十、ここからはじまる物語(3)

「なるほどね、だいたいわかったわ」

「本当か。リュシエラ嬢は頭がいいな」

 

 おれだったらたぶんわからんが、とスハイルが頭を掻く。砕けた口調になっているのはリュシエラがそれを望んだからだ。つまり、対等な人間同士としての対話を。

 

 リュシエラはいま、スハイル、アイザックのふたりと三角形を描くように座り、互いの事情や情報を粗方(あらかた)交換し終えたところである。

 

 といってもスハイルが先に述べたとおり、リュシエラのことはほとんどすべてがすでに把握されていた。春の一座といったか、まったくおそろしいものだ。おかげでごく最近のことや、リュシエラ自身の考えを述べるだけでこちらの話は済んでしまった。

 

「つまり、あなたたちはいま居場所がないのよね」

 

 自然、話題はスハイル側のことに(かたよ)る。

 

「そうだ。そんな我らの救世主となり得るのが」

「わたし」

 

 言葉を継げばスハイルは大きく頷いた。

 

 彼らの境遇を簡単にまとめるとこうだ。

 

 カルタレスを襲ったヴェクセン皇帝の軍からなんとか逃げ延びたごく一部の人々は、スハイルの縁者が治めるここルーシャーに身を寄せた。しかしそこまでの経緯に問題がありすぎて大っぴらには受け入れられず、ひとまず領内の目立たぬ森のなかでひっそりと生活することになった。この集落はいわば、難民キャンプである。女子(おんなこ)どもばかりなのは大半の男たちがカルタレスに残って戦ったためで、生き延びた者も大抵出稼ぎに行っているから余計にそう感じるのだという。

 

「いつまでもこうしているわけにもいかぬし、奸計にはまったとはいえいまやお尋ね者だ、下手に動くこともできない。だが内親王殿下を擁するとなればルーシャー領主の目も変わろう」

 

 身内であるルーシャー領主も、事情が入り組んでいるうえ国全体が混乱している現状では、スハイルたちとの関わり方を考えあぐねているらしい。ゆえに「アウロラ」が彼らの命運を分ける鍵となり得るわけだが、そこに絡んでくるのが、アイザックが助けたいと言ったユライというひとなのだという。

 

「ユライはサガン領主ペテル卿の長男で、ペテル卿もまだ引退されるような年齢(とし)でもないのだが――いまのあそこの実質的な統治者は女婿(むこ)どのだ」

 

 そう言われて思い浮かぶ顔があった。もしかしたら、と振り向いた先でアイザックが頷く。

 

「そうです、昨日会ったエリアス卿。あのひとはユライさまの姉君の夫で、要するに義理の兄弟なんですよ」

 

 吐き捨てるように言った。

 

「姉君はとうに亡くなられたがな……綺麗なひとだった」

 

 スハイルが懐かしむように目を伏せる。リュシエラは首をひねった。

 

「なんだか、ユライというひとの立場がないみたい」

 

 それは軽く小さな呟きだった。ところがやけに響いて、消えるときには重い沈黙を落とした。アイザックが拳を握ったのが見えた。

 

「まあだから、ユライとエリアスどのの間に溝があるというのはなんとなくわかるだろう?」

 

 気まずい沈黙を破ったのはスハイルである。わざとらしいほど明るい声に、リュシエラは首肯で答えた。スハイルが続ける。

 

「我々を陥れたのはエリアスどのだ。それについてはおれにも非があるのだが、そうと知りながら助けてくれたのがユライだった。だがそのせいであいつの立場はますます悪くなり、いまでは囚われの身に等しい」

 

 これでアイザックの思惑がわかった。リュシエラの顔を使ってルーシャー領主を味方につけ、その武力をエリアスにぶつけるつもりなのだろう。エリアスはヴェクセン皇帝と繋がっているらしいから大義名分も立つし、「アウロラ」がいるとなればなおさらだ。

 

