一、アウロラ(3)

 暗く長い廊下を歩く。そのまま自室に戻る気には、なれなかった。


 隣にはアレクシスがいて、ときおり気遣わしげな視線を送ってくる。ベルナールと話している間、この末兄はずっと部屋のまえで待っていた。会話を聞いてしまわないように、わざわざ扉から距離を置いて、警護の者たちすら支障がない程度に遠ざけて。そういうことを、いつも自然にやってのける。彼の目に映る世界は、さぞ美しいのだろうとアウロラは思う。


「アレクシスお兄さま」
「なんだい、ローラ」


 立ち止まって見上げると、兄は膝を折ってアウロラに視線を合わせた。おかげではっきりと見えるその表情に、普段の輝きはない。


「あのね、ローラは大丈夫。だから……そんなお顔なさらないで?」


 そう言って手を取れば、みるみる歪んでゆく兄の顔。それから、耐えきれないというようにうつむいた。


「すまない……すまない、ローラ」
「ううん。ありがとうお兄さま。一緒に泣いてくださるだけで嬉しい」


 アウロラも声を震わせて、兄に寄り添った。顔を伏せたまま、アレクシスはアウロラの手を握り返す。綺麗な、手だ。


「私は、情けない兄だな」
「そんなことないわ」
「きみのほうがよほどつらいだろうに」
「でも、アレクシスお兄さまにとっても大切なお友達だもの」
「そうだな……大切な友人だ。だからこそ、なぜこうなるまえに、私はなにもできなかったのかと……悔やまれてならないのだ」


 大切な友人。なんと残酷な言葉だろう。思わず、笑いそうになってしまう。


 アウロラは知っていた。エヴェルイートがアレクシスに向けていた、視線の意味も。


「それは、わたくしも同じだわ……でもね、アレクシスお兄さま。わたくし、信じているわ。信じているの」


 アレクシスが顔を上げた。深い紫の瞳が濡れている。(けが)れのない、神聖なパルカイの色だった。


「ローラ……」


 と、アレクシスがなにかを言いかけたときである。べつの方向から、硬質な声が響いた。
「ここにいたか、アレクシス」


 ふたり揃って声のしたほうを振り向く。そこにはまた、兄がいた。
「シリウスお兄さま」


 明らかに眉間に皺を寄せたシリウスは、アウロラの存在を無視するように続けた。


「アレクシス、母上がお呼びだ。おまえが無事に戻ったことを祝いたいと」


 大げさな、とアウロラは思うが、第三妃とアレクシスの間ではいつものことである。アレクシスはもちろん当たり前のこととして、素直に従った。


「わかりました、ありがとうございます、兄上。……すまない、ローラ」
「いいえ。ありがとう、お兄さま。また、明日」


 目もとを拭いながら走っていったアレクシスを、笑顔で見送る。シリウスとともに残された廊下は、ひやりとした空気に包まれた。


「シリウスお兄さまは、行かなくてよろしいの?」
「私は同席を許可されていない」
「……こわいお顔」


 シリウスとアレクシスの生母である第三妃ゾフィアは、アレクシスだけを可愛がるわりにはよくこうしてシリウスに頼みごとをする。彼が必ず応えると、知っているからだ。国王の子ではないと噂される長兄の努力には、涙ぐましいものがある。父からも母からも疎まれ、臣下にさえ軽んじられる第一王子。そんな彼がいつも身につけている手袋は、積み重ねてきた努力によって絶えずできる生傷を隠すためのものだと、アウロラは知っていた。


「……部屋まで送ろう」
「まあ、心配してくださるの? うれしい」
「おまえが妙なことをしでかさぬように見張るだけだ」


 視線を合わせることもせずに、大股で歩き出す。


「でも、殺さないのね」


 アウロラは、小走りで追いかけながら言った。実はだれよりも愛情深いこの兄が、アウロラは好きだ。理解されにくい彼のことを、自分だけは理解してあげられる。それが、しあわせだと思う。


「私はおまえとは違う」
「そうね」
「ダリウスに毒を盛ったのは、おまえだろう」
「それは違うわ。ダリウスお兄さまがご自分でお飲みになったのよ。わたくしはほんのすこし手助けをしてさしあげただけ」


 シリウスの足取りが、わずかに乱れる。


「……正直だな」
「シリウスお兄さまには隠しても無駄だもの。聞かなくてもわかっているくせに」


 次兄ダリウスは、王子という立場に怯えていた。もともと控えめでおとなしい性格の彼は、母である第二妃からの過度の期待や重圧に押しつぶされそうになっていた。それはアウロラから見てもつらいものだった。だから、ふたりとも救ってやったのだ。間もなく彼らは苦しみから解放されるだろう。


「……狂っている」
「そう? だったらシリウスお兄さまもおかしいと思うわ。ふつうは自分が玉座に座ることを目指すでしょう? どうしてそんなにアレクシスお兄さまのためにがんばるの?」


 アウロラは知っていた。理解していた。みなに誤解されているが、シリウスは、自分が王位につくためにここまでのし上がってきたのではない。すべては、同母弟アレクシスを次期国王とするためなのだ。


 シリウスはちらとアウロラを見てから、答えた。


「この国のためだ」
「そうね、それもあるでしょうね。でも結局は、ご自分のためなのではないかしら?」


 シリウスの行く手を遮るように、アウロラはその正面に躍り出た。整った顔をまっすぐに見上げる。双方の足が止まった。


「アレクシスお兄さまが王太子になれば、大好きなお母さまが喜ぶものね? 褒めてもらえるかもしれないものね? ああ、健気なシリウスお兄さま。そうやってご自分は歴史の闇に消えるおつもりなのだわ」
「貴様……っ!」


 憤怒の表情を浮かべたシリウスより、アウロラのほうが動くのが速かった。


 抱きついた。それは一方的な抱擁(ほうよう)だったが、シリウスのぬくもりを感じた。熱いほどだった。今度こそ、アウロラは本物の涙を流していた。


 シリウスは、アウロラを無理に引き剥がそうとはしなかった。なにも、しなかった。


 しばらく、そのまま黙っていた。やがてアウロラが静かに離れると、シリウスはなにも言わずに行ってしまった。


 アウロラは独り、立ち尽くして泣いていた。

 

 

 

 

 


 アウロラは知っていた。シリウスの孤独を。そして自身の孤独を。努力が報われないむなしさを。湧き上がる怒りを。憎しみを。それでもどうしようもなく募る愛おしさを。


 父への、母への、この国への、せつないほどの思いを。


 アウロラは、本当にみなが好きだった。救いたかった。しがらみや苦しみから、解放してやりたかった。


 だから、決めていた。


 もうずっとまえから、この手で滅ぼそうと、決めていた。