七、ドレスと男気(4)

 春の一座。

 

 その名はよく知っている。春になるとどこからともなく現れ、国の風紀を著しく乱して去ってゆく厄介者。少しまえに、従兄のスハイルが取り逃がしたと笑っていた、あの旅芸人の一座である。


「どうせ一度きりのおつき合いでしょうけど、一応名乗っておくわ。わたしのことは、山瑠璃(やまるり)と呼んで頂戴」


 と耳飾りを揺らしながら、黒髪の女が言う。明るいところで見ればきっと鮮やかな瑠璃色なのだろう美しい瞳が、やわらかく細められた。なるほど、覚えやすい呼び名だ。


「でもまだしばらくはそこの妓館(ぎかん)にいるから、遊びにきてくれてもいいのよ?」


 山瑠璃が指差した先を見る。エヴェルイートが出てきた井戸は鬱蒼とした林のなかにあるが、すこし歩けば建物が並んでいるらしい。夜に華やぐそれらは、おそらくすべて妓館だろう。エヴェルイートの知らない世界だ。


「……旅芸人ではないのか?」
「春の一座は気まぐれなの」


 山瑠璃は(あで)やかに笑った。答えになっていない。だが、それよりも。


 どうやらベルナールは、この一座と繋がりがあるらしい。つくづく、得体の知れない男だ。それに、この女たちも不思議である。山瑠璃と亜人のふたりは、対等に見える。エヴェルイートの常識ではあり得ないことだ。


「世界は広いのよ、お嬢さん」


 まるで見透かしたかのように、山瑠璃がまた笑った。


「さ、それじゃ行きましょうか」
「行くって、どこへ」
「あら、王都に行きたいんじゃないの?」


 こともなげに言うので、驚いた。


「行けるのか!?」
「そのために来たんでしょう?」


 山瑠璃は小首を傾げる。動作がいちいち(つや)っぽい。ついてきて、と言う彼女に従って、林のさらに奥のほうへ向かった。


 しばらく行くと、また亜人がいた。三人。今度はみな屈強な男で、立派な翼と鳥の鉤爪を持っている。その男たちの足元に、人がひとり座れるくらいの大きな籠が置いてあった。籠のふちから、頑丈そうな縄が何本か伸びている。


「はい、乗って」
「山瑠璃……まさかとは思うが」


 いやな予感しかしない。


「見つかったら困るんでしょう? 彼らは優秀よ。だれにも邪魔されずに、夜明けまえには王都に着くわ。ちょっと寒いだろうけど」
「ええと……つまり?」
「飛んでいくの」


 やっぱりか。前代未聞だ。


「……怖いの?」
「そんなわけがあるか」


 完全に強がりである。エヴェルイートはばさりと長い裾を翻して、籠に飛び乗った。


「あらまあ、男らしいのね」


 山瑠璃はそう言いながらエヴェルイートに近づくと、自分の耳からベルナールの耳飾りを外し、


「これはあなたからお返しして。今度はちゃんと、両方わたしにくださいな、と伝えて頂戴」


 エヴェルイートの空いているほうの耳にそれを装着した。両耳で、小さな紅玉(ルビー)の雫が揺れる。


「それじゃ。頑張ってね、お嬢さん」


 その言葉を合図に、鳥の男たちが籠に繋がる縄を手に取った。その動作があまりにも迅速で、覚悟を決める暇すらなかった。ぐん、と持ち上げられる感覚。それなのに、体は「落ちるぞ」と訴えてくる。腹のあたりがぞわりとするようなその感じが、浮遊感と呼ばれるものであることをエヴェルイートは知らない。


 風を、感じた。いや、風になっていた。なにも遮るものがない夜空を、エヴェルイートは飛んでいた。


 すこし身を乗り出して、下を見る。妓館の屋根がもうあんなに遠い。すでに手が届くところにはなにもないが、それでもまだ足りないというように、亜人たちはどんどん上昇してゆく。

 

 首を巡らせた。カルタレス城が見えた。実際には、城壁に沿って()かれた無数の火が見えただけだが、エヴェルイートにはその姿がはっきり見えていた。見る間に遠く、離れてゆく。ああ、もう、見えなくなる。無性に寂しくなって、目を伏せた。


 そのまま数時間、飛んだ。亜人たちは一言も発さない。エヴェルイートも寒さに歯が鳴って、喋るどころではなかった。星の海のなか、ただ風だけを聞いていた。


 たぶん、そのうちにうとうとしていたのだろう。ふと母の声が聞こえたような気がして、目を開けた。ほんのわずか、白みはじめた空の下、麗しの王都アヴァロンが深い眠りから覚めようとしていた。


 そこで、ふいに籠は止まった。なにが起こったのだろうと頭上を見ると、亜人たちは器用にその場で羽ばたいて高度を維持していた。すると三人のうちのひとりが縄を手放して、エヴェルイートのまえまで降りてきた。両腕を差し出している。相変わらず言葉はないが、これは、つまり籠から出ろということだろうか。


 試しにこちらも腕を差し出してみた。亜人はその腕を取り、エヴェルイートの腰を抱いた。どうやら、解釈は間違っていなかったらしい。そのまま抱き上げられたので、エヴェルイートは素直に亜人にしがみついた。足の間を、じかに風が通り過ぎる。


 亜人が、頷いた。わけもわからず、頷き返す。ぎゅっと、強く抱きしめられた。


 とんでもなく、いやな予感がした。


「え、ちょっと、待っ――」
 言い終わらぬうちに、


「嘘だろ!?」
 亜人は急降下をはじめた。


 目を開けていられたのは最初の一瞬だけで、あとはずっと固く瞑っていた。信じられない速度で落ちてゆく。もはや呻き声すらあげられない。


 永遠にも感じられたその時間は、ふいに終わりを告げた。ひときわ強い浮遊感のあと、ガサガサと派手な音が耳もとで鳴る。あちこちをなにかにぶつけて、最後にドスンと尻餅をついた。


「――ったー……」


 あいつ、放り投げやがった。と、エヴェルイートは悪態をつきながらもわりと冷静に状況を把握していた。見上げると、もう亜人は遥か彼方(かなた)に去っている。クッションになるような葉の多い木の上に落としてくれたのは、彼なりの気遣いだったのだと思ってやることにしよう。とりあえず、お陰様で大きな怪我はなさそうだ。といっても、もともと手負いではあるのだが。


 で、ここはいったいどこなのかと、顔を正面に向けたときだった。


 紫色の瞳と、目が合った。


 その、目つき。よく知っている。だって、ずっと一緒にいたのだ。主従として。友として。兄弟として。


 あの、月のない夜まで、ずっと。


「イージアス!」


 彼が好きではないと言った、その名を呼んだ。いまはただ、その名がどうしようもなく懐かしかった。


 驚愕に見開かれていたイージアスの瞳が、揺れて、細められ、閉じられて、また開いた。エヴェルイート、と。声にならない声が、呼んでいた。


 エヴェルイートは応えようとした。駆け出そうとした。だがそれは、イージアスのうしろから姿を現した意外な存在によって阻まれた。


「……おにいさま? おにいさまなの?」


 ちいさな少女が、おずおずと歩み出る。その少女もまた、エヴェルイートのよく知るひとだった。


「……アウロラ殿下?」


 五年ぶりに見るエヴェルイートの事実上の許嫁(いいなずけ)が、イージアスに寄り添うように立っていた。