「ユライというひとは、あなたたちの潔白を証明してくれる存在でもあるというわけね。でもそういうことなら、場合によっては殺されてしまうなんてことも」

「それは」

 

 アイザックが言葉を遮る。

 

「ありえません。絶対に」

 

 静かな、だが揺るぎのない声だった。

 

「同感だ。エリアスどのの性格を考えればそうはならないと思う。もちろん、こちらとしてもそんなことをさせるつもりはないが」

 

 スハイルが力強く言い、腕を組んだ。

 

「なんにせよ、早く動くに越したことはない。カルタレスの民もあちらに囚われているのでな。このままにはしておけん」

 

 紫色の瞳と銀色の瞳が同じ方向を向く。あくまでも個人のためだけに手を尽くすアイザックと、人の上に立つ者として全体のことも考えなければならないスハイルの間には、それでもしっかり通じるものがあるようだ。

 

 そして双方の求めるものが、ここに。

 

 リュシエラは一度大きく息を吸って、細くゆっくりと吐き出した。最初から軽く考えていたわけではないが、蓋を開けてみれば思った以上に重い。

 

 数えきれないほどの命が、いま、この肩の上にあった。

 

「ひとつ、質問なのだけれど。わたしがアウロラに成り代わったとしても、あの子が死んだという事実は変わらないでしょう。同じ顔が現れたからといって、そう簡単に受け入れられるものかしら」

 

 考えながら発した言葉に、同じような調子でスハイルが答えた。

 

「それについてはいくらでも誤魔化せる。あまり気は進まぬがな……」

 

 曰く、アウロラは死の直前までのふた月ほどを幽閉された状態で過ごしており、その間、王宮外部との接触はなかったらしい。そもそも未だウルズ諸侯は、王都で起きたことや現状を把握しきれていないという。

 

 なるほどたしかに、いくらでも誤魔化しは利きそうだった。

 

「それに、ルーシャーとサガンは隣り合っていて、昔からかなり仲が悪い。あちらにヴェクセン皇帝がついているいま、事の真偽は二の次にして我らが王女を迎えるだろう」

 

 スハイルが屈託なく言う。だが、そのときリュシエラの胸には冷たいものが降りた。

 

 では、リュシエラでなくてもいいのか。

 

 それならこの顔だっていらないのではないか。

 ひどい怪我を負ったことにして、潰してしまえば、だれだっていいのではないか。

 

 「王女」が必要なだけならば。

 

『リュシエラ』

 耳の奥で声が響く。

 

『わたしを覚えていて』

 ひどくかなしく、響く。

 

「ただひとつ気になるのは、聖都におわすという〈アウロラ殿下〉のことだ」

 

 その声を打ち消すようなスハイルの発言に、リュシエラは目を見開いた。

 

「……聖都に?」

「ああ、もうひと月以上まえのことになるか。聖都から正式に発表があったのだ。もしそれが本物のアウロラ殿下なら――」

「ちがう」

 

 口を突いて出たのは、強い衝動だった。

 

「ちがうわ。アウロラじゃない」

 

 根拠もなく。理屈もなく。

 

「アウロラは死んだのよ」

 

 ただ、突き動かされるままに声をあげた。

 

 スハイルが驚いたようにこちらを見ていた。薄く開いた口がそのまま固まっている。それを一度閉じてから、彼はゆっくりと開きなおした。

 

「リュシエラ嬢が言うのなら、そうなのだろう」

 

 おだやかな表情だった。

 

「話を進めるのが性急すぎたな。疲れているだろうに、すまなかった。いまは考えもまとまらないだろう、よく休んでくれ」

 

 この先どうするか決めるのはそれからでいい、と言われて、リュシエラは知らず息をついた。肩や首からほんのすこしだけ力が抜け、顔がいくらか下を向く。すると視界の先に、雫がひとつ、落ちた。

 

 追いかけて手を伸ばす。その指の先に、またひとつ。

 

 どこから来るのかと、今度は手のひらを持ち上げた。たどり着いたのは頬だった。

 

 それでようやく、自身が泣いていたことに気づいた。