一、アウロラ(2)

 末兄アレクシスと、ヴェクセン帝国大公ベルナールがアヴァロン王宮に到着したのは、その三日後のことである。


 床に臥している国王に代わって、長兄シリウスが彼らを出迎え報告を受けているところに、アウロラは泣きながら飛び込んでいった。


「アレクシスお兄さま!」
「ローラ!」


 長兄と向き合っていた実直なすぐ上の兄は、アウロラの姿を認めると彼女を愛称で呼び、やわらかく抱きとめた。


「ローラ、そばにいてやれなくてすまない。心細かっただろう?」
「わたくしのことは、いいの。それより、おにいさまが……おにいさまが……!」
「エヴェルイートのことか? 大丈夫。すこし怪我をしていたが、元気だよ」


 嘘。すこしの怪我なんかではなかった。この兄のつく嘘は、やさしい。


「……アレクシスお兄さま、ご存じないの?」
「なんのことだ?」


 眉を曇らすアレクシスを見上げて、アウロラは涙を流し、嗚咽(おえつ)を漏らした。


「……ローラ? どうした、なにがあった!?」


 それに焦った様子の兄が、アウロラの腕を掴む。アウロラは逆にその手に縋ってしゃくり上げながら、叫ぶように言った。


「お、おにいさまが、行方不明だって……っ、おにいさま……!」


 そのまま泣き崩れた。周囲がざわついた。アレクシスがアウロラを抱いたまま、首だけを長兄シリウスに向ける。


「兄上」
「待て。私はそのような報告は受けていない。アウロラ、本当か、どこからの情報だ」


 シリウスのよく通る冷たい声が、アウロラの気分を高揚させる。長兄シリウスも、またとても美しいひとだ。繊細な顔のつくりのせいか、二十二歳という年齢のわりには少年のような透明感がある。実際、彼はひどく純粋で、だれにも見せないその内面はまだ少年なのだ。


「アウロラ、答えろ」
「兄上!」


 泣くばかりで答えようとしないアウロラの肩に、シリウスの手袋に包まれた手が伸びたとき、アレクシスが庇うように声を上げた。


「それはあまりに(こく)ではないですか。ローラの気持ちもすこしは考えてやってください」


 ああ、綺麗。なんて綺麗なひとたち。アウロラは嬉しくなる。


 アウロラの気持ちなんて、シリウスはとっくにわかっている。きっとだれよりも理解してくれている。アウロラと同じように孤独な長兄は、自分の本心を隠し、他人の本心を見抜くことに長けていた。三人の兄のなかで、アウロラにいちばん近いのは、彼だ。


 アレクシスに睨まれたシリウスは、それ以上追及しようとはしなかった。ただ暗い瞳をこちらに向けただけである。


「ローラ、すこし休んでおいで。落ち着いたらまた話そう。……だれか、王女を頼む」


 アレクシスの言葉に従った女官たちが、アウロラを支えた。


「……お兄さま」
「心配しなくていい。大丈夫だよ」


 きっと自身にそう言い聞かせているのだろう、アレクシスの笑顔は硬い。なにも知らない、やさしい兄。アウロラの対極にいる存在。


「……はい」


 アウロラは弱々しく頷いて、ことさら頼りない様子で歩いてみせた。その途中で、


「サイードを呼べ」


 というシリウスの声が聞こえた。予想どおりだ。シリウスは、サイードにだけはよく懐いている。あとは彼に任せてしまえばよい。


 実際は、エヴェルイート失踪の報など受けてはいなかった。だがそれは変えようのない事実なのだから、その情報源がどこであろうと構わないのだ。アウロラの思惑どおりに、事は進んでいる。


 うつむきながら巡らせた視線の先、パルカイ民族の持つ夜を思わせる色彩のなかにひとつだけ、真昼の太陽のような金色が見えた。鮮やかな新緑色の瞳が、こちらを見据える。アウロラはすこし首を振り、両耳につけた紅玉(ルビー)の耳飾りを見せつけるように揺らしてやった。金髪のヴェクセン大公ベルナールが、その一見柔和な垂れ気味の目をわずかに強張らせた。


 その、夜。慰めに来たアレクシスに頼んで、アウロラはひそかにベルナールと面会した。失踪するまえの許嫁(いいなずけ)の様子を知りたい、と涙ながらに訴えれば、簡単なことだった。人払いをして、ふたりきりになる。


「ご無事でなによりですわ、ベルナールさま」


 にっこりとほほ笑みながら、先手を打ったのはアウロラだった。


「ああ、あなたも。じつにお元気そうだ、アウロラどの」


 ベルナールも笑みを浮かべる。それを見て、アウロラは懐かしささえ覚えた。直接会うのは、はじめてだ。だが、ふたりはもう何度もやり取りを交わしていた。長兄シリウスがマティアス帝と結託したように、アウロラもベルナールと手を組んでいたのである。


「許嫁が行方不明だというのに。……とでも言いたそうなお顔をしていらっしゃるわ」
「参ったな。本当に聡い姫君だ。では、単刀直入にお尋ねしようか」


 そこでベルナールの表情が変わった。

「なにをした?」


 アウロラはなおも笑顔で答えた。

「あなたにお話しする必要があって?」


 ベルナールの目もとが険しくなる。


「エヴェルイートを守ってほしい、と私に言ったのは、あなただったはずだが」
「そうですわね」
「ならば私にはそれを完遂する義務がある。取り引きは公正に行われるべきだ」
「公正? あなたがそれをおっしゃるの?」
「なに?」
「わたくしの大切なひとを奪おうとしておいて」


 言いながら、アウロラは紅玉の耳飾りに触れた。ベルナールの視線が一瞬、揺れる。それで確信を深めた。


「これはあなたのものでしょう、ベルナールさま?」

 まっすぐに、視線をぶつけ合った。ややあって、ベルナールが答えた。


「いかにも。それは私があのひとに渡したものだ」


 そう、と返事をしながら、アウロラは目を細める。

「ねえ、ベルナールさま。たしかに、おにいさまのことはあなたにお願いしたわ。けれどわたくし、ここまでしろとは言っていないの」


 アウロラの胸には、静かな怒りがあった。だが表面に出たのは冷笑だった。


「惚れたの?」


 今度は、ベルナールの視線が揺れることはなかった。
「……そうだな」


 聞いた瞬間、アウロラは耳飾りをもぎ取るとベルナールの足もとに投げ捨てた。


 知っていた。わかっていた。竜舎でエヴェルイートと再会したとき、なにかが変わっていることに、気づいていた。根拠などない。もしかしたら、それは女の勘などといわれるものなのかもしれない。だから根拠を得るために、エヴェルイートのまえで、わざわざベルナールの名を出したのだ。それに対するエヴェルイートの反応を、アウロラはしっかりと見ていた。きっと本人はまだ気づかないような、些細なものだったけれど。


 いつも。いつも、いつもいつも。アウロラは、選ばれない。


「……それはお返しいたします。もう必要もないでしょうから」
 乱れそうになる呼吸を制して、アウロラは言った。そのまま背を向ける。


「アウロラどの」
 その背にかかる、ベルナールの声。そんなものは無視してしまえばよかったのに。


「あなたは、本当にそれでいいのか」


 やけに耳に残る、どこか哀れむようなその響きが、煩わしかった。


「……あなたに言われる筋合いは、ないわ」


 振り向くことなくぽつりと返して、立ち去った。