七、あなたと離れて(5)

 中途半端に伸びた髪をひとつに(くく)る。ひさしぶりに袖を通した男物の服は、どこかよそよそしい。母の形見の櫛を帯のうちに隠し、愛用の短剣を差した。あとの荷物は、セヴランやミミが用意して荷馬車に載せてくれているはずだ。

 

 弱い灯りが、この半年ほどを過ごした部屋に薄く色を添えた。あえて手をつけなかった古い調度品は、きっといつの日かだれかのために整えられるだろう。

 窓を開けた。月光とともに、濃い新緑の匂いが入ってきた。静かに深く吸い込んで、目を閉じた。

 

「瑠璃姫さま」

 

 扉の向こうから声がする。セヴランだ。瑠璃姫は(まぶた)を上げて細く息を吐き出した。

 

「ああ。――いま行く」

 

 それからゆっくりと、窓を閉めた。

 小さく、乾いた音がした。

 

 灯りを持って部屋を出ると、扉のまえに立っていたセヴランが一歩退き頷いた。その顔に見えるのは、いつもどおりの、堅苦しい表情である。

 

「よくお似合いで。これならば疑う者もおりますまい。どこからどう見ても商家の不慣れな次男坊に扮した新米兵士ですな」

「褒めているのか、それは?」

「無論です。参りましょう」

 

 そう言ってさっさと歩き出したセヴランの、手に持つ灯りが不安定に揺れている。油がもう残り少ないのだ。もしかしたらだいぶ長いこと、ここで待っていてくれたのかもしれない。

 

 荷馬車の用意されている裏門に行き着くまでの間、瑠璃姫を瑠璃姫として見るものはなかった。いまの瑠璃姫は任務を帯びたセヴランの部下なのだ。本当にわがままを言ったと思う。応えてくれたセヴランには感謝のしようもない。対外的な「瑠璃姫」の処理も、彼ならばうまくやってくれるに違いなかった。

 

 ベルナールの名誉を傷つけるようなことには、決してなるまい。

 

「では、くれぐれも抜かりなく」

 

 と、門衛の手前、上官として振る舞うセヴランが言う。御者台に上がり手綱を握った瑠璃姫も、合わせて答えた。

 

「承知しました」

 

 月光が睫毛を流れて音もなく落ちる。なんとはなしにそれを追うと、おもむろに武骨な手が差し出された。

 

「持っていけ」

 

 手渡されたのは、手のひらに収まるほどの小さな笛だった。紐が通されて、首にかけられるようになっている。

 

「これは?」

「こう使う」

 

 見ればセヴランの首にも同じものがある。彼の手がそれを掴み、口に当てた。瞬間、なにかの鳴き声とも音楽ともつかない音色が響き、応えるように頭上から羽音と影が降りてきた。

 

(からす)?」

 

 セヴランの掲げた腕に着地した、夜空をそのまま切り取ったような大きな鳥が興味深げにこちらを見る。

 

「フレンという。このふたつの笛は彼女のために調整されたものだ。呼べば応えてくれる。連絡手段として頼るがよい」

 

 ヴェクセン帝国では一般的なのだろうか。そのようなことは聞いたことがないが、しかし、なるほど、半年まえのあの状況でベルナールとセヴランが迅速に連絡を取り合えたのはこういうことだったのかと得心する。

 

「よろしく、フレン」

 と声をかけると彼女は一声だけ鳴いて夜空の向こうへ帰ってしまった。

 

「……行ってしまいましたが」

「普段は姿を見せぬだろうが心配ない。おぬしは気に入られたようだ、見捨てられることはなかろう」

 

 セヴランの目がかすかに細められた。

「報告を怠るな」

 

 瑠璃姫は笛を首にかけ、頷く。

「心得ております」

 

 そしてしっかりと手綱を握りなおし、ゆるやかに発進させた。

 

 セヴランはもうなにも言わなかった。ただ、見送ってくれる視線を感じた。振り返ることはしなかった。

 

 どんどん遠ざかってゆく王宮の、王都の景色が、瑠璃姫の眼裏(まなうら)に映し出される。それから人々の顔が、声が、触れる手のぬくもりが。最後に揺れる紅玉(ルビー)の雫が鮮やかに煌めいて、それらは暗い雲間に消えた。

 

 胸が異様に苦しくて、誤魔化(ごまか)すようにうつむいた。

 

 馬が停止する。静寂が訪れる。気づけば周囲には野が広がり、人の気配はどこにもない。風がどこまでも吹き抜けるばかりである。

 

