竜と会話する』


 そうか、そうではなかったのだ。声がなくても、口から出す言葉がなくても、伝え合うことができる手段を、彼らは知っていただけなのだ。


 なんと美しい言葉なのだろう。

 これはまるで、獣や鳥や虫たちの、もの言わぬ声のようではないか。


 なにを言っているのかは、わからなかった。それでも、伝わっていた。伝えようとするイージアスの思いが、伝わっていた。


 流れるように動き続けていた手が、やがて止まった。

 

 そして最後に、はっきりと、ひとつひとつを刻むように、言葉を紡いだ。

 それだけは、わかった。その意味を、受け止めた。


 だからもう、迷うことはなかった。


 エヴェルイートは歩き出し、すれ違いざまイージアスの肩を叩いた。
「ああ、またな」
 と、自分の言葉で別れを告げた。

 

 

 

 

 


 翌朝目を覚ますと、イージアスはもういなかった。ミミが不思議そうに尋ねてきたので、


「竜のことはあいつに任せておけばいい」
 とだけ答えておいた。


 セヴランが改めて、どうしたいかと問いかけてきた。今度はその目を、真正面から見返した。


 もうどうにもならないかもしれない。なにもできないかもしれない、それでも。


「行くぞ、王都へ」


 ただ後悔しない道を、行くだけだった。