二、家族の肖像(1)

 五月三十一日、第三王子アレクシスが帰還した翌日のことである、第二王子ダリウスが逝去した。同日、その母である第二妃メリダもあとを追うように亡くなり、ふたりの葬儀は翌六月一日の午後に王宮内の霊廟でまとめて行われた。

 

 むろん、アウロラも参列した。シリウス、アレクシス、彼らの母である第三妃ゾフィア、そしてアウロラの母である正妃ウイルエーリアの姿もあった。

 

 母の顔を、アウロラはひさしぶりに見た。アウロラを産んでからずっと、王宮の最奥に位置する後宮のさらに奥、「王妃の庭」と呼ばれる離宮に篭っている彼女は、公務にさえ滅多に顔を出さない。いまは国王が動ける状態ではないため、出て来ざるを得なかったのだろう。

 

 ぽきりと折れてしまいそうな雰囲気と可憐な美貌は、記憶と変わらなかった。それはどこか少女めいて見えるほどだが、実際、母は若い。父と結婚したのが、わずか五歳のとき。アウロラを産んだのは十六歳のときで、現在二十六歳である。夫である国王との年の差が二十三、国王の長子シリウスとの差が四、王后ではなく王女といわれたほうがしっくりくる年齢であった。ちなみに、五歳の花嫁というのはこの時代においても決して一般的ではない。

 

 アウロラはいずれ国王となる身だがまだ立太子していないため、この場で最も位が高いのは王后ウイルエーリアということになる。彼女の取り仕切る(実際に働いていたのは重臣たちであったが)葬儀は滞りなく済み、陽が沈みかけたころには各々持ち場へ戻っていった。アウロラはすかさず、母のもとへ走る。

 

「お母さま!」

 呼びかける。胸が弾んでいた。

 

 母が振り返り、虚ろな目でアウロラを見た。

 

「おひさしぶりです、お母さま。お会いできて嬉しいです」

「アウロラ……大きくなったこと」

 

 そよ風のような、母の声が答える。だがそれ以上は続かなかった。

 

「戻ります」

 

 すぐに母は、女官たちを伴ってアウロラに背を向けた。そのまま霊廟を出てゆく。

 

 アウロラは、黙って見送った。いままでに母と言葉を交わした回数を数えようとして、やめた。すこし間を置いて、アウロラも霊廟を出た。

 

 生ぬるい風が吹いて、髪を頬に張りつかせるのが不快だった。アウロラ付きの女官たちが、音も立てずについてくる。まるで葬列だと、アウロラは思った。

 

 空を見た。夕陽に赤く染まった雲が淀んでいた。

 

 あまりゆっくりはできなかった。陽が沈めば、ヴェクセン帝国の使節団、つまりはベルナールを交えた「会食」が始まる。王子やその母親の死よりも、そちらのほうがいまのこの国にとっては重要なのだ。だから、アウロラも母のことをいちいち気にしている暇などない。そう、どうせいつものことなのだから。

 

 足早に、自室を目指した。会食のまえに着替える必要がある。場面に相応しい衣裳を身につけるのも、王女の大事な仕事である。

 

 アヴァロン王宮内にそれぞれ独立した建物として併存する王家の霊廟と住居の間には、そう長い距離はない。「蒼き義人」初代国王アイランを含む歴代国王やその妃、子らの眠る霊廟は、王家の者にとって身近なものだった。

 

 この時代、ドラグニア小大陸の大半の国において、墓という概念はない。故人の遺体は火葬後、無造作に捨てられるだけである。ただ、不浄の肉体からの解放を祝福し、またその魂が再び肉体を持ってしまわぬよう――つまり「転生してしまわぬ」よう祈るために、霊廟を建てた。神の慈悲の炎によって肉体から離れた魂は、そうした祈りを受け、長いときを経て聖霊となる。祈りが途絶えれば魂はまた肉体に堕ち、どんどん罪を重ねることになってしまう。だから、国家の(いしずえ)ともいえる先祖の魂に祈りを捧げるのがウルズ王家の者の日課であり、そのために居住スペースのすぐそばに霊廟を配置したのである。

 