 ひとり。

 

 実感すると、もう、駄目だった。

 

 自身を掻き抱くように上体を沈めた。噛みしめた歯の間から不規則な吐息が漏れる。自分で選んだことだ、自分が望んだことだ。なのにこの気持ちをどうしたらいいのかわからない。いや、わかっている。愚かとしか言いようがないのだ。わかっている。でもこんなことが、いったいだれに対して言えようか。

 

 それでも引きとめてほしかった、などと。だれに。

 

 腕に食い込む爪が痛かった。いっそすべて血となって流れてしまえばいいと思った。そうしてあまりに滑稽な自身の姿に笑いが漏れたとき――

 

「動かないで」

 

 視界に、(やいば)の切っ先が映り込んだ。

 

 咄嗟に身を起こし背後から伸びる腕を掴んだ。鈍い音と小さな悲鳴、そして細くしなやかな感触に驚きつつも体勢を整える。ややあって月光が照らし出したのは、やわらかな(ひだ)を作って広がるドレスと見知った顔だった。

 

「ティナさま!?」

 

 荷台の床に倒れたティナの腹部が丸く影を作っている。なぜウイルエーリアから聞くまで気づかなかったのかと自問したくなるほど、彼女の子はすでに大きく成長していた。

 

「申し訳ありません、痛むところはございませんか!?」

 

 慌てて助け起こせばティナの目が驚愕に見開かれる。

 

「あなた……!」

 

 と次には瑠璃姫を突き飛ばした彼女が、転がっていた武器を再び手に取り正面に構えて叫んだ。

 

「動かないで!」

 

 瑠璃姫は失態を悟った。ティナの手にあるのは瑠璃姫の短剣だ。抜き取られたことにすら気づかなかった。

 

「ティナさま」

「動くなと言っているでしょう!」

 

 震える片手は必死に腹を庇っている。なぜこうなったのかはわからないが、とにかくこの状況は彼女のためによくない。なんとかして落ち着かせる必要がある。

ひとつ深く呼吸をして、静かに切り出した。

 

「動きません。あなたの指示に従います。お望みはなにか、教えていただけますか」

 

 それが意外だったのか、ティナは数秒、目を泳がせた。短剣を手放しはしないもののわずかにその肩が下がる。

 

 ややあって、もう一度強くこちらを睨んだ彼女が口を開いた。

 

「……シェリカよ。わたくしをシェリカに連れていきなさい」

 

 シェリカ。ウルズ王国の東端に位置し、隣国イクシャ王国や聖都アルク・アン・ジェとも境を接する要衝だ。だがそのまえに、ティナにとっては、故郷である。シェリカ領主は彼女の父だ。

 

「シェリカに帰らせて。お願いよ、この子を奪わないで……お父さまとお母さまに、会わせて……っ」

 

 次第に嗚咽が混じり、ついに言葉を発せなくなった彼女の手から短剣が落ちる。それを拾ったのは、瑠璃姫の手ではなかった。

 

「しょーがねぇなぁ。おれってば美人の涙に弱くってさぁ」

 

 今度は反応できなかった。重なる想定外の事態にもはや思考が停止したのだ。そんな瑠璃姫をよそに、積荷の奥から突然現れたその少年は、悠々と歩いてきて短剣を差し出すと満面の笑みを浮かべた。

 

「ほい、お妃さま」

「ソラン!?」

 

 琥珀色の瞳が月明かりを受けて光る。

 

「お、おまえ、どうしてっ」

「そいつぁ教えらんねぇな」

「戻りなさい。いますぐ戻りなさい」

「えー? お妃さまってば、こんなとこにおれを放り出す気?」

 

 そう言われては言い返せない。かといって荷馬車ごと引き返すわけにもいかない。

ぽかんと口を開けているティナを見る。それからニッと笑うソランを見る。さらに自身の状況を考える。

 

 これは。

 これは、どうするべきなのか。

 

「まあアレだよな。おひめさまふたり、ほっとけってほうが無理だよな」

 

 ソランがなぜか誇らしげに胸を張った。

 

 おかしい。この状況はどう考えても絶対におかしい。

 瑠璃姫は困惑して座り込み、膝に埋まるように頭を抱えた。

 

「あれっ、お妃さま? 腹でも(いて)ぇのか? おーい」

 

 ソランの声が耳の上を滑る。とりあえず、自嘲している暇なんてもう、なさそうだった。