一、誕生(4)

 この時代、ウルズ王国には国の管理する教育機関がふたつあった。ひとつは、王宮内にある高級女官養成機関「後宮」、そしてもうひとつが、ここカルタレスにある学術研究機関「翰林院(アカデミー)」である。


 前者が王后を頂点とし、妃候補でもある高級女官の養成所兼職場、そして住まいという役割を持つ、いわば女の園であるとすれば、後者は王を長とし、あらゆる学問、武芸、芸術の研究及び将来、王に貢献すべき少年たちの教育を担う、まさに男の社会の縮図のような場所であった。

 

 そんな施設が王都ではなくカルタレスにあるのには理由がある。


 古い時代に王家から分かれ、この地を任されたブロウト家は、高名な神学者を多く輩出していた。そのうちのひとり、四代当主の子アスライル(かの有名な「賢人」アスライル・バルバートルとは別人である)がカルタレスで開いた私塾が、いつしか多様な学者を抱えるようになり、どんどん規模を拡大していって翰林院の土台となった。そのためとくに盛んなのが神学であるのだが、これが実は王家にとっては都合が悪い。

 

 このドラグニア小大陸にのみ生息する動物を、ご存知だろう。巨大な気高き獣の体に白銀の六枚羽、黄金に輝く二本の角。竜である。

 

 現在では個体数も少なく、保護の対象である竜には触れることはおろか目にする機会すらそうそうないが、建国当初、ウルズ国民は竜とともに暮らし、竜を使役する技を持っていた。もっと正確にいえば、世界で唯一その技を持つパルカイという民族が力をつけ、ウルズという新しい国を興すに至ったわけだが、不思議なことに建国後間もなくその技は廃れ、記録も失われた。


 その後すぐに技術が復活しなかったところを見ると、意図的に封印したものと思われる。


 しかし、時代が下ってブロウト家のアスライルが私塾を開くころには、パルカイ民族は再び竜を操る技を得ようと躍起になっていた。


 そこで目をつけたのが、神と、その遣いともいわれる竜と、その竜を神から預かったとされる祖先たちの記録、すなわち聖典であった。神の教えを正しく理解するための研究は竜の研究と直結し、そして竜を理解すればそれはただちに力となる。神学をきわめれば、比類なき軍事力を手に入れることができたわけである。

 

 そんな学問の中心地が、王都から離れた、それも力ある大貴族の手元にあるのは(すこぶ)るよろしくない。で、一悶着の末、充実した設備や立地はそのままに、所有権だけがブロウト家から王家に移ったのである。


 ちなみに、エヴェルイートたちの時代では私塾を開くことは禁止されており、上流階級の子どもは家庭教師から学ぶことが一般的であった。

 

 余談が続くが、結局竜の研究はある時点で打ち切られ、パルカイの古の技は一度も復活することなく現在も失われたままである。


 膨大な量に及ぶはずの研究記録も一切見つかっておらず、また様々な技術が発達した現代においてだれも手を出そうとしないこの神秘的なまでに謎めいた技術は、多くの歴史ファンやオカルトファンの想像を掻き立てる。なにを隠そう、筆者も新しい発見を心待ちにしながら、一方でロマンの崩壊を恐れる者のひとりである。

 

 さて、そんな翰林院に通いはじめたエヴェルイートは、毎日新しい発見に胸を弾ませていた。


 適性検査はあるが、翰林院への入学条件は「パルカイ民族であること」という一点だけで、年齢や階級は問われず費用もかからない。幼児も高齢者も貴族も平民も、みな同じように学び研究するこの場所は、城のなかしか知らなかったエヴェルイートにとっては限りなく開かれた世界だった。


 とはいえパルカイはウルズ王国の精神構造上、階級ピラミッドの上半分を占める民族であり、結果的に翰林院に集まったのはそれなりに強い立場の者たちだけであったことを明記しておきたい。

 

 その強き者たちのなかでの自分の立ち位置を、エヴェルイートが理解するのにそう時間はかからなかった。

 

 そこでは、エヴェルイートは「男」であった。そしてだれもが頭を下げる権力者であった。人々はエヴェルイートを「ブロウト家の嫡男」として見、また「先王の孫」として見た。

 

 ブロウト家は現王室と同じ源流を持つものの、その昔いろいろあって、王位継承権を永久に放棄している。エヴェルイートの母アリアンロッドは先王と正室の間に生まれた子ではあるが、そのブロウト家に降嫁した時点で王位継承権を失っている。当然、その子であるエヴェルイートも王位継承権は持たない。だが、現国王が先王の側室の子であるということもあって、むしろ国王よりもエヴェルイートのほうに正統な王の血を見出す者も少なくなかった。


