十、失えないもの(1)

 だれか、と。
 呼んだ声が、届いたのだろうか。


 突然目のまえに現れた青年を見上げ、「瑠璃姫」は惚けたように膝をついた。
 夢かもしれない。都合のよいまぼろしかもしれない。だって、こんなことがあるだろうか。近くの木が派手に揺れたと思ったら、そこから人が飛び降りてくるなんて。それも。


「イージアス……?」


 そうして再会したのが、他でもない、彼だなんて。


 思い出す。はじめてその名を呼んだときのことを。
 思い出す。はじめてこの名を呼ばれたときのことを。


 ともに過ごした日々を。ぶつかり合った日々を。喜びを、悲しみを。


『ごめんな』
 思い出す。


『その名前、あまり好きじゃないんだ』


 そう言われたときの、どうしようもない痛みを。それでも呼ばずにはいられなかった、呼ぶことを受け入れてくれた、その、名を。


「イージアス……っ」


 夢かもしれない。わかってもらえないかもしれない。「エヴェルイート」の記憶を抱えながら、自分がなんなのかもわからずに、怯え、救いを求める、このあやふやな「瑠璃姫」という存在は、彼を困惑させるだけかもしれない。でも。


 でも。


 どちらからともなく手を伸ばした。互いにその手をしっかりと掴んだ。そしてそのまま、走り出した。


 かすかに、悲痛な声が聞こえた。瑠璃姫を、いや、エヴェルイートを呼ぶのは、きっと王后だろう。イージアスが強く手を引いた。振り返らずに走った。


 まえを走る背中は、ずいぶんと痩せたように見える。無造作に伸びた髪が(たてがみ)のように靡き、見覚えのない髭が口周りを覆っていた。両手首には拘束の痕もある。彼の過ごした一年半を、それらが物語るようだった。なぜそうなって、なぜ互いにここにいて、なぜこうしてともに走っているかなんて、そんなことはもうどうでもよかった。


 夢ではない。ここにいる。繋いだ手が熱かった。


「いたぞ!」


 後方から、硬い声が上がった。いつの間にか、「王妃の庭」を抜けて堂々と王宮内を駆け回っていたらしい。こちらを指差すのは衛兵だ。断片的に「逃亡者」だの「女人(にょにん)が人質に」だのと聞こえてくることから考えても、彼らが追っているのはほぼ間違いなくイージアスだろう。当のイージアスはとくに気にする様子もなく、彼らのまえを走り続けた。だが、瑠璃姫にはその速度がつらい。息が上がり、足が縺れる。


 そこに、前方からも人影が現れた。数は多くないが剣を携えている。それらが鞘から解放されてもなお、イージアスは止まらなかった。白刃が閃く。顔面に受ける寸前、イージアスは瑠璃姫を抱き込むようにして敵に背を向けた。ぐっと上半身を屈めて攻撃を躱し、反動でうしろ向きに蹴り上げる。鈍い音がした。勢いを止めずにまえに向きなおると、敵が手放した剣を空中で受け止めそのまま、一閃。腕が二本、足もとに転がった。


 まるで嵐だった。瑠璃姫はその片腕に抱かれて、紅い風を受けていた。生ぬるい液体が頬に飛ぶ。それが肌を伝うまえに、瑠璃姫を肩に担いだイージアスは再び駆け出していた。


 走る。すれ違う女官たちが悲鳴を上げる。雄叫びとともに男たちが飛び出してくる。()け、あるいは斬り伏せて、走った。


 イージアスは声を上げなかった。上げられないのかもしれない。そうだ、彼はあのとき声を失ったのだ。だがいまはそれも必要ないように思われた。肉体そのものが、彼の咆哮だった。


 一歩踏み出すごとに風が鳴る。剣が唸る。この痛めつけられた体の、いったいどこにそんな力があるというのだろう。これが生命力というものならば、人は存外、(したた)かであるらしい。しかし、それにも限界がある。


 瑠璃姫は、イージアスの動きがわずかに鈍ってきているのを感じた。息も荒い。
 ここで終わるのかと、なんとなく思った。その瞬間。


 イージアスに、放り出された。


「え……」
 瑠璃姫を置いて、ひとりで走ってゆく。


「待って」
 その背中がどんどん遠くなる。代わりに、うしろからは無数の足音が近づいていた。


「行かないで」
 どんなに手を伸ばしても、もう絶対に届かない。


「やだ」
 ここで終わりなら、それでも構わない。でも。


「置いていかないで……!」
 ひとりは、いやだ。


 目を閉じた。
 風が動いた。
 名を、呼ばれた気がした。


 目を開ければ、こちらへ向かって疾駆する馬と、半ばそれにぶら下がるように跨って腕を伸ばすイージアスが見えた。一瞬だった。その力強い腕に掬い上げられて、ふたり、馬上で顔を見合わせた。


 ニッと笑うイージアスに対して、瑠璃姫はなにも言えなかった。ただ、涙があふれた。イージアスはわずかに驚いたような顔をして、それから面倒臭そうにため息をついた。腰を支える腕が、不器用にやさしかった。


 全速力の馬蹄の轟きは、士気を鼓舞する軍楽の響きにも似ている。ただひとりの勇猛な騎士は、いま、瑠璃姫をしっかりとその胸に抱えて城門を突破しようとしていた。ちょうど出入りがあったのだろうか、幸いにも門扉は開いている。だがまだ遠い。こちらに気づいた門衛が、矢を射かけてきた。剣で弾き返し、イージアスは前進する。


 その凄まじい勢いを、止められる者はいなかった。矢が降るなか、臆することなく剣を槍のように構え、投げる。それが突き刺さって倒れてゆく門衛には目もくれず、イージアスは閉ざされる直前の門扉の隙間を駆け抜けた。


 上がりかけた跳ね橋。その先に甲冑の群れ。一気に跳び越え、走り続ける。巨大な水堀に架かるこの石橋を渡りきれば、そこはもう王宮の外だ。その終着点にもうひとつ、城壁と門。開いている。突進する。落とし格子の先端が見えた。その下を、風になって抜けた。


 直後、すぐうしろで重い音がした。


 途端に、すべてが遠ざかったように思えた。


 実感した。逃げたのだ、と。


 傾きかけた陽を受けて輝く王宮の姿が、見る間にぼやけて溶けてゆく。静かだった。耳が拾うのは、止まらない馬蹄の響きと、忘れかけていたふたりぶんの息づかいだけだ。


 そのまま駆けて、陽が落ちるまえに王都を出た。


 いまはただ、その事実だけを感じていた。