三、貧民窟のおひめさま(3)

 夜になると大人たちが家に集まってきて、リュシエラはやんわりと追い出されるかたちになった。やはりどうしても、集会に参加することはできないらしい。

 

 集会は不定期に行われる大人たちの集まりで、子どもにはわからない大事な話をしているという。大方、資金繰りのことでも相談し合うのだろう。

 

 旧市街は王都の一部でありながら、ほとんど独立した特殊な地区だ。その中心にいるのがネンデーナで、彼女の作る薬が旧市街の生活を支えているのだろうということもなんとなくわかっていた。彼女の持つ豊富な薬学知識は、おそらくこの外にはない。

 

 憶測が間違っていないのなら、リュシエラはなおさらなにが行われているのか知りたかった。一応、商人に育てられたのだ。見聞きしてきた情報を彼らの商売に役立てられるなら、そうするべきだと思っていた。

 

「無理だと思うぜぇー? だって見ろよあれ。見張りのおっさん立ってるもん」

 

 と、うしろでのんびり言うのはソランだ。集会のときは、ソランの家に邪魔させてもらうことになっている。

 

「だったらあなたなんとかしなさいよ」

「無茶言うよなぁー」

 

 リュシエラはソランの家の入り口から顔を覗かせて、もうずいぶんと長いこと集会の行われている我が家を見守っていた。といっても、なかの様子を知ることはできない。旧市街の住宅は地面を掘り下げた作りになっていて、たとえ扉がなくても開け広げというわけではないのだ。

 

「そんなことよりさ、いいもん見に行かねぇ?」

「いいもの?」

「そ、秘密の花畑」

 

 その言葉にドキリとした。それこそ、無茶な話である。

 

「あそこは子ども立ち入り禁止でしょう。いつも追い返されるじゃない」

「いつもだったらな」

 

 でも、とソランが指をさす。その先には、相変わらず見張りの立つ我が家があった。

 

「あ」

 

 そうか。いま大人たちはあそこに集まっている。つまり、いつも厳重な花畑の警備は手薄になっているということだ。

 

「やっとわかったか。まったくリューは頭(わり)ぃなぁ」

「もう一度言ってごらんなさい」

「なんでもないでーす」

 

 ソランの態度は気に食わないが、花畑には興味がある。ずっと気になっていたのだ。子どもは絶対に入ってはいけないという秘密の花畑。ネンデーナにも絶対に近づかないようにと口酸っぱく言われていて、いままで遠くから眺めることしかできなかった。さすがに見張りがひとりもいないということはないだろうが、これは絶好の機会かもしれない。

 

「……あなたがどうしても行きたいって言うのなら、付き合ってあげても、いいわ」

「かっわいくねぇー……ま、いいや。そんじゃ、行くか!」

 

 ソランはニカッと笑ってリュシエラの手を取ると、そのまま外に飛び出した。

 

「ちょっと、危ないじゃない」

「おまえなら()けねぇだろ」

「当然でしょう」

「……やっぱかわいくねぇな」

 

 そんなことを言い合いながら、夜道を走る。

 

 昼間吹いていた風はすっかりおさまり、澄んだ紺色の空が広がっていた。明るい満月が出ているから視界はさほど悪くない。眠りの(アシュタルカ)女神の紡ぐ糸だという月光は、ほとんど遺跡のような旧市街にどこか荘厳な(おもむ)を与えていた。

 

 体力には自信のあるふたりが息切れしはじめたころに、目的の場所は見えてきた。ぼんやりと浮かび上がる純粋な白。あれが秘密の花の色だ。

 

「あれ?」

 ソランが立ち止まって首を傾げた。

 

「だれもいねぇのかな……」

 

 リュシエラも注意深く首を伸ばす。たしかに、人の気配はない。普段なら松明の火がいくつも行き来しているのだが、それらしいものは現れなかった。しかしいくら集会の日とはいえ、ひとりもここに残さないなんてことがあるだろうか。リュシエラは(いぶか)しんだが、

 

「まぁ、いねぇならそのほうがいいけどな!」

 ソランは深く考える素振りすら見せず、堂々と花畑に近づいていった。

 

「あなたね、それでだれかいたらどうするのよ」

「そんときゃそんときで、怒られるだけだろ」

「いやよ。あなたひとりで怒られなさい」

 