 これは当時、男女の別なく正室の子から順に上位の王位継承権を持つと定められていたにも関わらず、側室の子でほとんど王位争いの外にいたはずの現国王が突如として王位につき、正室の子アリアンロッドを降嫁させたことと、パルカイ民族が異様なまでに初代国王の血を重んじたことに起因する。


 そういう見方をすれば、なんだかんだでその尊い血を穢すことなく維持し続けているブロウト家と、先王の子のなかでもとくにその血を濃く継ぐアリアンロッドとの間に生まれたエヴェルイートは、たしかに比類なき存在といえた。

 

 そういったことを急速に理解していったエヴェルイートは、いつしかありのままに振る舞うことをやめた。男性として物事を考えるようになり、自己の体について悩み、恥じ、隠すようになった。無邪気に輝いていた瞳は涼しげに、周囲の反応を観察するようになった。そうすることで見えてくるのは、いつか使用人が口にした「身分の違い」というものである。

 

 身分の違いとは、すなわち求められるものの違いであった。

 

 知ってしまうと、世のなかはつまらないものだった。そして自身に求められるものは単純だった。「ブロウト家の嫡男」として生きること、ただそれだけだった。

 

 エヴェルイートは優秀だった。明るく美しく公平な「ブロウト家の嫡男」は、みなに慕われた。だが、「エヴェルイート」はだんだん孤独になっていった。家族同然だと思っていた使用人たちも、エヴェルイートの変化に合わせてすこしずつ距離を置いてゆくようだった。ただひとり、イージアスだけが、出会ったころからなにひとつ態度を変えなかった。

 

 翰林院に通うようになって、半年ほど経ったある日のことである。

 

 同年代の少年たちと、剣術の授業を受けていた。


 正直にいうと、エヴェルイートはこのたぐいがあまり好きではなかった。もともと丈夫ではないせいか、それとも女のような体をしているせいか、自分は他の少年たちよりも劣っている、そう強く感じていた。それなのに、学友たちは手合わせのたびに大げさに転び、「お見事です、エヴェルイートさま」と頭を下げる。それはとても虚しいことだった。けれども彼らにも彼らの立場があるとわかっていたから、いつも笑って「ありがとう」と返した。

 

 その日は、ちょっとした勝ち抜き大会になっていた。いつものようにエヴェルイートは次々と勝利し、ついに決勝戦となった。相手はイージアスであった。

 

 イージアスとの手合わせははじめてだが、相手のほうが数段上であるということは見ただけでも明らかだった。木剣を手に取り、向かい合う。思わず笑ってしまった。敵意をまるで隠そうともしないイージアスの顔は、しかしエヴェルイートを安心させた。優勝はイージアスだ、そう確信した。

 

 結果は、エヴェルイートの圧勝であった。

 

 裏切られたと思った。理屈などない。とにかく、裏切られたと思った。

 

 そう思うとまったく腹立たしくて、なに食わぬ顔であと片づけをはじめる相手の顔をだしぬけに殴りつけた。さすがに驚いた顔をしているところを、もう一発。三発目を繰り出そうとしたとき、ついに相手が動いた。頬に鋭い痛みが走った。

 

 あとは、取っ組み合いの大喧嘩となった。

 

「なんだっていうんだよ!」

 鈍い音。

「こっちのせりふだ!」

 また鈍い音。

「なんにも知らないくせに!」

 土煙。

「おまえだって!」

 そしてまた鈍い音。

 

 慌てたのは周囲である。普段はおだやかで優秀なエヴェルイートと、物静かで目立たないイージアスが、あろうことか教育の庭のど真ん中で突然暴れ出したのである。しばし呆然とその様子を見守っていた人々は、我に返って止めようとし、とばっちりを食うこととなった。

 

 まあ、とんでもなく高貴な子どもを預かっているわけであるから、こんなことが起これば指導者も焦るだろう。なにを血迷ったか、父ヴェンデルが翰林院に呼び出される事態となった。わけもわからぬまま不機嫌そうな顔で翰林院にやってきた父は、平伏する大人たちのなかでぼろぼろになってわんわん泣き喚く子どもたちを見た途端、大声で笑い出した。

 

「なんだ、おまえたち、ずいぶんと箔がついたではないか」

 

