八、いまのわたしにできること(2)

 無数の足音が近づく。リュシエラはアイザックと身を寄せ合うような状態で、じっとそれを聞いていた。

 

「簡単に説明すると、小悪党で大物を釣り上げてしまいました」

 

 というアイザックの言葉以外に、現状を説明するものはなにもない。とにかくいまはやり過ごすしかないと言われた直後に馬蹄の轟きが耳に迫り、詳しく聞くことは諦めざるを得なかった。

 

 明らかにものものしい気配と、金属の擦れるような音が馬車を囲む。

 

 しばらくすると男の絶叫がひとつ、あがって途絶えた。御者台からだ。そのあとに続かなかったことを考えると、もうひとりの男は逃げたのだろうか、それとも、すでに死んでいたのだろうか。たしか外にも女性たちがいたはずだが、どうなっただろうか。

 

 まとまらない思考を必死に繋ぎとめ、なんとか前向きな想像をしようとするがうまくいかない。そうしているうちに荷台の覆いがぼんやりと人影を映した。その影の腕が伸び、覆いを掴む。そしてそのまま勢いよく左右に割った。

 

 果たしてそこに現れたのは、武装した男の姿だった。

 

 もちろんひとりではない。その背後にもいくつもの甲冑が見える。ところどころで剣が反射して眩しかった。顔を伏せる。

 

 覆いを開けた男はリュシエラたちを一瞥すると振り返り、よく通る声を発した。

 

「エリアスさま」

 

 その瞬間、アイザックの肩がわずかに跳ねた。リュシエラに触れる手や腕が緊張し、固まってゆくのがわかる。震えすら伝わってくるがそれは同情を誘うようなものではなかった。

 

 銀色の瞳が燃えている。

 

 そうとしか言いようのない苛烈さで、アイザックは男の視線の向こうを睨み据えていたのだ。

 

 歯ぎしりの音がリュシエラの胸をざわつかせる。抑えきれない強い怒りのかたちがわかる。耳で、肌で、全身で、受けとめきれない激情がいまにもあふれ、リュシエラを置いて行ってしまうように思えた。

 

 そんなこちらの状況など、当然ながら相手は考慮してくれない。やけにゆったりとした足音が、確実に近づいてきていた。

 

 その(ぬし)を呼んだ男が姿勢を正す。場所をあける。一瞬、太陽の光が強く射し込み、それを遮るように人が立った。

 

 黒い。

 

 まず受けた印象はそれだ。それほど見事に、その男は黒いものしか身に着けていなかった。黒い絹服、黒い剣、馬車の陰に隠れた爪先に至るまでおそらく、すべて。

 

 体つきはそう(いか)つくもないが隙がない。年のころは三十代半ばといったところか。こちらを見下ろす目もとはともすればぼんやりして見えるのに、威圧感がその場の景色さえ委縮させるようだった。

 

「この女どもは、なんだ」

 

 決して大きくも(はげ)しくもない声が耳朶(じだ)を打つ。リュシエラは知らず寒気を覚えた。

 

「目録には含まれておりません。盗人どもの加えた積荷でございましょう」

「そうか。邪魔だな」

 

 そう言う口以外に動くものはなにもない。リュシエラもまた動けなかった。顔を伏せたまま目だけを上げる。男の双眸と整えられた髪が――リュシエラの目や髪と同じ色をしたそれらが、限られた視界のなかで奇妙に主張していた。

 

「摘まみ出せ」

 

 と男が指示を出した途端である。リュシエラたちは馬車の外に放り出された。文字どおり、放り出されたのだ。まるで価値のないがらくたのように。あるいはもっとひどい、汚物のように。

 

 咄嗟についた手のひらや膝が地面に擦れて痛んだ。血も滲んでいるが、それでもリュシエラはまだいいほうだ。縛られたまま同じ仕打ちを受けた女性たちは、なすすべもなく顔面を打ちつけて見るも無惨な姿になっている。

 

「ちょっと、」

 

 と立ち上がろうとするとアイザックに肩を掴まれた。うつむき気味のその頭が左右に振れる。やはり目つきは険しくて、ただそこから感じられるものは炎ではなく、凍てつくような冷たさに変わっていた。

 

 リュシエラは(つば)を飲み込んだ。無言で差し出された手を取り、今度こそ立ち上がる。

 

 男たちはこちらのことなど意に介さず、次々と積荷を降ろして中身をたしかめはじめた。その手つきは、先ほどとは比べものにならないほど丁寧だ。

 

「エリアスさま」

「ああ、間違いない。まったく、余計な手間をかけさせてくれる」

 

 エリアスと呼ばれた黒づくめの男が、なんの感情も見えぬ声で言い捨てる。

 

「これだから下賤の者は好かぬ」

 

 御者台から流れてきた血が、リュシエラの足もとまで迫っていた。

 

「馬車はそのまま使えそうか」

「問題ございません。ただ、馬が動きますかどうか」

「馬など取り換えればよい。どのみちたいした馬ではなかろう」

 

 エリアスは乱れなどない襟もとを何度も撫でた。

 

「女どもはどういたしますか」

 

 ついでのようにつけ足して、男たちがこちらを見やる。リュシエラは身構えずにはいられなかった。汗が噴き出て、心臓は早鐘を打つ。だがエリアスの返答は、ひどく素っ気ないものだった。

 

「放っておけ」

 

 ゆっくりと歩き出す。

 

「いずれ死ぬ」

 

 まったく無関心といった様子で、目のまえを通過してゆく。アイザックはそれを見ようともせずにじっと直立していた。その袖を、そっと掴む。エリアスが完全に行き過ぎてから、リュシエラはひそかに息をついた。

 

 が、しかし。

 

「いや、待て」

 

 黒い長靴(ちょうか)が、なんの音も立てずに止まった。