七、春の一座(2)

 妓館(ぎかん)『燕の巣』は、山の麓にある。渦中の港湾都市カルタレスのはずれにあたるここには、煙の臭いは漂ってくるものの混乱が生じた様子はなかった。建ち並ぶ他の妓館も、ひっそりと静まりかえっている。念のため足音を殺すようにして見慣れた裏口にまわり、独特のリズムで戸を叩いた。すると

 

「若草の乙女の庭の花群(はなむ)れに」

 

 すぐになかから女の声で(いら)えがある。

 

「したたる黄金(こがね)(たま)たる蜜を」

 

 少年がすかさず返せば、戸が開いて白い手が奥へと招いた。花梨と並んでするりと入り込み、戸を閉める。

 

「待ってたわ」

 

 と安堵したような声でふたりを迎えたのは、少年を春の一座に誘った張本人である『燕の巣』の主、山瑠璃だった。

 

「毎回思うんだけどさ、この合言葉、長くない?」

 少年の率直な意見に

 

「それよりわたしは、あなたみたいな年端もいかない子にこれを言わせちゃうことにほんのちょっとだけ罪悪感を覚えるわ」

「……どういう意味?」

「そのうちわかるようになるからいいのよ」

 山瑠璃はいたずらっぽい艶笑を浮かべて答える。

 

「なにはともあれ無事でよかったわ」

「うん、山瑠璃姐さんも。それに七星(ナナホシ)もね」

 

 と花梨が視線を向けた先に、犬のようなふさふさの耳と尻尾を持つ少女が座っていた。

 

「ついでみたいに言わないでよネ」

 

 ゆるく尻尾を振る七星に、「ごめんごめん」と朗らかに笑う花梨。まったくいつもどおりの光景にほっとする。

 

 すっかり慣れてしまったな、と思う。べつにそれが悪いわけではない。あのころとはまるで違うが、これもまた心地よく、好ましいものだ。ただ、いまごろ彼女はどうしているだろうと考えずにはいられないのだ。

 

 まだ、独りでいるのだろうか。こういうぬくもりを知らずに。自身の出生の秘密だけを重石(おもし)のように抱えて。

 

「あれ、そういえばあの()たちは?」

 

 と花梨が山瑠璃に尋ねたのは、この妓館で働く妓女(ぎじょ)たちのことだろう。彼女らも春の一座の一員ではあるのだが、客から聞いた話を山瑠璃に報告するくらいで、さほど踏み込んだことはしていなかった。どうやら一座のなかでも役職のようなものはあるらしい。だいぶ多くのことを知っていて、後援者(パトロン)と直接連絡を取り合っている様子すらある山瑠璃は、おそらく幹部といえる立場なのではないだろうか。であれば、もとはヴェクセンのひとなのかもしれない。

 

「危なくなりそうだったから夜のうちに逃げてもらったの。もう、あなたたちったら大事なときにいないんだから。けっこうたいへんだったのよ?」

 

 山瑠璃の指が少年の頬をつつく。

 

「そんなこと言ったって山の見廻りがおれたちの仕事だし。山が家みたいなもんだし。それにたいへんな思いしてるのはあの三人でしょ」

「まあね。わたしの愛する小鳥ちゃんたちは本当に優秀だわ」

 

 小鳥ちゃん、という表現を聞くたびになんだか気が抜けてしまう。どうしても彼らの屈強な外見とそれが結びつかないからだ。雲雀(ヒバリ)(ウグイス)目白(メジロ)という「小鳥ちゃん」らしい呼び名を持つ三人の有翼亜人は、大空を羽ばたいて人やものを運ぶという、少年には決して真似できない力仕事を担当している。こっそりだれかを移動させたいときには、彼らの力を頼るのが最善の方法だ。

 

 もともと人に飼いならされた竜が頻繁に空を飛び交っていたこの国では、その邪魔にならぬよう有翼亜人を飛行可能な状態にしておくことが禁止されていた。現在でもその法律は生きているが、もう竜を操れる人間などいないので多少破っても強く咎められる確率は低いだろう。

 

 しかし、翼を広げた亜人の姿を見かけることはない。その見た目や声の美しさゆえに愛玩奴隷として鳥籠に囚われるか、鮮やかな羽根をむしられ装飾品となるためだけに繁殖させられるか。有翼亜人にはだいたいその二択しかないのだ。だからこそ、春の一座の彼らはだれにも見られずに悠々と空を渡ることができる。さすがに陽のあるうちは危険が伴うが、夜になればどんな道を行くよりも彼らに運んでもらったほうが安全なのである。