 そういう距離感であったから、アウロラのまだ幼い足でも、目的の場所にはすぐに到着するはずであった。ところが、この日は違った。

 

 斜殿(王の配偶者やその子どもたち、父母兄弟などの住まい)のほうがやけに騒がしいことに、アウロラは気づいた。

 

 叫び声。悲鳴に近い。うしろをついてきていた女官たちが「様子を見てまいります」と言って目配せし合ったが、アウロラはそれより早く駆け出していた。

 

 聞こえたからだ。「陛下」と呼びかける声が。

 

 陛下。そう呼ばれる人はふたりしかいない。先ほど別れたばかりの母、ウイルエーリア王后はそのうちのひとりだが、彼女が向かったのは反対方向である。とすれば、この先にいるのは。

 

「……お父さま!」

 

 国王イシュメル。もうすっかり寝てばかりの状態であるはずの、父。その父が、()けた頬を血で濡らして、夢見るように立っていた。その手に握られた剣が指し示す先に、だれか倒れている。切っ先から、赤い雫が垂れた。

 

 倒れていた人は、すぐに起き上がった。出血する左腕を押さえながら苦悶の表情を浮かべる整った横顔は、間違いなく長兄シリウスのものだった。

 

「シリウスお兄さま、」

「来るな!」

 

 駆け寄ろうとしたアウロラを、シリウスの鋭い声が制す。兄の顔は、まっすぐ父に向けられていた。

 

 さすがのアウロラも、動揺した。こんなことは計画にない。なぜこうなったのかもわからない。なによりまずいのは、兄の負った傷と、父の全身に付着する血の量が釣り合わないことだ。たぶん、兄以外にも父に斬られた者がいる。だれだ。だれが斬られた。

 

 アウロラは視線を巡らせて見知った武官の姿を捉えると、そっと近づき尋ねた。

「なにがあったの? 陛下の寝室付きの者たちは、どうしたの?」

 

 不安でたまらないというふうに見上げれば、武官は困ったように目を伏せた。

「申し訳ありません、殿下。我々もまだ事態を把握しきれていないのです。寝室付きの者たちは……みな倒れていたと聞いております」

 

 なるほど、では父は、監視役でもある彼らを斬って寝室を抜け出したということか。よもや父にそのような力が残っているとは思わなかった。迂闊(うかつ)だったかもしれない。

 

「そう……ほかに怪我をした人は、いない?」

 

 例えば、あの金髪の男とか。そう口にはしなかったが、アウロラはそればかりを考えていた。王宮のつくりを考えれば、父王がここまでの道程でヴェクセン帝国使節団や大公ベルナールを傷つけたとは考えにくい。だが、どうしても気がかりだった。いま、もっともこの事態に巻き込まれてはならないのは、彼らだ。

 

 武官はそれもまだ確認できていないと答え、だがきっと大丈夫だとほほ笑んだ。そんな子ども騙しがアウロラには通じないことを、ほとんどの者は知らない。アウロラはいつものように騙されたふりをしながら、父を観察した。

 

 父は見るからに正気を失っていた。いや、それはもはや日常だったが、それにしてもおかしい。ぶつぶつとなにかを呟きながら、焦点の定まらない目で、だが手にした剣はしっかりと兄シリウスを捉えている。その切っ先から、またひとつ、赤い雫。

 

「……陛下」

 兄が、父に呼びかけた。反応はない。

 

「陛下」

 もう一度、そう父を呼んで、兄は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 いけない。直感したアウロラは、立ち尽くす大人たちを掻き分けて飛び出した。

 

 父が奇声を上げる。剣が振り上げられる。夕陽を反射して、赤く光った。その、正面に。アウロラは両手を広げ、立った。

 

 血走った目を見据えた。そして父だけに聞こえるように、

 

お兄さま(・・・・)

 

 と囁いた。

 

 直後、父は動きを止め、剣を捨てた。それからアウロラに縋りつき、幼子(おさなご)のように大声を上げて泣いた。

 

 アウロラは、赤黒く染まったじっとりと冷たい寝間着や、涙とともに擦りつけられる目脂(めやに)や鼻水ごと、父王を抱きとめた。背後、長兄シリウスが意識を失ったのが、音でわかった。