七、春の一座(1)

 ところ変わって、とある山中のことである。

 

「先生!」

 

 と呼ばれて、少年は振り返った。褐色の肌に、銀色の髪。瞳は左右で違う色に輝いている。かつて「リュシエラの奴隷」であった、少年である。

 

「なに。いま忙しいんだけど」

「どうせまた(あり)の巣、突っついてるだけでしょ。いいからちょっと来てよ」

 

 少年を呼んだ女は、長い銀髪から突き出た二本の角を少年に向けて迫った。それを躱しながら、少年は抗議の声を上げる。

 

「危ないなあ。刺さったらどうすんの」

「あたしの角はうしろ向いてるから刺さりませんー」

「刺さりますー。刺されたことありますー」

「え、そうだっけ?」

花梨(カリン)はすぐ忘れる。ばーか」

「あんた、張っ倒すよ?」

 

 言いながら、少年が花梨と呼んだ亜人の女は、まだ成長途中の柔らかい手を引いた。その意図を察した少年は、当たり前のように花梨の背によじ登る。花梨の下半身は山羊(やぎ)そのものだ。腰まではほぼ人の姿で、腰の先から四つ足の獣の姿になる。少年が跨ったのは、その獣の部分である。

 

「崖、登るからね」

「了解」

 

 答えると、少年は身につけた衣服の帯を解き、自身と花梨の上半身を縛りつけた。花梨がくねくねと動きながら声を上げる。

 

「いやん、もっとやさしくしてぇ」

「そういうの似合わないからやめたほうがいいよ」

「うっさいな。山瑠璃姐(やまるりねえ)さんに憧れてんの」

「花梨はそのままがいちばんだよ」

「やだ、ありがと」

 

 そんな軽口の応酬の間に手早く準備を済ませた少年は、花梨にぎゅっとしがみついた。それが、合図だ。

 

 ぐん、と景色が動いた。(ひづめ)の音が、葉を散らす木々にこだまする。通り過ぎてゆく冷えた風。やがて正面に立ち塞がった崖を、花梨は一気に駆け登った。少年は舌を噛まないように歯を食い縛る。が、最後の最後でしくじった。

 

「痛い……」

「なに、また舌噛んだの? ほんと鈍くさいね」

「こんなとこ登って平気なほうがおかしい……」

 

 言葉尻が萎んで消えていったのは、足もとを見て思わず唾を飲んだからだ。崖の(いただき)は辛うじて人がひとり立っていられるくらいの面積しかなく、鋭く尖っている。足を撫でる風に身震いした。こうして何度も花梨とともに崖を登ってきたが、慣れる気がしない。

 

「お子ちゃま」

 花梨が笑った。

 

「うるさい。怖いもんは怖い。正常な生存本能」

「おっ、開きなおったな?」

 

 なおも笑う花梨を軽く睨みつけてから、深呼吸して、視線を上げた。瞬間。

 

 広がる。どこまでも。遮るもののない視界。

 

 もうすぐ冬の眠りに入るであろう、山の彩り。その準備で動き回る動物たちの姿と、小鳥の囀りが忙しない。高い空に魚の群れのような雲が泳ぎ、渓谷にはやわらかな光と影が落ちる。だがいま見るべきは、そんな自然の営みではなかった。

 

 山の向こう、白い迷路のように見えるのは、人が作った街並みだ。港湾都市カルタレス。かつて少年が生活していたその街から、黒煙が上がっていた。

 

 ひとつ、ふたつ、みっつ……ここから見える範囲で、少なくとも三箇所。

 

「どう思う?」

 花梨が軽い調子で訊く。

 

「なんかめんどくさいことになってる」

 と、同じように少年。

 

「だよね。〈(つばめ)の巣〉は大丈夫かな?」

「行けばわかるよ」

「だね」

 

 言うが早いか、花梨は崖を跳ぶように駆け下りた。おかげでまた舌を噛み、少年は身悶える。

 

「ねえ、花梨……ほんと馬鹿でしょ」

「うん。いまのは悪かった。ごめん」

 

 さして悪びれる様子もなく、花梨は答えた。

 