 抗おうにも、手はがっちりと繋がれていて解けない。そのままついて行くしかなさそうだ。

 

 今度は走らず、並んでゆっくりと歩く。ふたり分の足音以外はなにも聞こえない。かすかに、甘い香りがした。

 

 その香りは、一歩踏み出すごとに強くなってゆくようだった。誘われるように進んだ。急に雲が出てきて、月光を遮る。爪先も見えない暗闇。それでも、足は止めなかった。

 

 なぜだか胸騒ぎがした。甘い香りがいっそう強くなる。やがて雲が晴れ、再び月光が降り注いだとき、リュシエラは目のまえの光景に息を呑んだ。

 

 見渡す限り、どこまでも広がる濃緑の海。

 

 そのなかに、ぽつりぽつりと白い花が浮かんでいる。末広がりのドレスを逆さまにしたような形の花は大きくて、リュシエラの開いた手のひらほどもあるだろうか。淡く光を放つその姿は、まるで月を宿したようだ。

 

「きれい……」

 思わず声が漏れる。

 

 たとえるなら、月光のドレス。これを纏って舞うことができたならどんなに素敵だろう。

 

 はじめて見たこの花の名を、口にできないことが歯がゆかった。きっとそれすら、透明に響くようなすばらしいものに違いないのだから。

 

「ねえ、ソラン」

 と振り向いたリュシエラの気分は、だが、そこで急速に萎えてしまった。

 

「……なに、その顔は」

「へっ!? え、いや!?」

 

 おそろしいものを見た、とでも言うように、ソランは目を見開いている。

 

 ひどい。いくらなんでもその反応はないだろう。たしかに普段はそういうふうに見えないかもしれないが、リュシエラだって花にときめく年ごろの乙女である。そんな、天変地異に遭遇したかのような顔をされる筋合いはない。

 

「帰る」

 

 花畑に背を向ける。そのまま歩き出そうとしたのだが、ソランと手をつないだままだったということを忘れていた。必然的にうしろに引っ張られ、しかたなく振り返る。そこに。

 

「お、おまえさっ!」

 

 夜闇のなかでもわかるほど、赤く染まったソランの顔があった。

 

「――笑ったほうが、かわいいぜ……っ」

 

 その言葉の意味を、すぐには理解することができなかった。もしかしたら、聞き間違えたのかもしれない。もう一度言ってもらおうとした、そのときだった。

 

 ガサリ、と派手な音がした。明らかに不自然な音だった。

 

 やはりだれかいたのだろう。ふたりそろってため息をついて、視線を交わした。素直に謝って許してもらおう、とソランの目が言う。リュシエラも無言で同意した。

 

「あのぉー、すみませぇーん」

 

 先に動いたのはソランだった。さきほど音が聞こえた、花畑の奥のほうへ歩いてゆく。腰のあたりまで伸びている葉を掻き分けて進む彼は、しかし、すぐに立ち止まった。

 

「どうしたの?」

 答えはない。つないだ手が震えて、妙に湿っている。

 

「ねえ、」

 彼の視線をたどったリュシエラは、そこで言葉を失った。

 

 人だ。人が倒れている。

 胸から大量の血を流して。

 

「リュー!」

 突然振り返ったソランが、リュシエラの肩を強く掴んだ。

 

「どうしよう、なんだよこれ、生きてるよな!? このひと生きてるよな!?」

「ソラン、痛い……」

「なぁ、なんだよこれ!?」

 

 そんなことリュシエラにだってわからない。だが、このままここにいては危険だ。それだけはたしかだ。一刻も早く脱出しなければならないが、ソランは混乱しきっている。きっとなにを言っても伝わらない。

 

 わたしが、なんとかしなければ。

 

 そう決意したリュシエラの目が、ふと、違和感を捉えた。

 月が欠けている。

 いや、違う。視界を遮るなにかがそこにいるのだ。

 

 ソランのうしろ。ゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。人影が。

 

「――ソラン!」

 

 反射的に動いていた。人影も大きく動いた。でも、自分がなにをしているのか、なにが起きたのか、よくわからなかった。ただ、首筋に受けた衝撃だけははっきりと感じて、直後、リュシエラは意識を失った。