 

 そう。

 だから彼女も、そうやってこの国を去った。

 

 少年の愛するリュシエラお嬢さまは、あの日、この『燕の巣』でアウロラ王女から春の一座に引き渡され、そして、空の彼方へ旅立っていったらしい。

 

 あと一歩。あと一歩のところだったのだ。

 あと一歩で。

 

「先生、どうしたの?」

 

 と、握りしめた手に触れる花梨の体温に、我に返った。心配そうに揺れる目がこちらを覗き込んでいる。そうだ、いまは彼女のことを考えるべきときではない。そもそも、考えたところでしかたのないことなのだ。

 

「ううん、なんでもない」

 手の緊張を解けば、花梨はほっとしたように息を吐いた。

 

「んで? アンタらはいままでどこでなにやってたのヨ?」

 七星が器用に足先で耳を掻きながら言う。

 

「ハイ。こいつはずっと山のなかを走りまわってました」

 と、花梨を指差しながら、少年。

「ハイ。こいつはずっと蟻の巣を突っついてました」

 と、少年を指差しながら、花梨。

 

「つまり?」

「楽しかったです!」

「アホか」

 

 七星の気だるげだが容赦のない突っ込みが入った。

 

「山瑠璃姐さん、コイツらもう捨てたほうがいいヨ」

「そんなこと言わないで、七星。それじゃ、わたしに見る目がないみたいだわ」

「あ、そっかぁ。ゴメン」

「先にこっちに謝ってくれるかな!?」

 

 花梨が大げさに顔をしかめる。それを横目で見ながら、少年は

「まあ冗談はさておき、」

 と切り出した。

 

「え、いまの冗談だったの?」

「あ、花梨はもうしゃべらなくていいよ」

「なんで!? しゃべらせてよ!」

 

 うしろから抱きついてくるのを無視して、山瑠璃に視線を向ける。

 

「ソアイル山はとくに変わったことなかったよ。強いていうなら秋も深まったなーって思ったくらい」

「そう、それはなによりだわ。こっちは見てのとおりね」

 

 山瑠璃がため息をついた。

 

「うん、すごいね。なにがあったの」

「単純に、住民の不満が爆発したってところかしら」

 

 ここ最近の、カルタレス領主ヴェンデルに対する評判の低下は著しい。約一年半まえの竜による襲撃事件と、跡継ぎの失踪から立ちなおれないまま、ついに暴動が起きてしまったようだ。

 

「となると、やっぱりここにいるのは危ないね」

「そうね。巻き込まれるまえに逃げましょう」

 

 領主と直接関わりがあるわけではないが、その養子であるスハイルとはそれなりに接触してきた。これまでいろいろと目こぼししてもらってきた恩はあるものの、だからといって厄介ごとを持ち込まれてはたまらない。

 

「小鳥ちゃんたちはいまごろ山向こうのサガンにいるはずよ。顔なじみも多いし、わたしたちのことは伝えてくれてるでしょうから、山さえ越えてしまえばもう安心」

 

 そのルートの安全性を確認するためにも、山瑠璃と七星は少年たちを待っていたのだろう。まだ明るいこの時間に空を行くのは目立ちすぎるし、なにより八人もの妓女を運んだあとの「小鳥ちゃん」たちにこれ以上負担はかけられないのだ。自力で行くしかない。

 

 そうと決まれば、さっさと行動に移すだけだった。

 

「みんな、荷物は持ったわね? それじゃ、出発!」

「はーい」

 

 山瑠璃に続いて『燕の巣』を出たときには、街を包む黒煙はさらに勢いを増し、人々の怒号や悲鳴も大きくなっていた。それらを気に留めることもなく、一行は少年たちが先ほどおりてきたばかりの山に向かって歩き出す。

 

 少年だけは、しばし立ち止まり、振り返った。

 

 単独で集めた情報によれば、リュシエラの養家はもう、存在しない。彼女の足跡は、ひとつ残らず消されていた。この春の一座と、少年のなかにある記憶以外は。

 

 煙が、すこし目に染みた。一度ゆっくりと(まばた)きをして、少年はその街に背を向けた。