 少年が「春の一座」に(半ば強引に)迎えられてから、一年半。そのほとんどを、この花梨(カリン)と組んで行動してきた。少年は肉体労働に向いていない。だから、身体能力の高い花梨とともに仕事をするのだ。

 

 春の一座は、「真の自由」を掲げる気ままな芸能集団である。そして、情報の収集、その提供や撹乱、果ては人攫いや暗殺の手助けまで請け負う、知る人ぞ知る便利屋集団である。

 

 と、いっても実のところ、少年はその実態を把握してはいない。あまりに規模が大きい上に、なんとも風変りで掴みにくい連中なのだ。

 

 聞くところによると、どうやら最初は本当にただの芸人の集まりだったらしい。その発祥はヴェクセン帝国の片隅で、徐々に移動しながら仲間を増やし、ついには近年ウルズ王国にまで進出してきたのだという。その性質から「旅芸人」と呼ばれるが、実際には気に入った土地が見つかれば定住する者も多いし、逆に移動先の定住者が旅に加わったり、それまでの生活を維持したまま一座の思想や行いを受け入れることで「一座の一員」となったりすることもある。

 

 来る者は拒まず、去る者は追わず、どこのだれにも服さずに、己にとっての「真の自由」のために、生きる。「春の一座」とは呼称されるがそれはもはや概念のようなもので、価値観を共有する、一種の民族ともいえるかもしれない。

 

 さて、ただの芸能集団がそういう特殊で大きなものに育った原因は、概ねひとりの男にあった。その男が後援者(パトロン)になったときから、彼らの性質は大きく変わったのだ。

 

 その強力な後援者の名を、ベルナール・アングラードという。

 

 要するに、こういうことだ。ベルナールが春の一座をウルズ王国に送り込んだ。その結果が、現状なのである。

 

 彼は一座を通して第一王女アウロラ=ディオーリエスタスと接触し、この国を裏からも表からも動かそうとしている。というより、現に動かしている。どこのだれにも服さないと(うた)う春の一座が彼に協力し、彼の援助を受ける理由は、いまいちはっきりしない。ただ、そうすることで最終的に理想を実現できると信じているらしい。「真の自由」を掲げてはいるものの、それはまだ遠いところにあるようだ。

 

 とはいえその一方で、アウロラ王女やサイード=オルラン=ジェ=ブロウトなどとも関わりを持ち、最近カルタレス領主の養子となったスハイル=ラダン=ジェ=ブロウトにはなぜか気に入られ、いろいろと目を瞑ってもらったり融通を利かせてもらったりもしてきた。本当に特定の立ち位置には収まらず、うまくやっているとは思うのだが、どの方面から見ても非常に危ういと感じるのは、果たして少年の杞憂に過ぎないだろうか。

 

「ねえ、花梨」

「んー?」

 

 花梨の背に跨りながら、その耳もとに問いかける。たとえば。たとえばだ。

 

「もしおれがさ。じつはどっかのえらい人の手下で、いままで仕入れた情報ぜんぶ流してたとしたら、花梨どうする?」

「んー……うーん?」

 

 と、しばし考えて

 

「それって、いまとなんか違うの?」

 花梨は顔だけ振り向いた。

 

「あ、そっか」

 

 言われてみれば、たしかにそうだ。いまだって、情報は横流しするのが当たり前である。と納得しかけたが、

 

「いや、違うでしょ。ぜんぜん違うよ」

 少年は慌てて首を振った。

 

「ええー? そう? まあでもとりあえず、あれかなぁ。しょうがないって思うかなあ」

「しょうがない?」

「うん、しょうがない。だってそれがあんたにとってはいいことだったんでしょ? あんたが選んだんならしょうがないし、それがきっと正しいんだよ。あたしがとやかく言うことじゃない」

 

 だから自信持ってよ、となぜか胸を張る花梨に、思わず苦笑した。

 

「一応言っとくけど、たとえ話だよ」

「あれ、そうだっけ? あはは。ごめん、あたし馬鹿だからさ。そういうのよくわかんないや」

「だよねー」

 

 頷いたら振り落とされそうになった。しがみついて上げた抗議の声に、花梨の笑い声が重なった。