 そう言ってなおも笑う父に抱き上げられたとき、エヴェルイートはますます派手な泣き声をあげた。父の反対側の腕にはイージアスが抱かれていて、こちらは必死に泣き止もうとしているようだった。その手は父の服をしっかり掴んでいて、それがなんだかやけに嬉しくて、また泣いた。泣き止まぬまま城に帰って、ふたり揃って母に叱られ、泣き疲れてそのまま一緒に母の膝で眠った。

 

「しようのない子たちですこと」

  という母のやさしい声と、髪をなでる手が心地よかった。

 

 翌日、エヴェルイートは熱を出して寝込んだ。イージアスがずっとそばにいて、じっと覗き込んでいた。その顔は相変わらずむっつりしていて、しかも喧嘩のせいでところどころ腫れていて、ひどく不細工だった。

 

「へんな顔」

 とエヴェルイートが笑うと、

「おまえもな」

 とイージアスは馬鹿にしたように笑った。

 その日から、ふたりは無二の親友になった。

 

 

 

 

 

 

 その後、翰林院(アカデミー)ではすっかり優等生となったふたりは、イージアスの願いで正式に主従関係を結んだ。


 エヴェルイートの身辺の世話はイージアスの担当となり、侍女エリスはすこし寂しそうにしていたが、異議を唱える者はなかった。


 エヴェルイートの一歩うしろには常にイージアスが控え、視線ひとつで互いの意向を読み取る。そんな光景はけっこう羨望され、ブロウト家の評判をも上げることになったが、その実、それはよそゆきの顔で、ふたりきりになった瞬間に彼らは悪童に戻るのだ。

 

「先生のあの顔、見たか」

「見た。茹で上がった蛙みたいだった」

「おかしいよな、いつもなにごとにも動じないことが肝心だ、なんて言っているくせに」

「太りすぎて動けなくなっているだけなんじゃないのか」

「違いない」

 

 などという会話の合間に、剣のぶつかり合う音が響く。そうするうちに息が上がって、エヴェルイートの剣はイージアスに弾かれ宙を舞った。

 

「ああ、また負けた!」

「さて、今日の賭けはなんだったかな」

「なにかひとつ、負けたほうが勝ったほうの言うことを聞く」

「……おまえ、それ好きだな」

「いつか絶対におまえを泣かす!」

「はいはい、ちゃんと汗拭けよ、また熱を出すぞ」

 

 言いながらさっさと行ってしまうイージアスを追いかけて、その背中に飛びかかる。

 

「イージアス、拭いてくれ」

「ふざけるな、離れろ、暑苦しい」

「つれないなあ、兄弟。今回の命令はそれか?」

 

 結局そのままじゃれあって、また汗をかく。夕陽が一面を赤く照らした。侍女の呼ぶ声が聞こえる。いい匂いがしているから、きっと夕餉の時間を告げに来たのだろう。

 

「決めた。エヴェルイート、おまえは今日の夕飯を残さず全部たいらげること」

「またそれか⁉ どれだけ量があると思ってるんだ、腹がはちきれるぞ!」

「おまえは食わなさすぎる。すこしは体力をつけろ」

「うえ……考えただけで気持ち悪くなってきた」

「男に二言はないよな、兄弟?」

 

 イージアスが意地悪な笑みを浮かべたところで、侍女がやってきて「お食事の用意ができております」と告げた。

 

「ああ、ありがとう。行こうか、イージアス」

 

 瞬時に貴公子らしい顔を作ると、

 

「はい。あ、エヴェルイートさま、お待ちを」

 

 イージアスもそれに合わせて口調を変え、一歩下がった。脱ぎ捨ててあった上着を(うやうや)しく拾って、エヴェルイートの肩にかける。ふたりきりのときは絶対にしないくせに、と内心笑った。

 

「冷えてきましたね。着替えの用意もいたしましょう」

「頼む」

「はい、すぐに」

 

 こんなうそ寒い会話は早く切り上げたいと思いつつ、どうせ部屋に戻ればまた、ふてぶてしいほうのイージアスに急かされながら着替えをする羽目になるのだ、いまぐらいはせいぜい主人らしく振舞ってやろう、そう決めて歩き出した。

 

 エヴェルイートはその夜、約束どおり残さず夕餉をたいらげて、結局腹を壊した。王女誕生の知らせを聞いたのは、その翌朝のことだった。エヴェルイート、七歳。運命が大きく動き出した瞬間であった。